時刻は二十三時を回ったところ。


ソファで本を読んでいると、シャワーを済ませたらしいヒロインがリビングへ入ってきた。


一度本から目を離しヒロインの顔を見て微笑んだ。


ヒロインも同じように頬を緩ませたことを確認し、再び本へと視線を戻した。



ヒロインはそのままこちらへ来て、僕の足元でラグの上に座り。


僕の太股へと凭れさせるように頭を預けた。


小さな頭部の重みとぬくもり。


「ねー…しょうごくん」

「うん?」

「…うん」


目線は文面のままに、おそらくヒロインも僕のことは見ずに、言葉を交わしていたが。


「どうしたのかな」

「まだ寝室行かないの…?」


ヒロインの言葉を聞き、もう一度本から視線を外した。


案の定ヒロインと視線が交わることはなかった。


代わりに目に入るのはヒロインの艶めく髪。


本は片手で支えたまま、指を絡ませ触れた。


ヒロインはこの行為にも特別な反応を示すことなく、ただ受け入れている。


「また淋しいのかな」

「ん…なんだか今夜は、いつもより…」


表情は見えないが、きっと笑っていても力ない。


―――昨夜、帰ってきたヒロインの様子がおかしかったことにはすぐに気付いた。


事の内容についてはヒロインから言い出さない限り、僕から聞くようなことも決してないが。


それでもヒロインの様子から、別れたあの男が尚もヒロインに執着し、ヒロインはそれを突き放して帰ってきたんだろうという仮説が容易に立てられた。


だが帰ってきたヒロインが僕の顔を見て心から安堵していることも伝わってきて。


ヒロインが昨夜も自らの意志で此処へ帰ってきて、乱れた心を整える為に僕を求めたのであろうことには、率直に愉悦を覚えた。


そして今朝のヒロインは昨夜の出来事を引き摺っている様子もなかった。


しかし。


グソンの報告によると、男の色相はヒロインが家を出たあの晩から不安定ではあったが、昨夜を境に急激に悪化したらしく。


故に暫く専門の施設に入ってのセラピーが必要となり、今日付けで休職扱いになったようだ。


ヒロインの勤め先の関連会社にいた男なのだから、その情報がヒロインの耳に入ってもおかしくはない。


ヒロインの意思とは関係がなかったとしても、自分が直接的な原因になっていると分かる上で、一人の人間の人生が逸れてしまったのだから思うところもあるのだろう。


僕からしたらひたすら面倒なだけの男だし、興味が失せた人間に対し何らかの感情を抱く心理は生涯理解できない自信があるが。


ヒロインがどういった人間なのかは既に充分理解できているつもりだ。


僕はそんなヒロインと向き合っていきたいのだから、今夜も受け入れていくのみだった。



「――…なら、少し出ようか」

「え?」


ぼんやりとしていたヒロインだが、この言葉には反応を示し瞳を丸くさせ顔を上げた。


やっと目が合ったから、また笑んで。


本を閉じ、立ち上がりパーカーを手にした。


今朝ヒロインが出勤前に巻き、帰ってきて外していたマフラーも一緒に。


ヒロインは状況が理解しきれていないような顔でただ僕を見つめている。


「いやかな?」

「…ううん」


ヒロインの手を取り立たせ、手を引いて玄関へと向かった。


するとその時ドアが開き。


「おや、お出かけですか」

「グソンさん、おかえりなさい」


グソンがやって来た。


グソンが連れてきた外の空気を、一足先に鼻腔が捕らえる。


「少し出掛けてくるよ」

「そうですか」


生暖かい視線で僕達を視界に収めるグソン。


「…では、ヒロインさん」

「ん?」

「外は冷えますので、」


それからグソンは着ていたジャケットを脱いだ。


ヒロインに貸す為の行為だと読み取れる。



「車で行くんだ、必要ないよ」


拒否をすればグソンは相変わらずの笑みで「それは失礼」と言い、ジャケットは自身の腕にかけた。


だがおそらくグソンは僕が拒否することも分かっていたはずだ。


「ヒロイン、行こう」

「はーい」


グソンの言わんとすることも想像がつく。


しかしわざわざ口にすることでもなく。


それは、ヒロインが僕にとってどういう存在になっているか。


そしてグソンが僕とヒロインをどう捉えているかを物語っていた。


「じゃあグソンさん、いってきます」

「はい、お気をつけて」


ヒロインは無邪気にグソンに手を振った。


ヒロインに応じゆったりと手を振り返しているグソンに見送られ、セーフハウスを後にした。



「聖護くん、運転してくの?」

「一時間程度だとは思うけど、少し走るから眠っても構わないよ」

「ありがとう、でも運転してる聖護くん好きだから眺めてる」

「そう」


ヒロインを助手席に座らせエンジンを掛け、ハンドルを握った。


自らのからだと脳を使うからこそ、運転することも意義を持ち面白味が出る。


だから僕は自動運転に頼る気はない。


ヒロインははじめこそ運転を好んでする僕に驚いていたが、今はもうヒロインも僕の考え方を理解していることが分かる。


それに先程の台詞通り、ヒロインは運転をする僕の姿が好きらしく。


助手席に乗せるとよく意味のない視線を感じることがあるが、今夜も例外ではなかった。


だが今夜はハンドルを握る手にいつもより多く視線を感じたから。


「ヒロイン、そんなに楽しいかい」

「ん?」

「運転中の僕を眺めていることが」

「ぁ…ふふ、だってやっぱりかっこいいんだもん、でも聖護くん気が散っちゃうよね、ごめんね」

「いや、気にすることはないよ」


左手を伸ばし、ヒロインの右手の下に忍び込ませ。


指を絡めそっと握った。


視線も流せば、ヒロインはしっかりと僕を見ながら頬を僅かに染め、ときめきを隠せない表情をした。


「聖護くん…どうしてわかったの」

「うん?」

「今、触りたい、って思ってたから…」

「どうしてだろうね、でも伝わってきたよ」


ヒロインは満たされたように瞳を細めた。


ヒロインの言葉を借りるとすれば、ぬくもりにほっとした、というところだろう。


こうしてやることがヒロインにとって大きな意味を持つことを僕は知っている。



「でも聖護くん、片手で運転って危なくないの?」

「ああ、どうってことないよ、ほら、」

「わ、片手で曲がった、すごいね聖護くん、ほんとかっこいい」

「フ、もし君が旧時代で生きていたとしたら、こうして運転をする男全員から魅力を感じていたのかな」

「あー……そうかもしれない」

「ほう…否定するかと思ったが…肯定か」

「あはは、冗談だよー、聖護くんだからだよ」


外に連れ出したこと自体、気分転換へと繋がったに違いない。


今のヒロインは柔らかな雰囲気で、笑い声を転がしている。


「あ、建物がある、なんだろう、聖護くん知ってる?」

「あれはドローンの製造と挙動のチェックをしている経産省管轄の工場だよ」

「へーそうなんだ、やっぱり聖護くんはなんでも知ってるね」


イルミネーションで繕った街を抜け、街灯が転々と設置されているだけの道を進んだ。


自然と展開される会話を楽しみつつ、手のひらは重ねたまま。


しばらく走り、目的の場所。



「さあ、着いたよ、ヒロイン」

「…?ここ?」


目的地は何もない、ただの平地。


大昔は展望台として使われていて、それなりに栄えていたようだが。


地形など名残はあるものの今となっては好んで人が寄り付くような場所ではなかった。


ヒロインは僕の顔を見て、不思議そうに小首を傾げた。


「聖護くん、ここには何かあるの?」

「ヒロインなら喜んでくれると確信しているよ」


持ってきたパーカーを羽織り、ヒロインの首にもゆったりとマフラーを巻いてやった。


車から下り柵の手前まで行き並び、夜景を見下ろせば。


際立つのはホログラムイルミネーションで造られた街。


「聖護くん、ここから東京が見えるんだね!すごい光…」

「いや、ヒロイン、ここも東京には代わりないんだけどね」

「え!ここも東京なの?」


ヒロインは圧倒されたように生活圏である街を見下ろしたが、ここも同じ東京だと告げると驚きをあらわに僕を見て。


目が合えばくすくすと笑った。


「私初めて東京から出たって思っちゃった」

「あぁ…そうか、期待させてしまったのならすまなかったね」

「ううん、でもこんな景色を見るのも初めてだから、うれしい」


再び下界に視線を移したヒロイン。


嬉しいと言い僕に対しては微笑んだヒロインだったが、街を見下ろす表情は僕に向けられる笑みとは違った。


だからと言って悲観するわけでも憎悪を抱くわけでもないのだろうが。


何を想いあの街を眺めているのか…、僕には知る術もない。


それでも僕はヒロインの横顔を見つめていた。


目紛るしく移ろうヒロインの表情を眺めることは好きだった。



そんなヒロインの輝きを存分に引き出してやれるのは、果たしてあの街だろうか。



「だがヒロイン、下ばかり見ていないで、空も見てごらん」

「空?…あ、」


ここへ来た目的はあの街を見せることではなかった。


僕の言葉を聞き、ヒロインは素直に空を見上げた。


するとヒロインの瞳は瞬く間に輝きを宿して。


「星!星だね、聖護くん!」

「やはり喜んでくれたね」

「うん、だって…キレイ…」


ヒロインの瞳に映るのは、冷え澄んだ空気の中で、光を放つ星達。


あの偽りの光の中にいたら体験することはない風景が広がる。


だが自然に在る輝きを美しいと捉えるか否かは、個々に元から備えられている感覚でしかなく。


そしてヒロインは予想通りそれを美しいと感じた。


「聖護くん…星ってこんなにキレイなんだね、知らなかった……まず夜空を見上げること自体あんまりなかったなぁ…」

「あの街にこの輝きは届かないからね、だから更に離れれば一層輝いて見えるかも知れない」

「そうなんだ…」


ヒロインは星空を見上げたまま、言葉を紡いでいた。


自然の持つ雄大さに心を奪われているのだろう。


「だったらヒロイン、いつかもっと遠いところに行ってみようか」

「遠いところ?」


先程の会話からヒロインが生活圏外にも興味を示したことが分かった。


例えそこに特別な何かがなかったとしても、ヒロインならば在るべきものさえ在れば喜ぶことも予測できた。


だから提案をしてみれば、ヒロインは星の輝きを瞳に映したまま僕に視線を移した。


「今度こそ東京の外にも出てみよう」

「ほんと?聖護くん…本当にそんな方へも行けるの?」

「ああ、…とある女性は言ったよ、愛していた男の元を去るシーンで―――私の居場所はもうそこにはない、何処にでも行ける、と」


引用をしたのは、僕がヒロインに興味を持つきっかけとなった台詞だった。


「……あ、…それ知ってる…」


記憶を辿りそれに気付いたらしいヒロインは、はにかみ照れくさそうに笑い声を零した。


「だからヒロイン、僕達は何処へでも行ける」

「うん…そうだね」

「囚われる必要なんてないんだ」


ヒロインは今度は真剣な面持ちになり、静かに、だが力強く頷いた。


今夜のヒロインは、この言葉をあの男との出来事に対するものだと解釈しただろう。


だが決してあの男に限った話でもない。


今この世界、全てに於いて言えることだ。


ヒロインならば近い将来きっと理解できるのではないかと感じている。



「聖護くん」

「何かな、ヒロイン」

「私、もっと行きたい、聖護くんと、色々な所へ」

「ああ、君が望むなら、何処へでも連れて行ってあげるよ」

「うん…嬉しい」


また満たされ慈しむような表情を僕に向けたヒロイン。


その表情に、僕自身も満たされるようになったのは、いつからだったか―――。



「例えばヒロイン、美しい海に面した国もあるんだよ」

「海?海って…日本にもある海だよね?海なんて淀んでるだけでキレイなんて思ったことないけど…」

「この国の海はね、だが澄んだ海ならば泳ぐことも可能なんだ」

「海で泳げるの?すごい…!」

「きっと僕達の知らない世界はまだまだあるよ」

「そっかぁ…」


ヒロインは再び星空を仰いだ。


広がる見知らぬ世界に想いを馳せているのだろう。



「はぁ…キレイ」


ヒロインの気が済むまで、今夜は此処でこうしているつもりだった。


が、その時ヒロインが星を眺めながらも、口許で手を擦り合わせたから。


まだ此処にいたいと思う気持ちとは裏腹に、からだは冷えていっているのだろうことに、その仕草で気付いた。


あの男と張り合う気など毛頭ないが、僕はヒロインと約束をした。


ヒロインがしていた恋、全て上回るものを僕が与えてみせると。


失望さえしなければ一度口にしたことを覆す気もない。


だが、それならば、出がけにグソンが取った行動を拒否するべきではなかった。


…あれは、なんの意地だったか。



「――…大切にするのは、難しいな…」


ヒロインには聞こえなくても良い心の裡を、小さく独りごちて。


「うん?聖護くん?…ぁ、ありがとう」


パーカーを脱ぎヒロインの肩に掛け、からだに腕も回し後ろから抱き寄せた。


「ヒロイン、冷えてしまったね」

「やっぱり外は寒いね、でももう聖護くんのおかげであったかいよ」

「それなら良かった」

「だけど聖護くんは寒くない?」

「僕は平気だよ」


ヒロインは幸せそうな音吐で答え、僕に身を任せた。


束の間、流れる沈黙。


その静寂に紛らすかのように、ヒロインはおもむろに口を開いて。


「…ね、聖護くん」

「何かな」

「私、こんなに大切に、」


してもらってるよ、と言いながら自身の胸の前にある僕の腕にそっと手を添えた。


宥められているような心地だった。


「聞こえていたのか…」

「一瞬なんのことか分からなかったんだけど…、だって私は贅沢過ぎるほど大切にしてもらってるし」

「…だがこの程度で満足かい?君はもっと大切にされていい女だと思っているけどね」

「聖護くん…」

「だからさ、僕には好きなだけ望めばいいよ」


できるだけ優しい響きになるよう、耳許で囁いた。


するとヒロインは一度僕の腕を解かせ、からだごと振り向いてから。


潤んだ瞳で僕を見つめた。


「…ありがとう、聖護くん、」


それからヒロインは背伸びをし、初めて自ら僕にキスをした。


触発された僕はそのまま抱き留め、ヒロインの上唇も下唇も唇でゆるゆると挟んだ。


舌先でも軽くなぞり、今までしていたキスよりも長くヒロインの唇の柔らかさを堪能した。


このまま舌も絡めて口内を犯すことも頭を過ったが。


同じくこの先を期待して、唇が離れていくことを惜しみ、物欲しげな顔をしているヒロインを満喫するのも悪くなかった。


一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れまい。


故にそれ以上を与えることはまだせずに。


「っ……、…しょうごくん、」

「うん?」

「これ、すき…」

「フ…、もう一回、かな?」

「…ん、して…?」

「ああ」


触れる度に満天の輝きが降り注いで。


胸に積もるような感触に興じながら。


唇を愛でるだけのキスを何度も繰り返した。




星屑エデン


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