どれだけ僕の声が好きか。


毎夜ヒロインと過ごすようになり、ヒロインが眠るまで望みの朗読をする晩もあれば、様々な物事について語り合う晩もあった。


どんな夜であろうと、ヒロインは僕の声に安らぎながら眠りに就くようになった。


どれだけ心を許していることか。



ヒロインが眠った後、僕は用がなければ大概隣で本を開く。


ヒロインの為ではなく、自分の為の読書をする。


今は昨夜から読み始めた本が結末を迎えたから、余韻に浸りつつ本を閉じた。


そうしてふとヒロインの寝顔が目に入った。


この上なく安堵し幸せそうな顔で眠っているヒロイン。


手にしていた本をベッドサイドのチェストに置いてから、右手でヒロインの頬を包むように触れた。


そのまま指通りのいい髪も撫でる。


けれどヒロインはその行為にも何の反応も示さず、静かな寝息を立て続けている。


相変わらず無防備なその姿に呆れたような、だが至極穏やかな気持ちも感じ、無意識に目を細めた。


…よくも他人の隣でこんなにも安心しきって眠れるものだ。


さすがにどんな男に対してもここまで無防備になれるわけではないだろうが。


しかし、ふと、―――それでも、と思う。


声がヒロインの心を掴み、ヒロインの望み通り夜を共に過ごしてやれる男ならば―――。


そう思った瞬間、存在などない男に嫌悪が産まれた。


再び燻り始めたのは、ヒロインが別れた男を想い泣いていたのだと思い込んだ時に感じた得も知れぬ感情。


先程の穏やかさとは裏腹に少し不愉快になり、半ば衝動的にヒロインの部屋着に手を伸ばした。


触り心地のいい生地で、ヒロインのようにふわふわとし、ヒロインの色相と似た色をしているそれ。


襟刳りに指を引っ掛け、ぐ、と下に引けば。


柔らかな生地は抵抗を知らず、しっかりと露になる繊細な鎖骨と、僅かに覗く胸の谷間。


以前も今と同じ感情を抱いた時に、鎖骨の下へ若干きつく吸い付き紅い跡を残した。


しかし当然だが、今は既にその跡は消えている。


何も残らないヒロインの肌は、あまりにも白く綺麗で滑らかに映った。


この汚れなき肌にもう一度跡を残せば、この感情もまた覆えるような気がして。


重みを乗せることはなくヒロインの下腹部に跨がった。


まずは首筋に顔を近付け、そっと口付けをする。


同時にヒロインの持つ甘い香りも間近で感じ、衝動に追い討ちを掛けられたような心地を捉えた。


ただの皮膚だというのにヒロインの肌は甘い。



「……ふっ…、」


舌先で首筋を辿ると、眠っているヒロインの唇からは吐息のような声が漏れた。


だがお構いなしに首から肩へ繋がる緩やかなラインをなぞり、そこへ吸い付いた。


この間よりも人目に付き易い場所。


唇を離し確認をすれば、白い肌に咲いた紅は美しかった。


その美しさに満足感を覚え、口角は吊り上がった。


案の定あの感情も浄化された。


今宵も名を突き止めるには至らなかったが、対処法があることは理解した。



「ヒロイン…」


しかし触れたい欲求は失せずに。


まだ甘い香りと戯れたいと心が言うから。


名を呼んで、ヒロインの反応を見た。


先程は声を漏らしたヒロインだが、今もぐっすりと眠っていることに変わりはないらしく、目を覚ます様子はなかった。


もし起きたとしてもヒロインが僕を拒むことはないだろうし、目を覚ましたとしてもそれはそれで構わなかったが。


眠り続けていることに今度は悪戯心が刺激された。


「……本当に無防備だね、ヒロインは…、」


ねぇ僕以外の男の前でもこんな風に眠れるの、と耳許で囁いたと想定してみる。


すると僕の知っているヒロインは、瞳を潤ませ首を横に振って。


おそらく「聖護くんだからだよ…!」と口にする。



――…跡を一つ、残しただけだというのに。


不愉快だった想いが愉快に反転する様は見事だと言えた。


今の僕には確実に余裕もある。



ヒロインの部屋着の中に手を滑り込ませ、脇腹を撫でながら次は以前と同じ場所へも唇を這わせじんわりと跡を残した。


手のひらが会得するのは、細いくびれと、頼りない腰骨。


少し力を入れたら折れてしまうのではないかと錯覚しつつ、唇を離しヒロインを見下ろした。


手を入れていたから胸の下まで中途半端に服が捲れていて素肌の面積が増す。


僕が向き合っているのはヒロインという一人の人間だった。


けれど骨格からして男とは違う造りのからだに、ヒロインが女である事実を妙に強く実感した。


今まで女の裸体など数え切れない程見てきたが、どんな形状をしていようとどうでもよかったし、興味をそそられることもなかった。


だが今僕は明快にヒロインを象る線に惹き付けられている。


服で隠され追うことのできない線の続きも辿りたいと思った。


上半身も下半身も全て―――。



ヒロインの意志なく抱く気もないが、このまま脱がせてしまおうか、少し考えた。


そもそも脱がせたからといって抱くことに直結するわけでもなかった。


考えながら、今度は腹を愛撫する。


慈しむように押し付ける口付けを何ヵ所にも降らせ、時折軽く吸い薄い跡を付けた。


「……ぅん……」


ヒロインからは小さな声が漏れ、微かに身動ぎもした。


だが未だ起きる気配はないから、腰骨に掛かるボトムをショーツが見える際までずらす。


ちらりと見えたショーツにはレースのフリルが施されていた。


ショーツと皮膚の境目にも唇で触れ、此処へは特に色濃く残るようなキスをした。


…これらの跡に気付いた時、ヒロインはどんな態度を示すだろうか。


想い描いてみれば更に愉快な気分になり。


ゆっくりと唇を離しながら再度見下ろす。


衣服を乱れさせ、白い肌に紅を散らすヒロインの様は淫靡だった。


数秒眺めていれば、脱がすよりも先に抱き締めたくなり、意味もなくもう一度呼んだ。


「――………ヒロイン…」


しかし音になった声は、必要以上に切なさと劣情を含んでいて。


ヒロインを惑わす為に聞かせる訳でもないのに、何故―――。


無意味な音に自嘲的な溜め息が漏れた。


「ハ…」

「……しょ…ごくん…?」


するとその時ヒロインがうっすらと目を開け、ぼんやりと僕を見つめた。


夢か現実かも分かっていないような表情で。


「どうしたの…?」


自分の上で跨がる僕に右手を伸ばした。


―――何してるの、ではなく、どうしたの。


大したことのない違いに聞こえるが、僕が何をしているのか問う言葉ではなかったことに、ヒロインの人格を感じいじらしく思えた。


跨がられ自分が何かをされていると思うよりも、僕に何かあったのではないかと杞憂しているようで。


その上ヒロインは僕が自分に何をしていようと構わないのだろう。


心を許し眠る女なんて、犯すも殺すも、いとも簡単だというのに。


何処までも無防備な女。



「…寝顔を、眺めていたんだ」


どうしてああしていたか、今ある感情を寝惚け眼のヒロインに表すには時間が足りない。


故にどうしたのという問いには答えずに、何をしていたか返して。


伸ばされるヒロインの手に左の手のひらを重ね指を絡めてから、空いている腕でヒロインを抱き締めた。


「ん…ふふ、わたしの…?」

「ああ」

「やだ、はすかしい…」


ヒロインはうつらうつらと言葉を紡ぎながら、僕の腕の中ですり寄ってきた。


いじらしいから、今夜これ以上の悪戯をするのはやめた。


「起こしてしまって、悪かったね」

「んーん……でもしょうごくんは、ねないの…」

「………君がもう一度眠ったら少し出掛けてくるよ」

「こんなじかんに…?」

「すぐ帰ってくるよ」

「うん……うん…?」

「フ、」


だがこのまま隣で眠ることはできそうになかった。


だから出掛けると言えば既に半分夢の中にいるらしいヒロインの返事は曖昧で、その曖昧さに自然と笑みが零れた。


「…ねぇ、ヒロイン、」

「……ん?」

「明日また僕を楽しませて―――だから今はおやすみ」

「ん…」


耳許でそっと囁き、一定のリズムでヒロインの背を優しく叩き深い眠りへと誘った。


暫くして、寝息が安定したものになったことを確かめてから、起き上がりベッドから出る。


ヒロインのはだけたままだった服を直し布団を掛けた。


そうしてヒロインの手を取り、手の甲に今夜最後の触れるだけの口付けを落とした。



首筋で主張する跡にまた満たされ。


なのに何処か足りなくなって。


それを埋めるように、僕の中に残留するヒロインの香りが熱を持つから。


吐き出す手段を探る為、甘い空気がたゆたう部屋を後にした。




官能クライシス


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