(名前のない怪物ネタバレ)



あれは一昨年の冬のこと。


後に雪の降り始める寒い日だった。


スクランブル交差点の中心で、一人の男性が立ち止まり、佇んだ。


栗色の髪に濃いグレーのスーツを着たその人は、何の感情も伝わってこない表情が印象的で。


人の流れに呑まれることもなく、空を見上げ微動だにしなかった。


まるで世界から取り残されたような雰囲気に意識は奪われた。


通り過ぎる際もなんとなく目が離せずにいたけれど、彼の視界に私が映ることはなかった。


そのまま横断歩道を渡り終えたとき、一体のドローンが前を横切った。


ドローンを見て、あの人は何処か精神的に不安定な部分があるのではないかと頭を過り、振り返る。


顧みた今も、彼が歩き始める様子はなかった。


けれど結局ドローンは彼を気に掛ける素振りも見せずに。


私以外に彼に関心を寄せている人もいないようだった。


ドローンも人間も素通りをする中。


当然、彼の事情などお構いなしに、いよいよ点滅を始めた青。


それを見た瞬間、私の足は咄嗟に動き、横断歩道を引き返していた。


コンクリートを蹴るヒールの音が脳内で響いた。



「―――…危ないですよ!」


声を掛ければ、僅かな間の後にゆっくりと私に向いた視線。


それからその視線をついに赤になってしまった信号機にも流し。


彼は「…ああ」と呟いた。


短い音だったけれど、その発声は柔らかだった。


でもその柔さは逆に場違いに思え、違和感が鼓膜に伝った。


そして彼は私の目を見て、口角を緩やかに上げ。


私の手首を掴み、走り出した。


突然のことにただ驚き、されるがままで手を引かれる。


私の進む方向とは反対側に来てしまったと同時に、背後では止まっていた車達が動き始めた。


「あの…、」


手首はまだ握られたまま。


どうしたらいいのか分からずにいると、再び微笑みを向けられた。


「優しいんだね」


紡がれた言葉は、やっぱり穏やかだった。


改めて眺めたこの人は、優しげな造りの顔にある目の下のほくろが特徴的だった。


でもその面持ちや声色から滲む無機質さはどうしても拭えなくて。


心は小さな不安を覚えた。


「そんなことないですけど…、でも動く気配がなかったから気になってしまって…」

「…今はね、少し、お姫様が恋しくなってしまったんだ」

「お姫様…?」

「もうすぐ僕とお姫様との世界も終焉を迎えるから」


そう言って彼は遠くを見つめた。


……恋人のことを“お姫様”と呼んでいるのだろうか。


それでも意図は掴みきれずに、返す言葉に詰まってしまった。


そんな中、手首を捕らえていた手が、次は私の耳朶の裏側に触れた。


またもや思いもよらぬ出来事に、内心で無意識に身構える。


けれど私の怯みなどお構いなしに、彼の眼差しは私の耳朶に落とされていた。


そこにあるのはパールとスワロフスキーのホロが施されたイヤリング。


「キラキラしてるね、」

「………イヤリング、ですか…?」

「うん、君によく似合っている」

「ぁ…ありがとうございます、これお気に入りなんです」

「そう、ならキラキラしている物が好きなんだ」

「…?…はい、好きですけど…」


一向に真意の見えてこない会話。


自分が今ここで何をしているのかすら曖昧になってきて。


回りには忙しなく動くこの街の人間が溢れているけれど、目の前のこの人を見ていると、自分まで世界から浮いている錯覚に陥りそうになる。


「だったら君も、玉座に座ってくれるかな」

「玉座?」

「僕が飾ったお姫様の椅子なんだ」


だけど、玉座。


そう口にした刹那、彼の表情は色付いた気がして。


つられて私の頬も、彼と向き合ってから初めて、自然と緩んだ。


「…大切な椅子なんですね」

「ああ、君ならあの玉座も似合うんじゃないかな」

「私?…でもそんなに気持ちのこもった物なら、きちんと好きになった“お姫様”に座ってもらった方がいいですよ」

「きちんと好き?僕はお姫様をきちんと愛すつもりだけど……君はそういうお姫様にはなってくれないの?」


相変わらずゆったりと紡がれる言葉は、あまりにも唐突で。


本気と取るには軽すぎて、でも読めない口調が冗談と断定させてもくれなくて。


「あー…ふふ、けど私は、“王子様”はちゃんと自分で見付けたいから」

「へぇ…」


本心を伝えると、束の間驚きを見せた彼の瞳は、すぐさまたおやかに細められた。


それから今度は手のひらで頬を包まれ。


外気と同化した冷ややかな温度が、心臓に突き刺さったような心地がした。


少しだけ気を許した矢先だったけれど、咄嗟に肩が竦む。


「君の頬は、暖かいね」


嬉しそうに告げた彼に見据えられ、身動きがとれなくなる。


このままじゃこの人の空気に呑み込まれる。


何故かは分からないけど、それは避けなければいけないと感じた。


だけどこの空間から抜け出す術が見付けられずに立ち尽くす。


でもその時。


私の物ではない端末の着信音が鳴り渡って。


その音に反応を示した彼。


表情から嬉々とした物が引き抜かれるや否や、私の体温を奪う冷えた手のひらも離れていった。


空気は壊れ、金縛りも解ける。


このタイミングで端末が鳴ったことに、無性に安堵した。



彼はポケットから音の鳴る端末を出し「もうこんな時間か…」と独りごち。


私に視線を戻してから「大切な用があるんだ、じゃあね」と残し、背を向けた。


玉座に座って欲しいなんて言いながらも、随分とあっさりした引き際に救われる。


そんな風に感じることも、何故だか理由は分からなかったけれど。


取り戻されていく平熱。


彼はおそらく、一度切れてしまった着信に折り返しているんだろう。


端末を耳に宛てる背中はあっという間に遠ざかっていった。


ふぅ…と息を漏らしつつそれを見送り、私も背を向けて。


もう一度横断歩道を渡り、彼とは反対方向へ進んだ。



それからも何度も同じ場所を通っているけれど、あの彼を見掛けることは一度もなかった。


時間で言えばたかが数分の出来事。


でもその記憶は、日々産まれる新たな出来事に埋もれこそすれ、決して薄れることはなく。


ここを通ると時々思い出す。


今も―――。


「――…私の王子様」


見えてきたあの日の歩行者信号。


青が点滅を始めたところだった。


あの日と違うのは、隣には大切なぬくもりがあること。


ふとあの出来事が蘇ったから、少し冗談めかして聖護くんを“王子様”と呼んでみた。


すると聖護くんは一瞬思案するような表情を作った。


けれど、すぐに眉を下げ微笑んで。


「なんだい僕のお姫様、…とでも返せばいいのかな」


優しい目付きで私を見下ろした。


その視線と返答に嬉しくなり、くすくすと笑いながら寄り添い、次の青を待った。


「あのね、聖護くん、二年前にね―――」


それからあの日の出来事を聖護くんに聞いてもらう。


だけど、そうしたら聖護くんは、いつもとは違う少し難しい顔をして。


「藤間幸三郎…」と呟いた。


聖護くんの口から出てきたのは明らかな人名だった。


まさかこんな反応が帰ってくるとは思ってもみずに、きっと瞳には戸惑いが揺れた。


「聖護くん…もしかして…知ってる人?」

「ああ、知っているよ、その日の君の話は、彼……藤間から聞いたからね」

「えぇ…!」

「彼も桜霜学園で教師をしていたんだ、今はもう辞めてしまったけどね」

「そうなの!?」


待ち受けていたのは物凄い偶然。


聖護くんとあの彼が知り合いだったことに、ひたすら愕然とする。


おまけに聖護くんは更に予想外の事実を積み重ねて。


「ちなみに、ヒロインが漠然と安堵したその電話、僕が藤間に掛けたものだよ」

「!、ほんとに…?」

「ここで嘘を吐いても仕方ないだろう」


驚きが畳み掛けてくる。


あの時、あの言い様のない不安感を散らしてくれたのが聖護くんだったなんて。


あまりにも奇跡的過ぎて、感極まる。


「聖護くんは本当に私の王子様だね…」


真面目に口にすると気恥ずかしいような台詞が、真摯に溢れた。


それに対して聖護くんは何も言わなかったけれど、緩やかに髪を撫でてくれた。


今私はまた、より深く恋に堕ちた。



「だが…ヒロインの感じたその不安はあながち間違いでもなかったんだろう」

「ぁ……じゃあ、とーまさんって、やっぱり軽いの?」

「うん?…フフ、軽い?」

「だって会って間もない私にいきなりお姫様だなんて……信じてたら弄ばれたんじゃないかって…」

「弄ぶ……まぁ…そうなる可能性は大いにあったね、…現に藤間はあの後すぐに幼少期の記憶と繋がる少女と再会をし、“新しいお姫様”としてあの椅子に座らせていたから」

「やっぱり誰でも良かったんだ…!」

「フ、さすがに誰でも良かった訳ではないとは思うけど…、藤間も君のことは“面白い子に会ったんだ”と話していたし」

「あの人が?」


途切れることのない会話に夢中になりながらも、示された青を見て歩みを再開させた。


一斉に人が流れる中、留まる人間はやはりあの日以来一人もいない。


聖護くんによって説き明かされる彼は、私が思うよりもずっと“お姫様”への想いが強い人だったんだろう。


「でも……、とーまさん、新しいお姫様を見付けることができて、きっと良かったんだよね」

「…、嬉々として、新しいお姫様と二人だけのお城を作る、と言ってはいたけどね」


一時とはいえ、私にも向いていたお姫様への執着。


その心が理解できなかった故に、深淵に引き込まれるような不安があったのかも知れない。


けれど今、聖護くんの存在に上書きをされ、澄んでいるだけものへと生まれ変わった記憶。


「ふふ…お城、ていうか“お姫様”とか“お城”とか、聖護くんにとったら全然興味のないことだったでしょ?」

「そうだね、だから二人だけの城を作ると言われた時は“ふぅん…”とだけ返したよ」

「あはは、素っ気ない」


付き纏っていた違和感は消失をする。


だからもう、ただ軽やかに笑えた。



「…それにさ、ヒロイン、」

「ん?」


横断歩道を渡り終えると、聖護くんの声のトーンが僅かに変化した気がした。


だから歩きながらも改めて見上げる。


目が合った聖護くんは、慈しむような笑みを崩すことなく。


「このご時世、赤信号で立ち止まる他人を気に掛け、おまけに“王子様は自分で見付けたい”なんて言う女の方が余程興味深いと思わないかい?」


まだ出逢う前、聖護くんがあの彼から聞いた私の姿にも興味を持ってくれていたことも知り。


心はまた新たな安寧を覚える。


喜びから笑顔で頷けば、聖護くんも同じように頷いてから言葉を続けた。


「楽しませてくれていたから一時期行動を共にしていたし、縁が切れてしまったことは今でも残念に思っているけれど……、ただ…藤間の王子かぶれの言動にはまともに付き合うつもりはなかったんだよ」

「ふ…そうだったんだ」

「だから、その女の存在の信憑性も測りきれなかった」


聖護くんの話を聞いているうちに、聖護くんとあの彼の関係性もなんとなく捉えることができた。


「それに本当に、そんな女がいるのだとしたら、そのうち自然と僕の目に付くだろうと思っていたからね」


それから聖護くんと私についても。


「案の定……、知らぬうちに出逢っていたわけだ」


私達は遅かれ早かれ出逢うことのできる運命だったんじゃないかと本気で思えて。


何の気なしに行っている自分の働きには全て意味があると信じられた。


シビュラの目を通す必要なんかなくても。


今の幸福は必然の上に成り立っていると言っても過言ではない気がした。



「ちゃんと実在したんだね、“僕のお姫様”は、」


そうして甘やかに降り注ぐ言葉。


仰々しく、どこかあの彼への皮肉も含まれているような。


でも偽りは見当たらない口調で。


今日も私は世界一の幸せ者に仕立て上げられる。


ちょうど目に入ったショーウインドウに映る二人の姿も、幸せを体現しているように見えた。


そんな自分達を見て、不意に彼と“新しいお姫様”の行く末が気になった。


きっと彼らもシビュラに舞台を用意されたわけじゃない。


「…ねぇ、聖護くん、とーまさんとお姫様は今も幸せに暮らしてるかな」

「いや…結局その少女のことも、藤間はすぐに要らなくなったようだよ」

「そうだったの…?…どうして?」


だけど…やっぱり全ての恋が順調に進むわけではないらしく。


どうしようもない現実はいつだって隣り合わせだった。


「少女が自分ではなく他の男に気を寄せていることを察したから…なんじゃないかな」

「あぁ……それは…女の子の意志を無視して突き進んじゃだめだよ、こーざぶろー…」


あの彼の雰囲気から察することのできてしまう理由に困ったように笑いつつも。


切なさを表に出したくはなくて、空気が重くならないよう、今日知ったばかりの名前をふざけて呼んだ。


すると聖護くんも、控え目だけど声と共に笑ってくれたから、なんだかほっとした。



だけどその後に、おもむろに聖護くんの歩みが止まって。


つられて私も立ち止まる。


どうしたのかと思い眺めたけど、聖護くんの表情は優しいまま変わりはなかった。


「それにしても…ヒロイン、」


それから右手が伸びてきて、手のひらでそっと頬を包まれた。


私の全身を知り尽くした温度が頬に馴染む。


「君はよく無垢なまま、僕の元に堕ちてきてくれたね」


紡がれた言葉の意味に、思い当たる手懸かりはなくて。


ただ「無垢…?」とだけ反芻した。


でも聖護くんはそれ以上の答えをくれるつもりはないのか。


何も言わずに私を見つめている。


こうなるともう私は異彩を放つ瞳から目を逸らせなくなる。


このままキスをされそうな空気まで察した。


決して人通りの少なくはない此処で。


あの日と同じように世界から浮わつく白昼夢に呑まれる。


だけど相手が聖護くんだと、状況を考慮するよりも先に、こんなにも心地好くなってしまうのだから手に負えない。


あと少し唇の距離が近付いたら、瞼を落とす。


そう思っていた。


でも。


「ヒロイン、」

「ん…?」

「帰ろうか」


聖護くんはきっと、私の直感を理解した上で、頬から手を離し空気を覆した。


反射的にぽかんとしてしまうと、聖護くんの指が私の唇をなぞった。


「キス、してほしそうな顔だね」

「ぁ……だって、されると、思った…」

「こんな雑踏の中でしてもいいのかい?」

「ふふふ、いつも所構わずしてくる癖に……どの口がそんなことを言うの」


返ってきた今更な答えに気が抜けて笑う。


聖護くんも口角を吊り上げ笑った。


「今唇を重ねたら今すぐに此処で犯すことになるけど」

「え!?…それは困る」

「だろう」


私の王子様はやっぱり今日も掴みきれない。


聖護くんと彼の間に何があったかなんて、知る由もないけど。


聖護くんに思う所があるのは定かで。


それが言えないことならば、からだで受け止められたらいい。


その為のからだだ。


柔順に従いたい。



だから「帰ろう、聖護くん」と言えば。


聖護くんも満足げに「ああ」と言って、手のひらを重ね指を絡めてくれた。


手を引かれて帰路を辿る。



早く、誰の目にも触れないこの世界の隅で、二人きりの時間に籠りたい。


抱かれるんじゃなくて、犯される為に。




王子様のレプリカ


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