「チェ・グソン」

「なんでしょう」


作業の休憩中。


紅茶を淹れダンナの前に置くと、神妙な視線を感じた。


それから声を掛けられ何かと思っちまったんだが。


「体重が2キロも増加したんだ」

「……はい?」


形になった言葉は……言っちまえば、どうでもいいようなものだった。


しかし“どうでもいいですよね”と返せる雰囲気でもなく。


「…ダンナのですか?」

「ああ、こんなことはかつてなくてね、」


詳細を聞く姿勢を作れば、事の説明を始めたダンナ。


犯罪についての共謀をしている時と変わらぬ口調で言葉を連ねた。


「成長が止まり、鍛練を重ね、この体型になってからは長らく維持をしていた」

「でしょうね、ダンナが肥えたところなんて見たことないですし」

「それこそホームセクレタリーなんかに頼る必要もなくね、自身の身体は当然のように自身で管理ができていたんだ」

「ていうか今も見た目は全く変わりませんけど」


群を抜いて頭の良い人だが、食事にはある意味無頓着な所もある。


食材にはこだわりがある癖に、食事を摂ることに関しては一切こだわらない。


何かに熱中している時は、一食抜くなんてこともざらだ。


そんな性質故に、その逆もまた然りで。


「それでも2キロ増加したんだよ、日々多少の誤差はあったとしてもこんなにも長く増加したままということは初めてだ」

「はあ…」


空返事をしつつも、俺にはダンナの体重増加の原因も見えるような気がした。


「そうなっちまったのは、いつからなんで?」

「細やかに気に掛けていた訳ではないけど、今にして思えば三、四ヶ月程前から緩やかに増加し始めたかな、定着してしまったのはここ一ヶ月だね」

「…ヒロインさんと出逢って、多くの時間を過ごすようになってからですねぇ…」

「確かにそうだね」


時期を聞き、やはり俺の直感は外れではないと思えた。


天然の食材に魅せられたヒロインは頻繁にスイーツを買って帰って来るようになった。


ヒロインが「聖護くんも一緒に食べよ」と言えば、にこやかに同意をしてやるダンナのいる光景は日常となっていた。


その上二人は共に出掛けることも多々あるから、その行動は出先でも変わらぬことが予測できた。


むしろ買い食いをしている回数の方が、更に増す可能性もある。


とは言えダンナの本質には何ら変わりはなく、必要があれば即行動に移すし、運動量が減っているわけでもなさそうだった。


ということは、やはり単純に、スイーツを口にする回数が増えただけだろう。


「じゃあ…原因はヒロインさんなんじゃないですか」


優雅にティーカップに口を付けていたダンナ。


だが確信めいた俺の言葉を聞くと、若干呆れたように「ハ…」と笑いながら、カップをソーサーに戻し。


「馬鹿だな、チェ・グソン、いくらヒロインから甘い香りを感じ、舌を這わせれば現実に甘かったとしても、あの女は糖分ではない」


…ダンナの方が馬鹿げたことを言い始めた。


こんなことでもダンナに真面目な顔で説かれると、物凄い難問に対する回答を聞かされている気分にもなっちまうから厄介だ。


しかしこれは明らかにダンナの発想が思いも寄らぬ方向へ向いている。


「ヒロインさんは糖分ではない、そんなことは俺だって分かってますけどね…」

「ならば食した所で実際に体重が増加するわけないだろう」

「ええ…それも分かりますけど…」

「だったら何故そこでヒロインが出てくるのかな」


―――ダンナとヒロインは、まぁ…なるべくしてなった、と言うべきだろうか。


数週間前、ヒロインがきちんと自身の気持ちをダンナに伝え、ダンナもそれを快く受け入れてやったとのことだった。


俺から見ても波長が合っている二人。


以前から睦まやかだったが、一線を越えてからは尚、関係性を楽しんでいるように見えた。


骨抜き、という言葉があるように、ダンナもそんな状態に近いような気がしちまうんだから手に負えない。


しかしこの人が女に関しこのような状態に陥ることは何処か愉快でもあり。


間食と買い食いのせいなんじゃないですか、と返すべきだったかも知れないが、息抜きも兼ねあえて代わりの言葉を口にしてみた。


「…ヒロインさんを想う気持ちの分が増えたんじゃないですか?」


起こり得る訳がなく、これもまた馬鹿げた返答でしかない。


ダンナの反応を期待しつつ言ってはみたものの、それでもダンナのことだから、鼻で笑うなり、メルロポンティ辺りを引用し俺のことを執拗に咎めるなりするだろうとも思っていた。


だがダンナはそんな予想も通り越し。


僅かに考え込んでから、満足げに瞳を細め。


「そういったことが有り得るのだとしたら、それも一理あるね、チェ・グソン」


とびきり穏やかな笑みを俺に向けた。


「君はそういった経験はあるかい?」

「………、いやぁ…ありませんねぇ…」

「そう……残念だ、実体験が聞ければ良かったんだが」


まさか肯定されるとは思ってもみずに。


もうここまで来ちまったら、ダンナにとって何が正解なのかも分からねェ。


「…でしたら、ヒロインさんに聞いてみたらいかがですか」

「そうだね、そうしてみるよ」


ダンナ程の人間が本当に買い食いという事実に気付いていないのか、未だ疑わしい部分もあるが。


それでもダンナが俺の返答に満足をしているのなら、今日のところはそれでいいのかも知れない。


「…ではダンナ、そろそろ、」


この話題は切り上げ、さっさと作業に戻ることが何よりも賢明だと悟った。


「――…意識は絶えず自己の歩みを捉え直し、同一のものと認知できるような一個の対象のうちに集約し定着させ、」

「…まだ続くんですね……それは誰の言葉ですか?」

「メルロポンティだね」

「あー…ここで出てくるとは…」

「ここで?」

「いえ…こちらの話です」


しかし俺の想いとは裏腹に、今更メルロポンティを語るダンナはまだ会話を切り上げるつもりはないのか。


「この言葉には続きもあるんだけどさ、…続きはチェスをしながらでもいいかな」

「チェス…!?」


おまけに今度はチェスの要求をし始め。


「随分と過剰に反応をするね、何か問題でもあるのかい?」

「問題と言いますか…、作業の方はよろしいんで…?」

「ああ、まだ構わないよ」

「そうですか…ならお付き合いしましょう」


俺の冗談に哲学的な考えが絡み付いたこのおかしな会話を、引き続き弾ませねばならないらしく。


もう半ば諦め気味に、仰せの通りチェス盤を広げ駒を並べることにした。


ダンナとは時折こうしてチェス盤を挟むが、勝率はやはりダンナの方が上だった。


だが今日のダンナの様子ならば、連勝も狙えるのではないかと小さな意識で感じていた。


楽しげに哲学とヒロインとの日々を並べるダンナの声に耳を傾けながら駒を進める。


「それから、この間は映画も観たんだ」

「お二人で映画鑑賞もなさるんですね」

「ヒロインの読んだ本に出てきたらしくてね、禁じられた遊びという古い映画だよ」

「聞いたことはあります」

「それを観たヒロインはね、…だが先に、チェックメイトだ」

「あ…」


…結局、連勝という俺の考えは甘かったらしく、今日もダンナの勝率は伸びていくに至った。


発言がぶっ飛んじまってる箇所があったとしても、やはり思考は正常なのだろう。


そうこうしているうちにダンナは、ヒロインとの約束の時間になったらしく、「夕飯は外で済ませるよ」と告げながら腰を上げ。


軽やかな空気を纏い部屋を出ていった。


また体重増加の原因を作るんじゃねェか…と思いつつ背中を見送った。


「ふぅ…」


吐いちまった一息に思わず苦笑い。


だが先程までのダンナとの時間を思い返しても、ヒロインとの日々を聞かされることに嫌悪はなかった。


あの女が大切に想われていることに、否定的な意見を持つ理由はないのだから。


例え相手がとてつもない犯罪者だったとしても。


ヒロイン個人が幸福ならば、俺が口を出せる問題でもない。


犯罪にまみれた日々に突如訪れた華やかな彩りだが、今後も受け入れていくのみだった。


それから一つ伸びをし、パソコンに向かい目の前のデータに専念した。


作業は順調だった。



―――翌日。


今夜はヒロインが三人で夕食を取りたいと言うから、食材片手に歌舞伎町へ向かっていた。


すると少し離れた所に帰宅途中らしいダンナとヒロインの姿があることに気付いた。


どうやら今日も二人は買い食いをするらしく、たい焼き屋の前で立っていた。


ダンナがポケットから出した小銭を店員に渡せば、引き換えに店員がたい焼きを差し出した。


だがダンナの手にはたい焼きが一つしか置かれずに、しかもその一つはヒロインへと渡った。


どうやらダンナは食べるつもりはないらしい。


正直それは予想外の出来事だった。


案の定ヒロインにとっても予想外だったんだろう。


たい焼きを受け取りつつもダンナを見上げ小首を傾げて、「聖護くんは食べないの?」と聞いている。


それに対しダンナは柔らかな面持ちで「僕はいいよ、ヒロインが食べな」と返した。


続けて「どうして?」とヒロインが聞くと、「最近食べ過ぎてしまっているからね」という会話が唇の動きから読み取れて。


今のやり取りを眺め、やはりダンナは体重増加の原因を把握しているはずだと思えた。


故にダンナは昨日のアレをわざとやっていた可能性の方が有力になってくる。


その上ああして自らセーブができるのならば、本当に体重が増加したのかどうかも怪しい。


そもそもダンナとは体重などいちいち気に掛けるような男だろうか。


まずそこから疑問にもなってきて。


もしかすると、ヒロインの話をしたかっただけなのかも知れねェなぁ…と思うことが、何よりも腑に落ちた。



俺が一人納得している中、ヒロインはたい焼きに視線を落とし、それからもう一度ダンナを見つめ「でもね私は聖護くんと一緒に食べるのが幸せだし、一番おいしく感じるの」と伝えた。


いかにもヒロインらしい発想だと思えた。


すると一瞬にしてダンナもヒロインの言葉にほだされちまったのか。


眉を下げ観念したかのように頷いて。


「ヒロイン…、そっか…なら僕も食べようかな」

「でもじゃあ…確かに私も最近食べ過ぎてるし、聖護くん、これは半分こにしない?」

「フ、半分こ、いいよ、ヒロイン、そうしようか」


ヒロインが嬉そうにたい焼きを割れば、片方を素直に受け取ったダンナ。


半分になったたい焼きを口に運びつつ、二人は手を繋ぎ直し歩みを再開させた。


そして方向転換をした際、俺のことが視界に入ったようで。


「あ、グソンさーん」


俺に気付いたヒロインは俺にも嬉しそうな笑みを向けた。


「グソンさんも今帰り?」

「ええ、今から向かうところでしたよ」

「じゃあグソンさんも一緒に帰ろー」


ここからは必然的に三人で帰ることとなった。


談笑を続けながらも、たい焼きを口に運ぶ二人をぼんやりと眺めていると、先程浮かんだ事柄が無意識に音となって零れた。


「…のろけたいんなら、素直にのろけてくださって構いませんからね…」


だがそれを聞いたダンナは、意味ありげな視線を流しつつ、口角を吊り上げ。


「なんのことかな、チェ・グソン」


あくまで素知らぬふりを貫くようで。


この笑みから本心を読み取ることはやはり不可能だった。


しかし同時に、ダンナのしらを切る態度などお構いなしに、ヒロインの瞳が輝きを放ち始め。


「え…!グソンさん、聖護くんって私とのことをグソンさんにのろけてくれてるの?」


キラキラとした眼差しを向けられ、がっかりはさせたくねェと思う。


きっとダンナも、俺も、いつの間にかヒロインには随分と甘い。


内心ではそんな自分を自嘲気味に笑いながら、昨日の会話をヒロインに伝えた。


「ヒロインさんへの想いが体内に募っているだとか、映画を観て流していた涙が清らかだったとか、色々言っていましたよ」

「うそ…!…本当に?」

「はい、ダンナはヒロインさんのことが可愛くて仕方がないようですよ」


改めて言葉にすると、やはりのろけだ。


ダンナは認める気がないようだが、間違いなくのろけだ。


ヒロインも自身の知らぬ間に、こんなに風に語られていたことが相当嬉しかったんだろう。


「ほんとに…?聖護くん」

「ああ、愛らしいと思ったり、愛おしいと思うことは多々あるよ」

「聖護くん、…てことは、私かわいい…?」

「ああ……うん、言葉で表すのならそうなるね」

「…かわいい?」

「そうだね、ヒロインは可愛いよ」

「!!」


まばゆい視線は、今度はダンナに送られ。


ダンナの口から可愛いという単語が出ると、溢れる喜びは一層増した。


「聖護くんがかわいいって言ってくれた…!!」

「ヒロイン、それがそんなに嬉しいのかい?」

「嬉しいよ!好きな人に言ってもらえるそういう言葉は格別に嬉しいよ」

「へぇ…いちいち言葉にするまでもないと思っていたけれど、そうでもないようだね」

「ありがとう!グソンさん!!」


だがここでまた予想外の出来事。


幸福を露にするヒロインは、なんと横から俺に抱き付いてきて。


「!?俺、ですか…!?」

「…待て、ヒロイン、何故今チェ・グソンに抱き付く必要があるんだ」

「だってグソンさんのおかげで聖護くんからかわいいって言葉が聞けた、ありがとうグソンさん」


無邪気に笑うヒロインを、食材を持っていない方の手で咄嗟に受け止めちまったが。


いつかヒロインが俺のことを兄のようだと言ってくれたように、今の俺にとってヒロインは妹のようなもので。


この触れ合いに男女の意味合いは皆無だった。


故に何の差し支えもなかった。


「チェ・グソン…君はヒロインを上手い具合に手懐けているんだね」


しかしダンナにとってはそう簡単に割り切れることでもないみてェで。


美しく整えられる笑みが、凄まじく恐ろしかった。


「ヒロインをじゃらす暇があるのなら、昨日チェスに耽ってしまった分も含め、明日からは作業の方を倍速でお願いしようかな」

「ダンナ…!勘弁してくださいよ…、今でも最速でやってますって、………ヒロインさんも…抱き付く相手を間違っていますよ」

「うん?ふふ、間違ってないよ?」

「ああもう…ヒロインさん…!!」


この食えない主人と、幼気な女に掻き乱される日々はこれからも続くのだろう。


いつまで続くのか、皆目検討も付かないが。


核にある充足感に、ささやかな会心を積み重ねていけたらいい。


だから、いくらでも付き合おうじゃねェかと、改めて腹を括った。




シュガリーな罠


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