※特殊な性的嗜好をほのめかす文章と、ロミオとジュリエットの結末に触れた文章があります。



今朝のヒロインの焦りようと落ち込み具合は面白かった。



今日は一限から授業があった為、ヒロインの起床を待っている時間はなかった。


しかし、身仕度を済ませ軽く朝食を取り、家を出る前にリビングでネクタイを結ぼうと手にすると、足音が聞こえてきて。


反射的にドアに目をやれば、血相を変えたヒロインが飛び込んできた。


いつもならばヒロインはまだ眠っている時刻。


「よかった…!聖護くん、まだいた…」

「おはよう、ヒロイン」


着替えもせずに、おそらく慌ててやって来たのだろう。


夕べのやり取りを気にしての行動だということは一目瞭然だったが、僕から触れることはせずにこやかに微笑んだ。


僕の姿を確認したことには安堵を見せたヒロインだったが、それでも少し意地の悪いことを言えば今にも泣き出すのではないかという表情で。


「聖護くん…夕べ、話があるって言ったのに…先に寝ちゃっててごめんね」


僕に駆け寄り、真っ直ぐに僕の目を見つめたヒロイン。


何もそこまで切羽詰まる必要はない気もするが、昨夜ヒロインはそれほどまでに決意を固めていたということだろう。


見つめ返せば、今までに見たことのあるヒロインの泣き顔も無意識に追想されていた。


その都度僕自身には様々な感情が渦巻いたとしても、ヒロインの涙はいつだって澄んでいた記憶。


そんなヒロインの流す清らかさに触れたくなり、このまま泣かせてやりたい気も起きた。


しかし生憎今はフォローしてやる時間がない。


本能的に、そのまま出勤させ泣き出しそうな面を他人に晒す事態は避けたいとも感じ。


頭の片隅で浮かんでいた揶揄は優しさだけにすり替えた。



「昨日は様々な場へ出向いたしね、疲れてしまったんだろう」

「でも、やっぱり…ごめんなさい」

「ヒロイン、」

「うん…?」

「どうやら僕は、君にそういう顔をされるといつも以上に離れ難くなってしまうらしい」


襟を立てネクタイを首に掛けながら言葉を紡いで。


僕の台詞に微かに頬を染めたヒロインに手を伸ばす。


だがあえてヒロインの体温から程遠い場所を選んだ。


髪に触れ、毛先を弄ぶ。


神経の通わない髪の先に触れる時間しかないことがやはり惜しかった。


「だから僕の為に、もう気にすることはないよ」

「ん…わかった……、」


分かったと言いつつも、未だ落ち込みを隠せていないヒロインに溜め息が零れる。


…いや、溜め息と呼ぶには随分と優しい吐息だった。


ヒロインの表情も行動も、僕が要因になっていることは愉快でしかない証だ。



「…じゃあ、聖護くん」

「何かな」

「今夜こそ私ちゃんと起きてるから、今夜…聞いてください」


考え込んでいたヒロインだが、今度は昨夜と等しく真面目な面持ちが落胆を上回ったようで。


「ああ、分かった、楽しみにしてるよ」


僕も昨夜のように穏やかに頷くと、ヒロインの表情もやっと柔らかくなった。


その笑みを見て、例えばもしも今夜も昨夜のような事態になったとしても。


今夜だけじゃない、今後何度同じことを繰り返したとしても。


きっと僕は何度だって同じ返事をしてやれる、そう感じた。



胸の裡も穏やかになったらしいヒロインは、ただ回されるだけになっていた僕のネクタイに触れた。


そうしておもむろに僕の代わりに結び始めた。


自ら行えばより早急に済む、意味のない時間。


だが、器用に動くヒロインの手を眺めながら、こういった時間も悪くないことを知った。


「…でもそうだ、今夜知り合いと夕飯を食べに行く約束をしたの、だからいつもより少し遅いかも知れないんだけど…、」

「だとしても待っているから平気だよ」

「ありがとう聖護くん、食べたらすぐ帰ってくるね」

「だがまた怪我をするほど急ぐ必要はないよ」

「ぁ…ふふ、うん、」


少しばつが悪そうにくすくすと笑うヒロインが、仕上げに結び目の形を整えるのを見届け。


「じゃあヒロイン、行ってくるよ」

「いってらっしゃい、気を付けてね槙島先生」


襟を正して。


微笑むヒロインに見送られ歌舞伎町を後にし、桜ヶ丘へ向かった。


道中、ヒロインが今夜約束をしたという知り合いは、昨夜グソンから聞いた男なのではないかと感じていた。


だがやはり僕にとって、それは重要な事柄ではなかった。


ヒロインが友人ではなく知り合いと表現したことから相手との距離も見て取れた。


それどころか、対比させれば。


ヒロインが何よりも僕を優先させようとしている事実は、僕に愉悦を与えた。



そうして今日もつつがなく柴田幸盛を演じ、歌舞伎町へと帰った。


陽も暮れ始めているが、まだヒロインの姿はなかった。


着替えを済ませソファに腰掛け、本を開きヒロインの帰りを待った。


今朝急ぐ必要はないと告げたが、それでもおそらく急ぎ足で帰ってくるだろうヒロインを想えば、緩やかに口角は上がった。


読書も順調だ。


しかし五十頁程読み進めた頃に、端末が鳴り頁を捲る手が止まる。


本を端末に持ち変え、着信元を確認すれば、時折取引を行う薬物の売人をしている男だった。


だがこの男に対しては必要のある時に僕から連絡をすることが主だった為、このようの状況は極めて稀だった。


「槙島さん、急に連絡をしてすみません」

「構わないよ、でも君から連絡を寄越すなんて、何かあったのかな」

「いや…それがですね……今日睡眠薬と媚薬を売った男がいるんですよ」

「大した薬ではないね、それがどうかしたのかい」


わざわざ連絡を寄越すのだから、それらの薬が用件に関わってくるのは確実だろう。


そして僕に連絡を寄越した意味を考えれば。


自ずと仮説は生まれた。


確信に変える為に問えば、微かな沈黙が流れた後に再び口を開いた男。


「……私も大した取引ではないと思っていたんですが…、さっきその男が少し前に槙島さんが連れていた女性と歩いていたので、ちょっと気になってしまって…」

「そう、連絡をもらえて助かったよ」

「いえ、上得意様の大切な方に危険が及んでは困りますので」


一見僕とヒロインを気遣っているかのような台詞だが。


自らの売った薬が要因でヒロインに傷が付くようなことがあれば、この男も生きた心地がしないのが本音だろう。


だが仮説が現実味を帯びた今、僕に連絡を寄越した男の判断は、きっと正しかった。


男との通話を終え、そのままグソンに連絡を入れた。


数コールの後繋がった電話。


「ダンナ、どうかしました?」

「お疲れ様、今は自宅かな」

「ええ、そうですよ」

「だったらヒロインの居場所を調べられるかい?」

「そりゃあもちろん、ですが…まさか早速位置情報が必要な事態が起きましたか」

「まだ分からないけどね、未然に防ぐに越したこともないだろう」

「ごもっともです、…頼みますよ、ダンナ」

「ああ、大丈夫だよ」


グソンの声色が僅かに緊迫感を乗せ。


会話をしつつもキーボードを叩く音が絶えず漏れてきていた。


程無くしてグソンは廃棄区画内のとあるアパートの住所を告げた。


「マップデータも端末に送っておきましたので……、ていうかダンナ、俺も行きましょうか?」

「僕一人で充分だよ、それより君はその部屋のロックの解除に専念してくれないか、今から向かうからさ」

「分かりました、お任せください」


立ち上がり部屋を出て、マップデータが示す場所まで車を走らせた。


今ヒロインと過ごす男が睡眠薬と媚薬を使うつもりならば、やはりヒロインの意志は黙殺されていることとなる。


そうなればヒロインはどれだけの涙を流すか。


僕以外の男の前で。


涙が、勿体ない。



だがもしもヒロインに何かあったとしても。


それでも僕はヒロインの傷とも向き合い、癒してやれる自信もあった。


故に焦燥はなく落ち着きを感じていた。


連れ戻すことさえできれば問題はない。


そしてそれは、きっと容易い。


しかし並行して、読んでいた本に栞も挟まず開いたまま置いてきたことにも気付き。


静かな心とは別次元で逸っている身体があるのだろうか。


自分にもまだ青臭い部分があることを思い知り、自嘲的な笑みが薄く浮かんだ。



暫く走り、目的地へと到着した。


薄汚いアパートの一画、この中にヒロインがいる。


ヒロインといる男がまだ本性を現さず、この中で談笑をしているだけなら、僕の登場にヒロインは驚くだろう。


だがきっと、僕が「帰ろう」と言えば付いてくる。


理由はどうにでもなる。


そんなことを考えながらドアの前に立った。


すると、僕達が暮らしている部屋のように厳重に守られているわけではない部屋からは、声が漏れて聞こえてきて。


「どうしてこんなことをするの…?」

「ヒロインが好きだからだよ、分かるでしょ?」

「わかんないよ…」

「そもそもヒロインも馬鹿なんだよ、俺ちゃんと告ったんだから俺の気持ち分かってる癖に、最後にクレープのお礼に奢ってって言えば、ここが本当にレストランだと思い込んで付いてきちゃうんだもん」

「だって、」

「手間取ったら睡眠薬でも使おうと思ってたんだけど……お前ほんとに素直でかわいい、そういうとこも全部好きだよ、ヒロイン」

「や!来ないで……お願い、これ外して…!」


聞こえてきた声は聞いたことのない程に怯えているが紛れもなくヒロインのもので。


薬は未使用なようだが、良からぬ状況が伝わってきた。


ヒロインにとっては相当の恐怖だろう。


だが僕の姿を確認すれば、ヒロインはまず無条件に安堵するはずだ。


そんなヒロインを早く現実のものとしたくなり、ドアに手を掛けた。


抵抗を知らずに開いたドアは、すんなりと僕を迎え入れた。


「…やはりチェ・グソンは仕事が早いな」


室内に侵入し廊下を進むと一層近付くヒロインの声。


「……聖護くんのところに帰りたい」

「はぁ…またショーゴ…、大丈夫だよヒロイン、俺がその男より大切にしてあげるから」

「それじゃ意味ない、私は聖護くんとずっと一緒にいたいの」

「でも俺もヒロインと一緒にいたいんだよ、だからこんなことまでしちゃってんの」

「…じゃあ、せめて電話だけでもさせて…?聖護くんに今夜は帰れないって伝えたいから…」

「でもヒロイン、余計なこと言うでしょ?助け求めたくなっちゃうはずだよ」

「そんなことしない!本当にしないよ…!何でもあなたの言うこと聞くから…お願い」


はっきりと聞き取ることのできるヒロインの台詞は、僕の心を満たした。


状況とは無関係に吊り上がる口角。


「ハ…どうしようかな……ヒロインの態度次第では考えてあげてもいいかもね」

「ほんとう…?」

「うん、だから今はおとなしく俺の女になってよ、ねぇヒロイン?」

「ッ…!」


人は恐怖と対面した時、自らの魂を試される。


何を求め、何を為すべくして生まれてきたか、その本性が明らかになる。


そしてこの状況で、ヒロインが最も求めたものは僕。


この場で自分を犠牲にしてでも、僕を想う強い感情。


その感情を目の当たりにし、僕の中では生まれて初めて、何かを愛おしく想う気持ちが片鱗を見せた。



望み通り、ちゃんと連れて帰るよ、ヒロイン。



「―――ヒロイン、」


声のした部屋に足を踏み入れれば。


真っ先に目に入ったのは、ヒロインの胸元で顔を埋めている男の背と、壁際で戦慄するヒロインの表情だった。


それから僕の声に反応をした二人の視線は、勢いよくこちらを向いた。


「っ!?…んだよ!お前、どっから入った!?」

「……うそ………聖護くん…??」

「ショーゴ!?お前が…!?」


ホロで彩られた内装は目一杯ヒロインの好みを掻き集めたような造りだった。


ヒロイン専用の部屋、という主張を感じた。


そして男の体勢が変わったことにより全身が見えたヒロインは、ニットの前を破かれ乱れさせていて。


手首は拘束をされていた。


首には首輪が巻かれ、鎖で繋がれている。


……ヒロインの意志を無下にしただけではなく、飼うつもりか。


ふざけた真似をしてくれる。



「ヒロイン、迎えにきたよ」

「しょ…ご……く……、」


それでも今、優先すべきはヒロインだ。


優しく語り掛けながら近付けば、ヒロインの瞳からは大粒の涙が流れ始めた。


おそらくせめてもの虚勢で我慢していた涙なのだろう。


しかし予測通り僕の姿には安堵したに違いない。


溢れだした涙は、やはり何よりも澄んでいた。


抱き締め拭ってやろうと、歩みを進める。


だが一度は安堵を見せたヒロインの表情だが、またすぐに曇り。


何かを訴えるかのように首を横に振った。


「テメェ…!!何勝手なこと言ってんだよ!!」


それと同時に、男が立ち上がり僕に全力で向かってきた。


拳を握り殴りかかるつもりらしい。


「やめて!!!聖護くん…!逃げて!」


ヒロインの叫びが響く中。


男の攻撃はあっさりと交わすことができ。


顎を狙い殴り返せば寸分の狂いなく命中し、男は思惑通り軽い脳震盪に陥った。


これで邪魔をされずにヒロインを抱き締めてやれる。


ヒロインの元まで行き、まずは手首の拘束と首輪を外す。


鎖がじゃらじゃらと音を立てた。


「…聖護くん…」

「ヒロイン、怖かったね」


首輪を外す最中に、はだけているヒロインの胸元に、刃物で付けたような小さな傷があることが目に入った。


大方脅す為に付けられたのだろう。


手首にも拘束の痕が残った。


無性に胸が焦れ、抱き締めてやる動作がワンテンポ遅れた。


するとヒロインから僕に抱き付いてきて。


「良かった…!聖護くんに何もなくて…」

「…この状況でも尚、僕のことを気遣っていたのか」

「だって…あの人…普通じゃないよ…、だから…聖護くんに何かあったらと思うと私……」


ぎゅうっと僕に縋るヒロインを抱き締め返す。


先程ヒロインが曇った表情で首を横に振った意図。


先程は分からなかったが。


全ての言動から第一に僕の身を案じていたことが理解でき、腑に落ちた。


平穏な日常では見ることのできなかった、深い場所に在るヒロインの核。


魅力的だと思えた。


愛しさの欠片が積もっていく。



「――…大丈夫だよ、ヒロイン、僕は強いから」

「うん…!ほんとうによかった…」


ヒロインの髪を撫で、顔を覗き込み涙を拭う。


濡れた瞳に僕が映る。


「ヒロイン、それにこれは悪い夢だ、君はもう見る必要のないものだよ」

「わるい夢…?」

「だから後のことは僕に任せて」


ヒロインの瞼にキスを落として。


傍のテーブルに置いてある、男の購入した薬の入った紙袋に手を伸ばした。


中から睡眠薬を選び、適量を自らの口に入れた。


そのままヒロインに口付けをし、ヒロインの口内に移す。


「聖護くん…これはなに…?」

「悪夢を消してくれる薬、飲めるかな」

「ん……」

「うん、いい子だね」


ヒロインは不思議そうな顔はしたものの、僕の言うことは素直に受け入れ薬を飲み込んだ。


即効性のある薬だ。


ヒロインはすぐにうつらうつらとし始めた。


「しょ…ごくん……はやくいっしょに、かえろ…」

「ああ、ちゃんと一緒に帰るよ、だから今は安心しておやすみ」

「……ぅん…、………」


数秒後には完全に眠りに堕ちたヒロインを抱きかかえソファに横にした。



…さて、悪夢はどう始末するか。


考えながら男を振り向けば。


少し回復したらしい男は、ふらふらと立ち上がった所だった。


汚物を見るような心持ちになり、眉間に皺が寄る。


「まだ、ヒロインに近付く気なのかな」

「テメェには関係ねェだろ…!」


男は千鳥足でも諦めずに僕に近付いてこようとしたから。


今度は蹴り飛ばし、もう一度床に這いつくばらせた。


「いッ…!!ざけんな…俺とヒロインの仲を壊しやがって…!」


身体は言うことを聞かないらしいが、口での反撃は止めない男。


ひたすら耳障りだった。


頭上でしゃがみ髪を掴んで顔を上に向かせた。


もう片方の手では剃刀を持ち、顔面に数センチの浅い傷を幾つも付けた。


じわりと浮かび線を作る温かな血液。


「吠える元気はあるんだね」

「何してんだよ、テメェ…!やめろ!つーか…まじで何者なんだよ!」


切り傷に痛みを感じ喚いている隙。


ヒロインがされていたように、男の腕を拘束する。


首に首輪も巻き付けながら、告げた。


「僕は槙島聖護」

「!?…まきしま…!?」


問われたから答えた自身の名。


だがその答えに男は「銀髪…端正な顔立ち…若い男…槙島……」と小さく呟き、顔面の血の気が一瞬にして引いた。


「あんたが本物の槙島…さん…!?」

「僕について何か心当たりがあるのかな」

「犯罪を重ねて生きてんだ……姿は知らなくとも噂は何度も聞いてるし…槙島さんを敵に回しちゃいけねェことくれェ心得てる…」

「僕と君を同等の犯罪者のように語ってほしくはないけどね」

「でもヒロインはあんたを名前で呼んでただろ…!だから…槙島さんの女だなんて知らなかったんだよ」


どんな噂を聞いていたかなんて興味もないけど。


僕がその槙島だということに気付いた男は怯み、言い訳を並べ始めた。


しかしこのやり取りは僕の神経を更に逆撫でした。


「知らなかったから、何だと言うんだろうか」

「ヒロインが槙島さんの女だって知ってたら手なんか出さなかった……俺が悪かったから…ゆるし、…ッ!!?」

「そもそもヒロインは僕の物ではない」


故に、意識は飛ばさぬよう、だが呼吸が止まる寸前まで、首輪を締め付けた。


「誰の物でもない―――ヒロインはヒロインだ」


脳震盪を起こしたばかりで思うように動かぬ身体でも必死に藻掻く姿をギリギリまで眺めて。


限界だと感じた所で首輪を緩めれば、一気に酸素を吸い込んだ男は反動で酷くむせた。


それでもお構いなしに問いを投げる。


「それに君はヒロインに、恋をしていたんじゃないのかな」

「はぁっ…はぁ……っ、して、た……してた、けど………」


僕の存在を知った途端に覆せる想いに価値があるとは思えなかった。


「ヒロインの探している物を、君のような男が持っているとは思えないけど」

「………ああ、…もう、ヒロインには近付かない、…だから……」

「だから?何かな」

「殺さないでくれ…!頼む…」


その上この期に及んで命乞いをする男にも価値など見出だせない。


端から期待していた訳ではないから、失望もないが。


「ヒロインを殺そうとしていた癖に、自分の命は惜しいなんて随分と虫のいい話だ、そうは思わないかい」

「俺は…ヒロインが欲しかっただけで、殺すつもりなんて微塵もなかった…!」

「こんな部屋に閉じ込めて、飼おうとしていた癖に?」


他人と関わることを厭わず、積極的に行動に移し、生きることを楽しめるヒロイン。


そんな女の自由を奪おうとした。


罪は重い。


「―――殺したも、同然だ」

「ちがう…本当にそんなつもりじゃなかった……槙島さん…!お願いします、死にたくない…!」


男の焦燥と悲愴はピークに達し、震えながら訴えかけてきた。


僕はそれに対しにっこりと笑って返した。


「心配しなくても今はまだ殺さないよ」

「え…?」

「まずはさ、君がヒロインに与えようとしていた恐怖、身を持って体験したらいいよ」

「どういう…こと、だよ…」


薬物の袋。


男の問いには返事をせず、中から媚薬と注射器を出し準備をする。


薬物に満ちた注射器を片手に、ちらりとヒロインに目をやると、変わらずにすやすやと眠っていて。


心を撫でられた心地がした。


だが相反してヒロインに使う為にこれが用意された事実の腹立たしさも膨らみ。


男の腕に勢いよく注射器を突き刺した。


ゆっくりと薬を注いでいく。


「…ッ!?…んでこんなこと…」

「これ以上、こんな場所にヒロインを置いておきたくはないから、僕とヒロインは帰るけどね」

「はぁ…?」

「もしも、この後男が来るようなことがあったら、たっぷり遊んでもらうといいよ」

「…!?……クソが…!!……だったら今、一思いに殺せよ!!」


何を言ったところで、状況が好転することはないと悟ったらしい男は、力を振り絞り再び逆上した。


僕の心には何も響かないのだから、無駄な遠吠えにしかならぬというのに。



「―――…テメェみてェな、犯罪者…!」


冷めた視線で見下せば、哀願を止めた男は心底怨みを抱えた視線を寄越した。


「ヒロインを連れて帰ったことろで、ヒロインが幸せになれるとは思えねェよ!」

「それを決めるのは君ではないし、僕でもないよ」


役目を負えた注射器を投げ捨て。


「ねぇ、君、」

「…んだよ、」

「今、ヒロインが読んでいる本の話は聞いたことがあるかな」

「……れが、なんだよ…ッ」


男の身体には薬が巡り始めたのだろう。


呼吸を荒らげ苦悶する姿を横目に、男から離れヒロインの元へ行く。



「ロミオとジュリエット―――シェイクスピアの描いた悲劇の一つだ」



僕の本棚で、タイトルに興味を示したヒロイン。


「このタイトルは男性と女性?」と問われたから肯定をし、その際ヒロインにも悲劇だと告げた。


するとヒロインは「悲劇?ってことは、悲恋なの?」と一層関心を深めた。


ヒロインがあの本に興味を向けた時点で翻訳されているものを買い与えることは僕の中で既に決まっていたが。


ヒロインは結末を知っていたとしてもそこへ向かう過程も楽しめると言うから、ヒロインにとって重要になるであろう部分を至極簡単に掻い摘んだ。



「――仮死の毒の計略、だがこの計略はうまくロミオに伝わらずロミオはジュリエットが死んだものと思い込みその場で自殺をした、」


男には背を向けたまま言葉を続け、ソファの傍らでしゃがみ、ヒロインの寝顔を眺めた。


―――仮死の毒。


「その後ロミオの死を目の当たりにしたジュリエットも後を追った」


愚かな二人の結末。


だがおそらくヒロインも、僕の為ならば、仮死の毒すら危険を顧みず口にする。


そして仮死状態に陥ったとしてもこんな風に安らかな顔付きで僕の到着を待つのだろう。


静かに眠るヒロインを見つめれば、そんな思考が脳裏を掠めた。


その思考が馬鹿げているのは百も承知だが。


刹那無性にヒロインの生に触れたくなり。


「この結末を聞いたヒロインは何と言ったか分かるかい」

「ハァ……っ…しら…ねーよ…」


ヒロインの頬を手のひらで包んだ。


ぬくもりが伝う。


あって当然のぬくもりだが、その熱は気休めには充分過ぎた。



「ヒロインはね、こう言ったよ、愛する人の隣で生涯を終えられるなら、二人にとっては美談、むしろハッピーエンドなのではないか、と―――」


「全部読まないことには分からないけど、それでも」と前置きをした上で紡がれた言葉だったが、ヒロインらしい解釈だと思えた。


ヒロインとはそういう女だ。


男に言い残すことも、もうない。


もっとも、今の状態の男の耳には、どれ程が届いていたかも分からぬが。



「…帰るよ、ヒロイン」


ヒロインの背と膝の裏に手を入れ抱き上げ。


部屋を出る前にもう一度だけ振り向き、「僕は明日、また来るよ」と男に告げた。


薬の影響で身悶え懊悩している男だったが、その言葉には反応をし、より深い絶望をあらわにした。


その表情に満足感を得て、ヒロインを車に乗せ、歌舞伎町へと帰った。


目を覚まさないヒロインを寝室のベッドへそっと寝かせる。


此処にいるヒロインは、何処にいるよりも収まりが良い、そう思えた。


グソンにヒロインの無事と男の状況を伝える連絡を入れ、胸元の傷の手当てもし。


ヒロインが目を覚ますまで傍らで本を読み待った。


そうして迎えた翌朝。


そろそろ目を開けてもいい頃だったから、頬にキスを落とす。


「……ん…」


すると反応を示したヒロインは、ゆっくりと瞼を上げた。


まだ夢と現実が混沌としているかのような顔付き。


「お目覚めかな」

「…聖護くん…?……ぁ…」


だが僕を瞳に映すと、昨夜の出来事と思考が繋がったらしく。


「聖護くん…!」


起き上がり僕の胸へと飛び込んできた。


受け止め、丸い後頭部を撫でる。


「夕べはありがとう」

「君の望みを叶えたまでだよ」

「でも助けに来てくれるなんて……夢かと思った」

「ああ…あの男は元から評判が良くなかったようでね、あの男とヒロインを見掛けた知り合いが連絡をくれたんだ」

「そうだったんだ…」

「それでチェ・グソンに君の端末の在処を調べさせたよ、…勝手に居場所を探るような真似をしたことは悪かったと思ってる」


不自然にならぬよう事実を述べ謝罪をすれば、ヒロインはううんと首を横に振り「本当にありがとう…」と言った。


どこまでも僕やグソンのことは信用しているのだろう。


「でも聖護くんは怪我ない?平気だった…?」

「大丈夫だと言っただろう、それに怪我をしたのは君の方だ」

「……わたしの…これは……」


着替えまではさせてやれなかった為、ヒロインは昨夜切り裂かれた服のままだ。


僕が胸元の傷に触れたことを察したヒロインはからだを少し離し、裂かれた服を寄せ胸元で握った。


眉尻を下げ潤んだ瞳で僕を見つめながら、小さく漏らした。


「自業自得だよ……馬鹿だったの………きっともっと注意すべきだったんだよ…」


…確かにヒロインが無防備だと感じることはある。


だから、簡単に他人を信用すべきではない、少し無防備過ぎる、と釘を刺すべきなのかも知れない。


だがそれで、ヒロインが無垢のまま他人を受け入れられなくなり、関わりを避けるようになる事態は芳しくなかった。


ヒロインの個性が一つ潰される。


ヒロインが自身を戒めていることは明白なのだから、それで充分だった。


僕がすべきことは他にある。


「大丈夫だよ、ヒロイン、君は変わらなくていい」

「でも…」

「それにもしもまたトラブルが起きるようなことがあっても、」


僕が守るよ、と。


真っ直ぐに見つめ返しながら言えば、ヒロインの瞳には涙が溜まり始め。


「だから心配はいらない、思うままに生きたらいいよ」

「聖護くん…」


流れ落ちた、輝く涙。


僕はその全てを守りたいんだ。



「聖護くん…!私ね、」


ヒロインは感極まったのだろう。


まるで溢れ出したかのように、僕への気持ちを口にしようとしていることが伝わってきた。



だが、今は。


「私…、聖護くんのことが…」

「…ヒロイン、待って」

「ぇ…?」

「今は聞いてやれない」


聞いたら、歯止めが効かなくなるような気がしたから。


ヒロインの唇の前に人差し指を立て、言葉を遮った。


ヒロインといる僕は、この際とことん青臭くていいような気さえして、恐ろしくなる程で―――。


「君が僕を随分と焦らしてくれたからさ、」

「じらし……え…?」

「今聞いたらその分歯止めが利かなくなりそうなんだ」

「はどめ…が……」


ぽろぽろと零れる涙に触れ、目尻に口付けもし掬い取る。


僕が今告白を止めた意図を理解したらしいヒロインは、目を丸くさせ徐々に頬を紅く染めた。


「きっと無断欠勤させてしまうよ、だが君はそんなことをするような女ではないだろう」

「…うん…ふふ、」


そうしてヒロインはゆったりと微笑んだ。


夜が長かったせいか、久々に笑みを見た気がする。


「…じゃあ聖護くん、本当に今夜こそ聞いてね」

「ああ」



自然と絡み合う視線は熱を持って。


惹き付けられるように唇を重ねた。


優しく触れてから舌を口内に侵入させ、舌と舌を絡ませる。


激しくはせず、慈しむようなキスを続けた。


触れ合う全てがどちらの物なのか分からなくなる程に混ざり合うヒロインとのキスは、厭きることなくしていられる。


「…………しょ…ごくん…」

「…なにかな、」

「わたし、すごくばかで…」

「フ…、うん?」

「聖護くんに叱られてもおかしくないのに………どうしてこんなにやさしいキス……」


一昨日から深いキスは避けていたことも相俟って、なかなか離してやれなかった。


言葉を交わす最中も触れ合わせることは止めなかった。


「これも、躾かな」

「しつけ…?」

「ヒロインの帰巣本能に刻み込んでいるんだ」

「…キスを?」

「そう」

「ふ…、なんかやらしー」

「だがそろそろ時間だね」

「ん…でも聖護くん…、もう少しだけ、して…?」


ヒロインの小さな手がぎゅっと僕の服を握る。


求められることが心地好く、あと少しだけそのままキスを続けた。


だがいい加減キスだけでは足りなくなってくる。


おそらくヒロインもそうだろうから。


「…ヒロイン、」

「うん……わかってる………仕度もしなきゃね…」


名残惜しいが唇を離し、からだも距離を置いた。


「仕度が済んだら今日は会社まで送っていくよ、あの男がヒロインの前に姿を現すことは二度とないけど、それでも不安だろうしね」

「でも…聖護くん、お仕事は?」

「僕は今日は自由がきくから平気だよ」

「ん…ありがとう、聖護くん」


用があると言えば、あの男を始末しに行くくらいだ。


遅くなったところで、あの男の苦痛が増すだけなのだから、逆に好都合だった。



それからヒロインがシャワーを浴び戻ってくると、一晩経っても完全には消えなかった手首の拘束の痕が目に入った。


ヒロインも気にしているようだったから、労るように唇で触れ「すぐに消えるよ」と声を掛けた。


ただの言葉に過ぎないが、その言葉にヒロインは安堵の表情を見せ、服で痕を隠した。


その後は普段と変わらぬ朝の時間を過ごし、助手席にヒロインを乗せ勤務先へと向かった。


車内では指を絡め手のひらを重ねていた。


大した会話をするわけでもなかったが、こうしているだけでもやはり意味を成した。


「着いたよ、ヒロイン」

「うん、聖護くん、ありがとう」

「帰りも迎えに来るよ」

「だけど聖護くんのおかげで落ち着いたし、私もう本当に大丈夫だよ、」


きっとヒロインは僕を気遣い迎えは遠慮をしている。


「迎えに、来るよ」


けれど僕の気が済まないから、もう一度念を押せば。


ヒロインは「…じゃあお願いします」と柔らかく目を細めた。



「聖護くん、いってきます」

「いってらっしゃい」


重ねていた手のひら、ヒロインのぬくもりが離れていく。


しかし熱を孕んだ視線は絡み合ったままで。


ほどけることは知らずに、僕達は一度別れた。



再び車を走らせ、昨夜とは違う目的で道のりを辿る。


これから起こる出来事を思えば、胸のすく思いが僕を満たした。




キティに躾 lesson3


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