精神的な調律。


出逢ったばかりの頃、聖護くんは紙の本にこだわる理由をこう聞かせてくれた。


今思えばあの時から既に、聖護くんが織り成す独特の魅力に引き込まれていた。


少しでも近付きたくて私も紙の本に触れるようになった。


そして今では聖護くんの言っていたことの意味も理解できるようになった。



今日もお昼休みに開いた紙の本。


でも読み進めてもきちんと頭に入って来ない感覚が付き纏って。


結局また読み返すはめになりそうだったから読書は諦めた。


原因は分析するまでもなく。


私の全てが聖護くんで埋め尽くされていて、他の物が入っていく余地がないから―――。



昨夜、とても怖い思いをした。


聖護くんの本を読ませてもらうようになって、想像したことのない世界や出来事、感情を思い描けるようにもなっていた。


でも実際に自分の身に降りかかると、想像では追い付かない程の恐怖で。


怖くて悲しくて悔しくて仕方なかった。


だけど聖護くんが助けに来てくれた。


慰めてくれた。


今も端から見ればきっと平気な顔して、ここでこうしていられるのは聖護くんのおかげ。


あんな目に遭えば色相だってすごく濁ってしまう可能性があったのに。


今朝の色相も、いつもよりは濁ってはいたけれど、問題視するほどではなかった。


おまけに聖護くんのことを想えば想うほどクリアになっていくようで。


現に休憩中、続かなくなった読書の代わりに携帯用の測定器で色相を見た時も、朝よりも綺麗になっていた。


だから今夜も聖護くんと過ごせば、明日の朝には完璧に元通りになるだろうと思えた。


今の私にとって聖護くんの存在がどれだけ大切で偉大か思い知らされる。



早く会いたい気持ちを募らせながら今日の勤務も無事に終えた。


それから外へ出て見渡したけれど、まだ聖護くんの姿はなかった。


待っているなら、と思い無意識に本に手を伸ばしていた。


だけど数個活字を追っみたけれど、昼にどこまで読んだのかすら曖昧で、やっぱり内容は頭に入りそうにもなかった。


だから今回もまたすぐにしまうことになった本。


何かをすることは断念して、ただ聖護くんを待った。


日の暮れ始めた空を仰ぎながら、独りで帰れないわけじゃないけれど……と思った。


夕べ怖い思いをしたから独りで廃棄区画まで帰ることに対して全く不安がないと言ったら嘘になる。


でも今朝聖護くんにも言った通り、本当に聖護くんのおかげで気持ちも安定していた。


だから、独りで帰れないわけじゃない。


だけど“迎えに来る”って言ってくれた。


聖護くんがああやって口にしたことは曲げないことも、もう分かりきってる。


時々支配的なその態度も私にとったら大切にしてもらえている証でしかないから。


おとなしく従うことで、聖護くんの優しさに甘えられる事実に自然と笑みが零れた。



「―――…ふ、美しい暴君…」


さっき本を閉じる前に目に入ったフレーズ。


これだけは切り取ったように残留していて、思考と混ざり合いぼんやりと口から出ていた。


するとタイミングよく後ろから続きを紡ぐ声がして。


「…天使のような悪魔―――だったかな」


振り向けば早く会いたかった愛しい姿。


安らぐ心。


「聖護くん」

「お疲れ様、ヒロイン、待たせてしまって悪かったね」

「ううん、全然だよ、迎えに来てくれてありがとう」


聖護くんの手が私の手を握る。


車までの短い距離でも手を引いてもらって歩いて、助手席に座った。


「――…平気だったかい」

「ん、大丈夫だよ、聖護くんのことばっかり考えてたし」

「フ、そう、それなら大丈夫そうだね」


聖護くんも運転席に座ると真面目な顔をして、まず私のことを見つめた。


主語のない言葉でも夕べのことについて気遣ってくれていると、すぐに分かった。


これ以上心配掛けたくないし冗談混じりに答えれば、聖護くんも安心したみたいに目を細めてくれた。


緩やかに走り出す車。


「夕飯は何か食べたいものはあるかな?何処かで食べていっても構わないけど」

「ぁ…でも今はとりあえず帰りたいかも……いい?」

「もちろんいいよ、じゃあ帰ってから考えようか」


ハンドルを握る聖護くんの端整な横顔を眺める。


これだけでもますます溢れてくる、好き。


告白をしようと決意してから、ここ数日は特にタイミングを見計らっていた。


水族館へ行きたいと言ったのも機会を探る為だった。


聖護くんに寄り添って水族館を満喫していれば、期待通りの雰囲気も訪れた。


でもいざ伝えようとすると、何故か何処か違う気がして。


言葉に躓いてしまった。


どうして言えないんだろう…と、思わず小さく溜め息が漏れると、その瞬間脳内では一緒に暮らしているあの家が浮かんだ。


そしてひとり腑に落ちた。


外にいても二人でいることには変わりないけれど、慣れた空間で二人きりがいいんだ、と。


聖護くんの空気で満ちているあの家。


でも今はもう私の居場所もあるって感じられるようになった。


何処よりも落ち着くあの場所で、気持ちを聞いてもらえることが一番だと思った。


そして一昨日の夜こそ伝えようと決意した。


なのに私が眠ってしまったせいで先伸ばしになって今に至る。


だから今朝はもう想いを留めておくことの方が大変だった。


今は、聖護くんからの返事がどんなものであっても、早く伝えたい気持ちが心を占めている。


家に着いたら今日こそ告白をする。



「…あ、そういえば聖護くん、今朝と服が違うね」

「少し汚れてしまってね」

「珍しいね、今日の槙島先生は絵でも描いていたの?」

「ああ…じゃあ赤の絵の具ということでいいよ」

「あはは、ということで、なの?しかもまた…」

「薄着、だと言いたそうな顔をしているね、また君に心配をされてしまうかな」

「ふふ、うん、だってやっぱり風邪をひいたら困るし」

「平気だよ、…さあ、ヒロイン、着いたよ」

「はーい、ありがとう聖護くん」


他愛もない会話をしながら改めて決意を固めていると、あっという間に地下の駐車場に着いた。


車から降りて、聖護くんに続いて家へ入る。


「ただいま」「おかえり」なんて言い合いながら靴を脱いだ。


脱いだ靴を整えてから顔を上げると、一足先を歩いている聖護くんの背が目に入った。


一見華奢に見えるのに、でも鍛え上げられていて男らしくて。


私を守ってくれる広い背中。


その事実にまた愛しさが込み上げてきて、抱き付きたい衝動に駆られた。


だから、本当はリビングか寝室でと思っていたけど。


「…聖護くん」

「うん?」


リビングに入る前に聖護くんのシャツの裾を軽く引っ張って呼び止めた。


少し不思議そうな顔をして振り向いた聖護くんの視線が降り注ぐ。


きっとここで呼び止められることは予想外だったんだろう。


でももう本当に我慢できなくて。


「………好き、です」


言葉にした。


すると聖護くんは目を丸くさせ、ただ私を見つめた。


今の聖護くんから感じ取れる感情は驚き。


それ以外はどんな風に受け取ってもらえているのか分からなくて、胸の高鳴りにも拍車が掛かる。


でもこれ以上曖昧になんてしたくないから、もう一度しっかりと伝える。


「私、聖護くんが好き」


真剣に告白をして、逸らさずに目を見ていた。


聖護くんが何かを言ってくれるのを待つ今の時間は、きっと数秒にも満たないけれど、とても長く感じられる。


この間に耐えきれなくなりそうで、沈黙を破る為に新たな言葉を探そうとした。


でもその時、聖護くんがものすごく優しく微笑んでくれて。


あまりにも柔らかい笑みだったから、それだけで安堵して、緊張をしていた全身の力が抜けそうになった。


けれど、座り込んでしまうかも知れないと思ったと同時に、聖護くんに右の手首を掴まれ引き寄せられ。


次の瞬間にはもう、聖護くんの腕の中で抱き締められていた。


聖護くんの甘い声が耳許でこだまする。


「ヒロイン」

「…はい、」

「やっと言えたね」


あの微笑みも、その声色も、この行為も。


全てから私を受け止めてくれていることが伝わってきて。


想いが止まらなくなる。


「っ…しょうごくん…好き、本当に好き……大好き、だいすき」

「嬉しいよ、ヒロイン」

「んっ…」


そうして耳に口付けをされたかと思えば、唇が重なって。


呼吸が浅くなる手前のゆるいキス。


夢見心地で、与えられるままに応じていた。


でも気持ちを伝えたから、今夜はきっともっといっぱい触れてもらえる。


そんなことを考えれば徐々にもどかしさも増していって、この先の展開にも期待を抱き始めてしまう。


「…ヒロイン、聞いてもいいかな」

「……ぅん?」


でもこのまま離さずにいて欲しい私の望みとは裏腹に、回されていた腕の力は緩められ。


見つめ合えるくらいの距離ができた。


心地いいキスが途切れてしまったことが淋しくて思わず見入ってしまうと、その綺麗な唇は柔らかく弧を描いた。


「名残惜しそうだね」

「…もっとしたいよ、聖護くん」


今は特に気持ちの全てを晒しておきたくて正直に頷けば、聖護くんはゆっくりと髪を撫でてくれた。


「素直ないい子にはまた後でしてあげるよ」


これだけで、お預けでもちゃんと我慢できる、と思う。


自分がここまで従順な女だなんて知らなかった。


でも聖護くんには全てを許して預けたい、そう心から感じるから。


「君が僕の何処を好きになったのか聞きたいんだ」


聖護くんが口にした問いを、今は必要のなくなった疼きと一緒に呑み込む。


それから聖護くんの顔に手を伸ばし、指先で頬をそっと撫でて。


「……どこを取ってもね、こんなに好きになったのは初めてなんだけど…、まず顔、」


あえてなぞらえた答え。


当然この答えには心当たりのあるはずの聖護くんも、察しを含んだ笑みを浮かべた。


「優しいところ、誠実なところ、一緒にいてほっとするところ、」


その後もあの日の夜と同じ答えを辿っていく。


かつての恋人のどこに恋をしていたのかと問われたあの日―――。


「からだを動かすことが好きなところも、見てるのも楽しい」

「ああ」


でも今、私の中にある全ての想いが、本当に初めての大きさで。


聖護くんがあの夜に言ってくれた通り、今までしてきた恋なんて比べ物にならない程。


知らなかった恋。


「誠実なところも、誰よりも大切にしてくれるところも」

「言っただろう、全て上回るものを与えてみせる、と」


あの夜かつての恋人を想って吐き出した言葉は、ただ陳腐に零れ落ちた。


けれど聖護くんを想って紡ぐ言葉は、口にする度に輝きが散りばめられていくようで。


「だから、その自信も、実行力も、」


次から次へと溢れてくる想いは止まらずに形になった。


あのとき触れた事柄だけでは収まりきらない想い。


「一度言ったことは曲げないところも、興味のないことにはとことん無関心なところも、」

「ヒロイン…それは褒め言葉だと受け取っていいのかな」

「うん、それに時々子供みたいに笑ったり、むくれたりするところも好き」

「…やはり褒められている気がしないけど」


言いながらも、さっきまでは微笑んでいた聖護くんだけど、僅かにむくれた。


でもやっぱりどんな表情も愛しくて仕方がなくて。


「いーの、だって、いいところじゃなくて、好きなところを言ってるんだもん」

「…なるほど……全て含めて僕を見てくれているということか」

「ん……ふふ、美しい暴君って、少し聖護くんに似合う言葉って思ってたの、そんなところも好き」


頷きながら言うと、聖護くんは少し眉を下げつつまた優しい笑みを取り戻した。


聖護くんに視線を向けてもらえることの幸せを噛み締める。


「それなら…例えばヒロイン、僕が天使のような悪魔だったとしても、君は真正面から受け止められるのかな」

「聖護くんを悪魔だなんて思ったことはないけど……うん…でも例えばそうだったとしても、私はもう聖護くんから目を逸らすことはできないから…」


何をどう考えても、聖護くんを想う先にあるこの感情が易々と覆ることはない。


その気持ちを答えれば、聖護くんの表情は満たされていって、私の心も満たした。


これから先もこうして聖護くんの視界の中にいられれば、それでいい。


「あとはね…知らないことをたくさん教えてくれるところ、紙の本を読んでるところ、そして朗読をしてくれるところ」


この場所は何があっても私を満たしてくれるに違いなくて。


有り余る知識と共に、日々多彩な喜びに触れられる世界。



「それから……賢そうな感じがするところ」

「ハ…相変わらずその物言いは利発さに欠けるな」


今度は、出逢った日のやり取りを反芻して、二人でくすくすと笑った。


数ヵ月前のことだけど、もう随分と懐かしく感じる。


ずっと昔から一緒にいたみたいな錯覚にすら陥る。


それはきっと、聖護くんが私という人間と向き合って、生き方や思想を深く理解してくれたからで。


「一緒にいたいだけじゃなくて、一緒に生きたいって、初めて思った」


世界でたったひとりの、恋しいひとに出逢えた。


「―――槙島聖護、他の誰でもない、あなただから、」


聖護くんに見付けてもらえたことは奇跡のような出来事。


今度こそ本物の恋を続けたい。


「…うん、悪くないね」

「好き、聖護くん、大好き」

「じゃあヒロイン、続きはベッドで聞かせてもらうとするよ」


聖護くんの好きなところならば、まだまだいくらでも伝えられる。


でもその時聖護くんが私の背と膝の裏に手を回し、軽々と抱き上げて。


目に映る風景は、また新たな輝きを持った。


「わ…!お姫様抱っこ」

「…?何故、今、感激をしているのかな、もう何度もしてると思うけど」

「でも、どんな感じか知らなかったからうれしい!しかもこんなに簡単に…!」

「ああ…君が起きている時にするのは初めてだったか」

「そうなの、…いつも色んな場所で眠ってしまって、ご迷惑をお掛けしています…」

「フフ、構わないよ、でもこんなに新鮮な反応が見れるならもっと早くしておくべきだったかも知れないね」


それから甘いキスが唇に落ちてきて、お預けへのご褒美をもらえた気分。


幸せ過ぎてからだがふわふわする。


地に足が着くことなく寝室まで運ばれる中、見上げて願う。


私の何もかもを、この暖かな腕の中で閉じ込めておいて欲しい、と切に―――。




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