ヒロインの休日。


少しばかり遅く始まる朝。


ヒロインの仕度が済んだところで書店へ出向き本を買い、カフェで昼食を取った。


その後、生活の拠点にしているあの部屋とは別のセーフハウスへ初めて連れていった。


ヒロインは僕がセーフハウスを幾つか持っている事実に心底驚いたように目を丸くさせた。


「聖護くんのお家はあそこだけじゃないの?」

「用途によって使い分けているからね」

「そうなんだ…」

「でも僕は歌舞伎町が一番気に入っているよ、本もあるし、」


君もいる、と並んで歩きつつも視線を落とし告げれば。


ヒロインも僕を真っ直ぐに見ながら、頬を桜色に染めた。


だが「でも待って…なんか…愛人がたくさんいるひとに“本妻は君だ”って宥められた気分……」等と独りごち始め。


無駄でしかない杞憂をするヒロインに思わず溜め息と笑みが零れる。


「そんな面倒なことを僕がするわけないだろ」

「それに…まぁ本妻だし?」

「世話の焼ける君で手一杯なことが伝わっていないかな?」

「あはは、そっか、だよね、お世話になってます聖護くん」

「分かればいいよ」


軽いテンポで言葉を交わしながら部屋へ入る。


中では既にグソンが待っていた。


「あ、グソンさん!」

「おや、今日はヒロインさんもご一緒でしたか」

「退屈はしないだろうと思ってさ、連れてきたよ」

「聖護くん、ここは何を目的としたお家なの?」


サンドバッグが置いてある他は殆ど物のないだだっ広いこの部屋を見回しながらヒロインは聞いた。


「ああ、ここではチェ・グソン相手に格闘の訓練をするんだ」

「格闘!?しかもドローン相手じゃなくて…!」


今ヒロインに伝えた通り、ここは身体を動かすことを目的とし改装をした。


壁を隔て、歌舞伎町程の規模ではないがキッチンやリビング、シャワールームも併設されている。


そしてここからでは気配を捉えることはできないが、地下室も存在し。


地下には人体実験を行う為の設備を整えてあった。


しかしそれはヒロインに告げる必要はなかった。


「やはり生身の人間は違うよ、それにチェ・グソンの指南は為になるからね」

「グソンさんが指導する立場なんだ」

「ですがダンナは時々加減を知らねェから本気で身の危険を感じる時もありますけどね」


本気なのか冗談なのか知らないが、グソンがミットをはめながらこう言えば。


ヒロインはけらけらと笑いつつも、新鮮な環境に瞳を輝かせていた。


「じゃあ聖護くん、あそこに座って見ててもいい?」

「そうするといいよ、もし退屈になったなら本でも読んでいればいいし」

「うん、ありがとう」


ヒロインは隅に置いてあるシンプルなソファに腰掛け、興味に満ちた視線を寄越した。


「では今日もミット打ちから行いましょうか」

「ああ」

「ストレッチは?」

「歩いて来たし必要ないよ」


羽織っていたジャケットを脱ぎ、グソンの指示に合わせミットを狙う。


僕とグソンが動き始めた瞬間、ヒロインの瞳は一層輝き、時折「わあ…!」や「すごい」等と感嘆の声を漏らしていた。


結局ヒロインは二時間近く経った今も厭きることなく、僕達を眺めていた。


「ヒロイン、退屈はしていないようだね」

「うん!すごい楽しい!かっこいいし、見てるだけでもすかっとするし、」

「だが、もしヒロインも興味があるならやってみても楽しいと思うけど」

「私も?」

「自分を守る術くらいは身に付けておいても損はないよ、仮にも廃棄区画で生活をしているわけだし」

「…ヒロインさんがダンナのご贔屓だと承知の上で手出しする輩はそうそういないでしょうけどね」

「そうなの?」


確かに本意ではないが、廃棄区画で根強く生きている人間は僕の名は心得て、グソンの言う通り一目置いているようだった。


ヒロインは半信半疑でくすくすと笑っているが、それを前提とすればヒロインに危機が迫る可能性が薄れることは事実だ。


ただヒロインは身体を動かすことも好きだろうから提案をしたまでだった。


「でもそういうことすれば私も聖護くんやグソンさんみたいに締まったからだになれるかな」

「ああ…だけどそれに関しては僕は今の柔らかさも好きだよ、特に眠る時の抱き心地」

「え!?だったら…どうしよう、グソンさん…!」

「フ…大丈夫ですよ、きっとどのヒロインさんもダンナにとっては柔らかいままでしょうから」

「ふふ、ほんと?」

「ええ、ではやりますか」

「じゃあね、私もさっき聖護くんがしてたみたいなパンチをやってみたい!」

「それはいきなり高度ですけど…、まぁ今日はパンチだけ試しにやってみましょうか、ここを狙って思いきり打ってみてください」

「ヒロイン、チェ・グソンを変質者だと思って一思いにやるといい」


やはりヒロインは僕の提案に乗った。


基礎的なフォームを教えてからヒロインの動きを見守る。


とは言えヒロインに僕のような力は当然ない。


「ほんとに力一杯やってもいいの?」等と聞いていたが、いざパンチを繰り出したところでグソンには何も響かなかったようで。


何度かヒロインのパンチを受け止めたグソンだが、和やかな表情のまま微動だにしなかった。


「…ヒロインさんの力がよーく分かりました」

「もしかしてグソンさん…何にも感じない?」

「はい、残念ながら何も」

「うそー超全力でやったのに!」


非力なヒロイン。


だが憐れだと思うよりも、何故だか妙に微笑ましく。


「これから先も時間はあるわけだから、気長に習得していけばいいよ」

「ダンナの言う通りですよ、でしたら次はまず簡単な護身術から始めましょうか、パンチを強化するのはそれからでも…、俺はいつでも付き合いますし」

「そっか…うん!そうする、ありがとう聖護くんグソンさん」


笑顔で頷くヒロインの頭をぽんぽんと撫でた。


「ダンナも今日はこの辺で大丈夫ですか?」

「ああ」

「ではヒロインさん、何か夕飯のご希望はございますか?帰りに食材を調達して歌舞伎町へ向かいますんで」

「えっとね…じゃあお鍋がいいかな、聖護くんもいい?」

「肉を使っていないならね」

「でしたら海鮮鍋にしましょうか、お二人は夕飯まで時間を潰して来てくださいね」

「はーい」


そうしてグソンは先にここを出ていった。


ヒロインは大して動いていないから大丈夫だろうが、僕は汗を流す為にシャワールームへ向かった。


その間ヒロインもリビングへ移動させた。


シャワーを浴び僕もリビングへ向かえば、ヒロインは一人掛けのソファで紙の本を読み耽っていた。


僕に気付くと顔を上げふんわりと微笑んだ。


「…あ、聖護くん、また、」

「うん?」

「髪、ちゃんと乾かしてないでしょ」

「平気だよ」

「でも今からまた外に出るし、寒いんだから風邪ひいちゃったら困るよ」

「ひかないよ」

「風邪ひかないのはバカだけなの、だから聖護くんはひくかも知れないの」


昔からの慣用句を口にしながら本を閉じ、一度部屋を出ていったヒロイン。


おそらく洗面所からドライヤーを持ってくるのだろう。


今度は僕がソファに腰掛け、ヒロインが先程まで読んでいた本に手を伸ばした。


この本は、あの寝室の本棚でヒロインが興味を示した物だった。


だが言語が日本のものではなかったが為に、翻訳されている物を買い与えた。


ペラペラと捲り日本語を追えば、原文も脳内で反芻されている最中、ヒロインは案の定ドライヤーを持って戻ってきた。


それからソファの後ろに立ち、スイッチを入れ僕の髪を乾かし始めた。


僕はただその行為を受け入れる。


「――でも聖護くん、バカは風邪ひかないってほんとかな?」

「医学的根拠で言えば、ストレスは免疫機能を低下させるからね、そうすると人間は風邪をひきやすくなる、故にストレスを感じにくい人間を馬鹿と称しているんだろう」


今日のような理由で、時々こうしてヒロインが僕の髪を乾かすことがあった。


このような日常に必要な行為に、他人に踏み込まれることは初めてだったが。


ヒロインの華奢な指に髪を撫でられることは心地好く、厭ではなかった。


「ちゃんと根拠もあるんだね」

「だが本来は、馬鹿は自分が風邪をひいたことにも気付かないという意味合いで使われていたんじゃないかな」

「あー……でもそれだと、聖護くんも、結構そういうことに無頓着っぽいから、」

「…どういうことかな」

「風邪とかひいても気付かなそう…」

「それは…君は僕を馬鹿だと言いたいのか」


背後から僕に対し冗談を言い楽しんでいるヒロインの雰囲気が伝わってくる。


そしてタイミングよく僕の髪を乾かし終えたらしいヒロインはドライヤーを止めたから。


ヒロインの手首を掴み、前に来るよう少しだけ強めに引いた。


ヒロインはされるがままで、今度は僕の足元でぺたんと座り、視線が絡むと悪戯っぽく目を細めた。


ヒロインの顎に人差し指の腹を添え僅かに上を向かせ、顔を近付ける。


「僕を馬鹿呼ばわりするのはどの口だろうね」

「うん?ふふふ、」

「…そんな唇には、しばらくキスはお預けかな」

「え…!?」


唇が触れる寸前まで近付いて、低く囁く。


するとヒロインの顔からは笑みが消えた。


…そんなにも如実に現れる程に僕とのキスが好きなのかと思えば、自然と口角は吊り上がった。


「しょうごくーん?うそだよ、聖護くんをバカだなんて思うわけないでしょ」

「知ってるよ」

「じゃあ、よかった」

「…だが、しないものはしない」

「えぇ、聖護くん、ほんとに?」



―――ヒロインの戯れ言。


本気にしたわけでも、怒ったわけでもない。


だがここ数日、感じたことのない理性や本能の存在が顕著になっていて。


ヒロインとキスをしていると、先を求める本能を留めている理性があった。


僕は、ヒロインを抱きたいと、はっきりと思うようになっていた。


キスの末、衣服を剥がし全身に触れたい衝動は日に日に増して。


僕に素肌を触れられたヒロインはどんな反応を示すのか、興味も膨らんでいく。


しかしヒロインがきちんと僕に気持ちを伝えてくるまで抱くつもりがないことも変わらなかった。


ヒロインのペースを尊重していきたかったし、その上で僕の一挙一動に振り回されるヒロインを見るのは楽しくもあり芽生えた線引きだった。


しかしこの感情だけは想定外だ。



それにしても…ヒロインが僕に特別な感情を抱いていることは、態度からも既に明白だというのに。


何故、未だに伝えてこないのか。


ヒロインの行動には全てヒロインなりの考えが存在し、理由なく曖昧なことはしない女だと信じてはいるが。


この状況は理解し難く。


馬鹿呼ばわりされるべきはヒロインではないかと、鬱憤を吐き出したくもなる。


「はぁ……本物の馬鹿は君なんじゃないかな」

「!、だからおあずけなの…!?」


だがヒロインにとっては馬鹿と言われたことよりも、キスを保留にされることの方が重大らしく。


あからさまにショックを受ける様はいたいけで、小さな嗜虐性と相反する庇護心が疼いた。


鬱憤を晴らしたはずが、今すぐにでもまたキスをしてやりたくなった。


「聖護くん怒っちゃった…?」

「フ…いや、だがヒロインは悪くないよ」


しかし行動には移さずに。


「ほんと?」

「本当、…まぁ根元はヒロインだけどね」

「根元?」

「それでも僕の事情だ」


キスの代わりに、疑問が残る顔で小首を傾げ純真な瞳で僕を見つめるヒロインの頬を包むように触れた。


今、二人きりの空間で、これ以上の触れ合いは賢明ではなかった。



「―――…If love is blind , love cannot hit the mark」

「ぁ…流暢な英語、…ふ、わかんないよ、聖護くん」

「僕の本と君の本を照らし合わせれば見付かるよ」

「すごい気が遠くなる作業だよね、それ…」


あえてヒロインには瞬時で理解できない原文を口にし、話題と空気を切り替えれば。


気が抜けたようにヒロインの頬はやっと綻んだ。


つられて微笑み、ヒロインの手を取り立たせ、僕も立ち上がる。


「そろそろ出ようか、何処か行きたい所はあるかい?」

「夕飯までの時間だよね、えっとね…この辺だと……あ、じゃあ聖護くんと水族館に行ってみたい、んだけど…、」

「……水族館、か…」

「ふふ、その反応、やっぱり聖護くんは水族館とか好きじゃない?嘆かわしいって思う?」

「その通りだよ、ヒロイン」

「なら違うとこにする、」

「いや、だがヒロインが行きたいんなら行こう」


この近くには天然の海の生き物を見る唯一の場所として保護されている水族館があったが。


ヒロインの言う通り、自然に生きるべき物を捕らえ閉じ込めておくような場所に自ら出向きたいとは思わなかった。


しかしヒロインと過ごす僕は、場の充実を求めているわけではなかったから了承した。


どんな環境であろうと隣にいる存在が意義を成した。


「本当にいいの?」

「いいよ」

「うれしい!ありがとう聖護くん」

「だが今水族館と言い出すなんてね……、夕飯で食す物の確認にでも行くつもりかな」

「え!?」

「海鮮鍋だと言っていただろう、どこをどんな風にチェ・グソンに捌かれるかの説明が必要みたいだね」

「あはは、やだ、違うよ、そんな理由で言ったんじゃないの」


指を絡め手を繋ぎ直し、目的の場所へと向かう。


「だったらどんな理由があるのかな?」

「うん、あのね、ただ聖護くんと定番のデートスポットみたいな所にも行きたいなって思って…」


ヒロインは少し照れくさそうに口にした。


刹那、恋人でもないのに?と、揶揄する台詞が脳内を過ったが。


幸せそうにはにかむヒロインに返す気は失せた。


「そう…、楽しみだね」

「うん!ペンギン見たいな」

「だがヒロイン…さすがにペンギンは鍋には入らないんじゃないかな」

「くすくす、だからね聖護くん、私別に食べたい物を見に行くわけじゃないからね」



そうして僕達は、ごく普通の恋人同志みたいに。


擬似的な海の空間を寄り添って歩いた。




キティに躾 lesson1


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