ありがとうとか、好きとか、感じたら伝えたい。


それは誰に対しても日常的に自然と形になっていた。



でも今とても躊躇してる。


聖護くんへの想いを恋と意識して、ちゃんと告白をしたいと思った。


言う機会はたくさんある。


だけどいざ言葉にしようと思うと、タイミングも掴めないし、物凄く照れくさくなってしまって…。


それに言葉にしたことで、もし拒絶されたら…と思うと怯んでしまう。


聖護くんの言動を見ていれば、聖護くんが私を拒絶するなんて考え難いけど、言い切れるわけでもなかった。


様々な思考が脳内を廻れば、好きというたった一言なのに、上手に言葉にならなくて。


言えなかった想いは募り続けていく。



「…ただいま、」


今夜は仕事帰りに友人達とご飯に行った。


帰りは何時になるか分からなかったから、今夜は私のことは気にしないでねって聖護くんに伝えた。


そうしたら「分かったよ、楽しんでおいで」って言ってくれたから、聖護くんは今夜は帰ってこないかも知れないと思った。


それでもやっぱりいつだって顔は見たいし声も聞きたい。


だから、友人達と別れて家へ帰りながらも、聖護くんの姿を期待している私もいた。


そして今マンションに着いて、いつもの癖でただいまって言いながらリビングに入ったけれど。


「…やっぱ、いないよね……」


私の方が遅い日は、ソファに座って優雅に本を読みながら待ってくれている姿はなかった。


想定はしてたけど、それでも淋しいと思ってしまうのは仕方ない。


きっと一緒に過ごすことが身に染みついている証拠。



今夜も独りか…と、ぼんやりと思う。


恋と自覚した夜も久しぶりに独りで眠った。


初めてした濃く長いキスと、初めてきちんと教えてもらった泉宮寺さんの実態への驚きも相俟ってなかなか寝付けなかった。


次の日の晩、いろんな感情が入り交じり落ち着かず寝不足になった私を見て、聖護くんは何故か嬉しそうに微笑んだ。


それから低く柔らかな声で「たった一晩留守にしただけでこんなふうになってしまうなんて…困った子だな」と耳許で囁かれて。


頬に熱が集まるのを感じていると、言葉を返す隙もなく唇に唇で蓋をされた。


聖護くんは優しい手付きで私の腰を撫でながらゆっくりと密度の増していく甘いキスをした。


本当にとろけそうで、火照っていくからだ。


思わず吐息混じりに名を呼んで、聖護くんのシャツを強く掴んでいた。


すると聖護くんは口角を吊り上げフって笑ってキスをやめた。


名残惜しくてただ見つめていると、聖護くんは「ここから先は君次第」と言った。


きっとそれは聖護くんはあの問いに対する私の答えを待っているということで、私にとっては告白を意味していた。


でもこの時も言えなくて、結局今も言えないまま。


しかも聖護くんは言えない私の反応を見て楽しんでいるような雰囲気もあって。


甘ったるくて焦れったいキスの回数は増していく日々。



「……はぁ、やめよ…」


あのキスを思い出してしまえば、尚更恋しくなってしまったから。


不純な想いを振り払うように小さく頭を横に振り、冷やす為にそのままバスルームへ向かった。


シャワーを浴びて、とりあえず何か飲もうと思いもう一度リビングへ行く。


そうしたらリビングの奥、ダイニングに人の気配があって。


「ヒロインさん」

「グソンさん!今帰ってきたの?」

「ええ」


小走りで向かうとそこにいたのはグソンさんで、私に気付くとにっこりと笑ってくれた。


テーブルには作りたてらしい一人分の料理が置かれていて。


ちょうど席に着こうとしていたグソンさんの手には瓶ビールとグラスが握られていた。


「遅くまでお疲れさまです、しかも今からご飯?」

「軽くですけどね、今日は食いそびれちまってたんで…」

「じゃあお酌させてください」

「ヒロインさんもご一緒にいかがですか?」

「ん、でも私は今日は大丈夫、いっぱい食べてきたしお水かお茶にしとくよー」

「あぁ、今日はお友達さんと食べて来られたとか」

「うん、聖護くんに聞いたの?」

「はい」

「そっか」


こんな些細なことでも、知らない時間に聖護くんが私の話題に触れてくれている事実が嬉しかった。



椅子に座ろうとしていたグソンさんだけど、ビールとグラスだけテーブルに残し。


再度キッチンへ行き、私の為にカモミールティーを淹れてくれた。


「ありがとうグソンさん、せっかく食べるところだったのにごめんね」

「いいえ、どうぞヒロインさん」


ありがたくカップを受け取って、グソンさんと並んで座る。


ビールの入った瓶を手にして、グソンさんが傾けて持つグラスに慎重に注いだ。


何度かこうしてお酌をしているけれど本物のビールは上手に注ぐのが難しくて、グソンさんは私が慎重になるのを知ってる。


自然と二人の視線は手元に向き、沈黙が産まれた。



「――…そういや、ヒロインさん」

「うん?」


泡のバランスも綺麗に収まった所で瓶を離すと、グソンさんがおもむろに口を開いた。


「昨日この近くでヒロインさんを見掛けたんですけど、声を掛けそびれちまいまして……多分ヒロインさんは仕事帰りだったんじゃないかと、」

「昨日?……あ、もしかしてその時私男の人といた?」

「はい、だから遠慮したのですが…彼もお友達ですか?」

「友達……知り合い、かな?前にね、クレープを奢ってもらっちゃって…それから会った時には話したりするようになったんだけど、それだけだよ」

「そうでしたか、なら声を掛けても良かったですね」

「ふふ、グソンさん?まず一緒にいるときに声を掛けられて困る男の人とかいないからね?」


言えばグソンさんは緩やかに頷いてから、ビールを煽った。


グソンさんが言っているのは、クレープの移動販売車がきっかけとなって少し前に出会った男の人のことだった。


その日も会社からの帰り道で、廃棄区画内で初めてそんな車に遭遇した。


天然の食材を使ったクレープはまだ食べたことがなかったから、一目で惹かれた。


でもそんな日に限って現金を持ち歩いていなくて。


泣く泣く諦め、また遭遇できる日を待とうと思いながら歩みを再開させた。


けれどその時、ホイップにフルーツが飾られたクレープが横から目の前に伸びてきて。


甘い香りが鼻腔を掠めた。


ぽかんとしてしまうと「あげる」と声を掛けられ、声のした方を向けば笑顔の男性と目が合った。


「ぇ…?」

「食いたくて今見てたんでしょ?だからあげるよ」

「…クレープ屋さんの方ですか?」

「いや、違ェけど、食いたそうにしてたから」


ん、と言ってその人は更にクレープを差し出してきた。


「…私そんなに食べたそうにしてました?」

「おー、すげーしてたよ」

「あはは、なんか恥ずかしい…確かに食べたいとは思ってたけど」

「だろ?だったら食いなよ」

「ありがとうございます、でもお兄さんのでしょ?お兄さんが食べてください」

「え、食わねーよ、俺甘いもん嫌いだし」

「え!じゃあどうして…」

「だから、君が食いたそうにしてたから、」

「あぁ…」

「ハハ、んな困った顔しねェでもらってよ、むしろもらってくれねェと俺も困るからさ、無駄になっちゃうじゃん?」


こうなると頑なに断り続けるのも悪い気がして。


お礼を言いつつ遠慮がちに受け取れば、「時間あるんならあそこ座ってちょっと話そう?」と言われ、促されるまま近くのベンチに座った。


…廃棄区画に出入りするようになってから奢ってもらう機会が増えすぎだと思えば、思わず苦笑いが漏れた。


でも自分の都合でそんな顔をしていたら失礼だし、笑顔を作り直して。


いただいたクレープを食べながら、他愛もない話をした。


私がクレープを食べる隣でその人は缶コーヒーを飲んでいた。


クレープはやっぱりとても美味しかった。


帰り際、次に会ったら何かお礼をしたいことを告げ「この辺りにはよく来るんですか?」と聞いたら、逆に連絡先を聞かれた。


「じゃあなんか食いたいもん見付けたら連絡させて、今度は君に奢ってもらうから」って無邪気な笑みで言われ、断る理由もなかった。


それから時々電話が掛かってきたり、仕事帰りに顔を合わせるようにはなった。


でもお礼はまだできていなくて、その都度世間話をしていた。


昨日もそうだった。


だけど今グソンさんに言われるまで、昨日のことすら遠い記憶になっていて。


それ程までに私の心は聖護くんで埋め尽くされているんだと再認識した。



「…ねぇ、グソンさん、」

「なんでしょう」


一杯目のビールが空になったから、再び瓶を手にすればグソンさんももう一度グラスを傾けてくれた。


溢れる直前まで注いで、今度は私から口を開く。


「…私ね、やっぱり聖護くんに夢中みたい」

「おや…やっと自覚できましたか」

「とても好き、ここまで誰かを好きになったのは初めてで……こんなに大きな気持ちは知らなかったから恋と呼んでいいのかも分からなかったの」


いつも色々と聞いてもらっているグソンさんには、自覚した想いを今伝えたくなった。


その上で、全部知ってたって顔で受け止めてくれるグソンさんを見て、なんだか無性にほっとした。


「ダンナには言わないんですかい?」

「それは…告白ってことだよね?」

「ええ、今更隠す理由もないじゃないですか」

「うん…そういえばこの間もね、君は僕の彼女ではないのかなって言ってもらえたんだ」

「でしたらそれがもう答えのような気もしますけど」

「うーん…でもね、」


グソンさんに今の不安も相談しようと思った。


グソンさんには何でも素直に相談できた。


聖護くんとは別の次元でグソンさんもとても大きな存在になっていることを思い知る。


「それでも…もしも拒絶されたらと思うと怖くなっちゃって」

「拒絶、ねぇ……そこまで鬼畜ではないと信じたいですが…」

「ふふ、鬼畜って聖護くんが?聖護くんは基本優しいよね?時々からかうように意地悪を言うことはあるけど」

「フ、ヒロインさんから見りゃあそうでしょうね、だからこそあなたを拒絶するとは思えないのですが…」

「あー……でも、掴み所のない聖護くんだし?」

「そうなんですよねぇ…ダンナですからねぇ…」


わざとらしく遠い目。


もしこの場に聖護くんがいたら眉間を軽く寄せそうな冗談を言い、二人でクスクスと笑った。



「…ですが真面目な話、ヒロインさんも察しはついてると思いますが、ダンナは興味のある人間としか関わらない」

「ん…」

「ましてやヒロインさんのように傍に置いておくなんて、俺の知ってるダンナからは考えられないですし」


グソンさんがここまで言ってくれるってことは、本当にもう躊躇する理由なんてないのかも知れない。


あとは勇気を出して言うだけ。


頭では分かってる。


「でも、まぁ…ダンナはヒロインさんがどんな行動を取ろうと楽しんでいるようなので、焦る必要もないですよ」

「うん…ありがとう、グソンさん」


分かってるけど、すぐに行動に移そうと思うとやっぱり緊張してしまう。


そんな私を悟ってか、グソンさんは諭すように言葉を掛けてくれた。


グソンさんがくれる言葉はどれを取っても私を安心させてくれるもので。


ゆったりとする気持ちを感じつつ、紅茶を飲み終えることもできた。


グソンさんに聞いてもらって良かった。



「にしても…ダンナ、遅いですね」

「え?聖護くん、今から帰ってくるの?」

「はい、遅くなるとは言え帰ってくることには変わりないだろうから、とヒロインさんのことを言ってましたけど」

「そうだったんだ…」


聖護くんがそんなふうに思っていてくれたことも嬉しくて、心があたたかくなる。


明日も仕事だけど、聖護くんが帰ってくるのなら眠らないでもう少し待っていようかと思っていた。



けれどその時グソンさんが片手で端末を操作し始めて。


「――…あー、ヒロインさん、」

「うん?」

「ダンナ、帰ってますね」

「え!?聖護くん、ここにいるの?」


画面を見ながらグソンさんが言った言葉に思わず仰天してしまった。


だってそんな雰囲気微塵もなかったのに。


聖護くんと言えばここで本を読んでるイメージが強かったけど……じゃあ今はどこで何をしているんだろう。


「念のために確認してみたら、ロックを解除した形跡がありまして」

「グソンさんにはそんなことまでわかるんだね」

「そりゃあね、ここのセキュリティプログラムを組んでるのは俺ですし、だからダンナとヒロインさんと俺以外の人間は入れない仕組みになってるんですよ」

「そうだったんだ…!」


グソンさんがそういう類いの仕事をしていることは聞いていたけど。


この地下室がそこまで厳重に守られているなんて知らなかった。


始めこそ物理的なロックにも驚いたものの、今となっては当たり前のように出入りしている。


でも此処にいさせてもらえていることは想像以上にすごいことなのかも知れないと、聖護くんが今家にいる驚きの裏でも驚嘆した。


「寝室か書斎ですかね」

「そうかも、いないと思い込んで覗きに行かなかったから」

「俺ももっと早く気付けば良かったですね、じゃあヒロインさんはダンナの所に行ってやってください、俺は大丈夫ですから」


言いながらグソンさんは端末をグラスに持ち変えて、優しい視線を向けてくれた。


だから、うんと頷いて、ティーカップだけでも片付けようと思い、手にして立ち上がろうとした。


でもそうしたらグソンさんがカップもひょいと持ち上げて、私から離れたテーブルの隅に置いた。


「これも気にしないで大丈夫ですよ」

「ん…ほんとに何から何までありがとう、グソンさん」

「いえいえ、こちらこそ、付き合ってくださりありがとうございました」

「じゃあおやすみなさい」

「おやすみなさい、ヒロインさん」


微笑むグソンさんに見送られリビングを出た。


―――寝室か書斎。


書斎は寝室の隣にあって、寝室よりも更にたくさんの本が並べられている空間だった。


私はまず寝室にある本から読ませてもらいたいと思っているから、書斎にはまだ近付くことがあまりないけれど。


一角にはパソコンも置いてあり、意外だったんだけど聖護くんも稀に高機能アバターを使うと言っていた。


だから消去法で、書斎に本を選びに行ったとしても読むんだったらリビングなことが多いし、パソコンをやっている可能性も浮かんで。


書斎から覗いてみた。


でも真っ暗でしんとしてて、聖護くんがいる様子はなかった。


そうなると残るのは寝室。


だけどもし寝室で読書をしていたとしても私に気付いたら聖護くんはリビングに来てくれるような気もするけど。


そんなの自惚れかな…。


結局聖護くんが寝室にいる理由は見当もつかないまま、寝室へ入った。



するとそこで目に入ったのは。


「ぁ……うそ…」


ベッドの上、布団も掛けずに横になって、瞳を閉じている聖護くんの姿で。


「寝てる…?」


これだけ一緒に過ごしていても、聖護くんが眠っている姿は見たことがなくて。


いつも私の方が先に寝て、起きた時には聖護くんは寝室にいないことが殆どだったから。


聖護くんが寝室で寝ているという選択肢は最初から頭になかった。


だから目の前の光景は衝撃的と言っても過言ではなかったし、感激も沸き上がった。


数秒ドアの所に立ったまま見つめてしまっていたけれど、見つめていたらもっと間近でも感じたくなって。


音を立てずに近付き、なるべく静かにベッドに上がって座った。


それでも聖護くんなら気付くかもと思ったけど、今も瞳を閉じたままで。


聞こえてくるのは穏やかな寝息。


やっぱり寝てるんだ…。


聖護くんの隣には私が毎晩眠っているスペースが残っていて、手元には朗読をしてくれている本があった。


私を待っていてくれたことも窺えて、胸がきゅうっとなる。



惹き付けられるように寝顔をまじまじと見つめた。


長い睫毛に、筋の通った高い鼻。


私を虜にする音を発する形のいい唇。


襟元から覗く鎖骨は妙に艶っぽくて。


本当に…なんて綺麗なひと。


こんな聖護くんを見ることができるのは、きっと傍にいられる特権。


そう思えば込み上げて来るものもあって、どうしようもなく触れたくなった。


抱き付つきたいし、抱き締めて欲しい。


指先に衝動が走る。


だけど、こんなに安らいで眠っている聖護くんを起こしたくもなくて。


だから手をぎゅって握って触れたい気持ちは抑え込み。


避けられていた布団を直してから、私も隣で眠ろうと思った。


無防備な聖護くんの隣で眠れるだけでも幸せなことには変わりない。


布団に手を伸ばしてまずは聖護くんに掛けた。


「――…ん…」


でも、そっと掛けたつもりだったけど、聖護くんは僅かに反応を示し。


咄嗟に息を殺したけど、私の存在に気付いたみたいで。


手首を包むようにやんわり掴まれた。


「…ああ、おかえり」

「ぁ…ただいま、起こしちゃってごめんね、聖護くん」

「いや………」


聖護くんは薄く目を開け私を確認し、唇で軽く弧を描いて。


「ヒロイン、外は寒かっただろう、おいで」


掴んでいる手を引き、腕の中に収まるように私を寄せた。


腕の中で聖護くんの香りに覆われて。


我慢した分も嬉しくて、不意に涙まで滲んできてしまった。


「一緒に眠ろう」

「聖護くん…」

「おやすみ、ヒロイン」


そして聖護くんは私の額にキスをして、再び眠りに落ちたようだった。


どうしよう…もう、幸せ過ぎる。


好きで好きで仕方ない。


からだ中、いっぱい、聖護くんへの好きで溢れてる。



――…今夜友人の一人に「ヒロインも次こそちゃんとシビュラが決めた相手と付き合った方がいいよ」と言われた。


数ヵ月前に彼と別れた私を気に掛けてくれているからこその台詞で、心配がひしひしと伝わってきた。


友人達はみんなシビュラに恋人を決めてもらっていた。


それが当然の世界なのだから、私も回りのその流れは当然として受け入れていた。


みんなの恋は、互いに幸せが約束されている相手で、出逢ってから好きになることも必然のようだった。


もしくは恋心は芽生えなかったとしても利害が一致すれば結婚相手として相応しい場合もあるみたいだった。


どちらにせよシビュラが選んだ人と付き合う友人達はいつだって幸せそうに見えた。


それを間違ってるとは思わないし、みんなが幸せなのは何よりだった。


でもだからこそ友人達からすれば、気持ちが先に動いて傷付く恐れのある私のことが尚更心配のようで…。


今夜も中心には恋の話があって、そんな折に私の恋へと話題は集中した。


けれど聖護くんへの想いはもう引き返すことなんてできないし。


自分で選んだ道で見付けたこの恋はなにがなんでも大切にしたいから。


濁すことなく新しい恋を見付けたことを告げた。


友人達は驚き、また心配も口にしたけど、最後には“ヒロインらしいね”って応援してくれた。



…失くしてしまった以前の恋を本物だと思っていた事実は変わらない。


けれど今となってはあの時の想いだって、今ある聖護くんへの想いとは比べ物にならなくて。


あの恋は聖護くんの言う通り錯覚だったんだろう。


だからといって全ての恋が錯覚だなんて私にはやっぱり思えなくて。


失恋をし、切り換え、次に出逢った想いをまた本物と呼ぶなんて、チープに聞こえるかも知れないけど。


でもそうじゃない、私が分かってればそれでいい。


例えばだけど、聖護くんよりも先にクレープの彼と出逢っていたとしても恋心は抱かなかった。


聖護くんじゃなきゃ、好きにならなかった。


あの日聖護くんと出逢えたことは運命だったんじゃないかって、乙女のような思考すら信じられた。


この恋を本物にしたいの。



想えば想うほど心はまた騒ぎ出して。


あったかい腕の中で聖護くんの胸に頬を擦り寄せ、声を出さずに何度も好きって唱えた。


すると聖護くんは眠ったままだけど、腕に少し力を入れ優しく髪を撫でてくれた。


それはまるで声にならない言葉への返事をしてくれているみたいで。


本当に…泣き叫びたくなる程の好き。



なのに言えない私は意気地無し。


自分がこんなに臆病だなんて知らなかった。


聖護くんがもたらす未知の心境は、本当の私を教えてくれる。


そんな自分も理解して向き合って、前に進んで行きたいから。


次にきっかけを掴めたら、ちゃんと伝える。


そう誓い瞳を閉じて。


聖護くんの心臓の音に慰撫されながら眠った。




赤い糸とジレンマの行く先


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