死体の処理を済ませた。


グソンが運転席に座る車で、帰り道。


「チェ・グソン」

「なんです」

「君は、恋というものをしたことがあるか」

「…俺に聞かないでくださいよ」


問えば、グソンの横顔は正に苦笑いという表情を浮かべた。


それから問いで返される。


「あの娘ですか?」

「ああ、ヒロインはね、本物の恋を探しているそうだ」

「へぇ…本物の恋ねぇ……、ダンナはそういうの全く興味なさそうに見えますけど」

「そうだね、ただの錯覚だと思っている」


窓の外で誇らしげに立ち聳えるノナタワーが目に入る。


首を回し僕を視界に収めたグソンが、窓ガラスを介して映った。


「じゃあどうして?」

「錯覚に本物があるとしたらどんな形を成すのか、」


ヒロインは自ら選択をし、本物に目を向けた。


それはヒロインをセーフハウスへ置く理由を更に明確なものへと導いた。


愚かな女ではないことを期待している。


「あるいは、恋などという感情に涙する女が、恋は錯覚だと自覚した後、何が残るのか」


窓の外から視線を外し、僕もグソンを見て告げれば。


「見届けたいと思うよ」

「お付き合いしましょう」


グソンは僅かな間の後にゆったりと口角を上げた。



ヒロインのことはグソンに少し調べさせた。


職を聞けば、国内最大手の製薬会社で勤めているとのことだった。


その中でヒロインがこなすのは、大昔には受付嬢と呼ばれていたものだ。


この時代、ドローンを置いて済ます企業が大半を占める中、ヒロインの勤め先は違った。



色相が濁ることを恐れ薬品に頼りケアをする人間も多くいる。


この国になんら疑問を抱かない人間にとっては重要な役割を担う企業で。


開発に携わる人間も自分に課せられた業務を自覚しているはずだ。


重要な企業だからこそ、目に見えないしがらみも多くあることは事実だろう。


ヒロインの雰囲気からそういった意味での重苦しさは一切感じられなかったが。


ともかくそんな組織にヒロインは置かれていた。


当然、この世界で生きてきた女なのだから、シビュラによる適性診断に基づき選んだ職ということだ。



となればヒロイン自身も薬品に頼り、メンタルケアを行っていることも考えられる。


知識がある分、一段と神経質で過敏になっている可能性もある。


だから僕は試した。


ヒロインがまだ眠っている間にセーフハウスへ立ち寄って、ホロではない高価な服を贈り、天然の食材を使った朝食を用意した。


天然の食材を口にすることはサイコパスを濁らせる要因とも言われている。


偽りの世界に疑問を抱き始めたヒロインだが、色相が濁ることはやはり恐れるだろうか。


そうなったら面白味に欠けるな。


その結果を夜まで待つことも時間の無駄だと感じ。


おそらく昼食を取っているであろう時間帯に、ヒロインの端末から抜き取った番号へ連絡を入れた。


呼び出し音の後、ヒロインの声が聞こえた。


「はい、」

「ヒロイン?僕だけど」

「まきしま…槙島さん!びっくりしたー…!」

「突然すまないね、急用ができた際のことを考えて君の端末に僕の番号を入れておいたよ、共に暮らす身だからね」

「あ…ふふ、はい、そうですね」

「今は時間大丈夫かな」

「うん、大丈夫ですよー」


僕からの唐突な連絡に若干驚いたようだったが、すぐに昨日聞いたままの声色に戻ったヒロイン。


昨晩の出来事について、落ち込む様子も伺えない。


「今晩は何時に帰ってこられるか聞こうと思って」

「えっと、七時くらいには帰れると思います」

「じゃあ僕もそれまでには帰るようにするよ、夕飯を一緒に食べようか」

「はい!あの、槙島さん!」


するとヒロインは、僅かに強く僕の名を呼んで。


「朝ご飯、すごく美味しかったです、あんなに美味しいもの初めて食べました、洋服もとてもかわいくて…」

「そう、気に入ってもらえたんなら僕も嬉しいよ、ヒロイン」

「槙島さん、本当にありがとう」


しみじみと感謝をあらわにした。


天然の食材を口にしたことは嘘ではないだろう。


この事実を確認することができ、口角は自然と吊り上がった。


口にすることに躊躇はなかったのか問うのは夜の楽しみに取っておこう。


「夕飯も腕によりをかけさせるよ」

「え?」

「作ったのは僕ではなくチェ・グソンだからね」

「あはは、そうだったんだ、グソンさんにもお礼言わなきゃ」

「ああ、じゃあまた夜に」

「はーい」


夜の約束をして、会話を終えた。


そうして時間までに歌舞伎町へ向かう。


部屋へ入れば、手を加えられた食材の濃密な香りが鼻腔を刺激した。


テーブルを見ると、丁寧に配膳もしてあり。


ちょうど仕度を終えたらしいグソンが振り向いて、僕を捉えた。


「すまないね」

「まったく…俺は料理人じゃないんですけどねぇ…」


グソンは少し茶化すように僕に言葉を掛けた。


「分かってるよ、感謝している」

「ま…嫌いではないんで、構いませんよ」

「君は食べていかないのか」

「あなたとヒロインさんの邪魔をするつもりはありませんから、それでは」


そうしていつも通りの口調と笑みを残し出掛けていった。


程無くして扉の開く音が聞こえ、ヒロインも帰ってきたようだ。


ヒロインはソファに座る僕の存在に気付くと頬を緩ませて。


「ヒロイン、おかえり」

「あ…ただいま、槙島さん」


少し照れくさそうにただいまと口にした。


「夕べはよく眠れたかな」

「はい、おかげさまで」


表情も昨夜よりずっと明るく。


強がっているようにも見えず、別れた男のことで特別思い悩んだりもしていないのだろう。


「そうだ、ヒロイン」

「うん?」

「夕べ興味を持っていたようだったから、」

「紙の本?」

「あの本が翻訳されているものだ、ヒロインに贈るよ」


今日はこれを探すことに一番時間を割いた。


差し出すと、ヒロインはおもむろに両手で受け取り、まじまじと表紙を眺めた。


数秒の後、顔を上げ僕の目を真っ直ぐに見て。


「槙島さん…本当にありがとう、大切に読みます」


感激をしている様子で礼を告げた。



「…でも、槙島さん」

「なにかな」

「どうして私にこんなに良くしてくれるの…?」

「うん、そうだな、敢えて言うなら本物を見出だそうとしているヒロインを歓迎したいからだよ」


言えばヒロインは目を丸くさせてから、脳内で夕べの会話を反芻させたのであろう。


納得したようにゆっくりと首を縦に振った。



「ではヒロイン、食事にするとしよう、ちょうどチェ・グソンが作っていってくれたところでね、」

「くすくす、ほんとにグソンさんが作ってくれたんだ」

「今夜はフレンチだ、白ワインも開けようか」

「ワイン…!?メディカルトリップでもバーチャルでもなくて?」

「ああ、もちろん」


テーブルを挟み向き合って座った。


ヒロインの前にあるグラスにワインを注いでやれば。


その光景を眺めているヒロインの瞳は、まるで全ての光を吸い込んでいるかのように輝いた。


ヒロインの瞳の中でゆらゆらと波打つワイン。


「じゃあヒロイン、乾杯」

「はい、乾杯」


グラスがぶつかりチンと響いた音はとても軽やかだった。


ヒロインはゆっくりとグラスに口を付け、舌の上で風味を堪能しているようだった。


「わ…すごい、独特…」

「苦手ではない?」

「ん、多分」

「ゆっくり味わうといいよ、急に酔いが回っても困るしね」

「ありがとう、槙島さん」


ヒロインは嬉しそうにふんわりと笑った。


それからもヒロインは料理を口にする度に、味や食感、合成では味わえない全てに、驚きそしてはしゃいだ。


やはり躊躇はしていない。


「槙島さん、本当にすごく美味しい、きっとほっぺが落ちるってこういうときに使うんだね」

「しかしヒロイン、勧めておいて何だが…天然の食材を口にすることに戸惑いはなかったのかな、色相が濁ると言われているだろう」

「あー…うん、だって今まで生きてきた世界は昨日で終わりにしたの」

「ほう…、それはどういうことなのか、もう少し詳しく聞かせてくれないか」


詳細を求めればヒロインはフォークを唇に当てたまま、若干考えた。


僕に伝える為の言葉を選びつつ、自身の心の整理も再度しているように見えた。


一瞬男との思い出を振り返っているような表情も浮かんだが、すぐに蓋がされた。


「彼との恋は偽物でそんな世界も偽物だった…、偽物はもう要らないから、今度こそ本物が存在する新しい世界を見付けたかった」

「本物、ね、」

「そんな中出会った槙島さんは私の知らないものをたくさん持ってて、魅力に溢れてた」

「そっか」

「だから私は此処に居たいと思った、そして順応してみたい」


再開されたヒロインの言葉からは、此処へ帰ってきたことも、成り行きに任せ決めたことではなく。


しっかりとヒロインの意思が介在されていることが垣間見えた。


僕はきっかけを与えたに過ぎない。


「それにね、好奇心もあって」

「好奇心、天然の食材を口にすることに対してのかな」

「うん、天然の食材は悪のように教えられて育ってきたけど、本当に本当なのかな?って」


言いながらヒロインは幼気な笑みを見せた。


予想外の返答と反応だった。


「それに結局は、自分のことだから自分が一番よく分かるよ、これは大丈夫、これはきっと駄目って、」

「そしてヒロインの基準は、天然の食材を取ることは善しと判断した」

「そう、自分の気持ちがちゃんと見えていれば色相が濁ることもないんじゃないかって思ってるから」


飾り気なくシンプルに語られる言葉は、僕の興味を離さなかった。


満たされたように弧を描く唇を感じる。



「案の定今日も私はクリアカラーだったよ」

「それならこれからも安心して一緒に食事ができるね」

「うん」


ヒロインは笑顔で首を縦に振った。


この女はシビュラ社会で生きていたとしても、ただの家畜とは違うようだ。


馬鹿ではない女を拾った。


今こうして交わす言葉も無駄にはならない。


もう少し問うてみるとしよう。


「だがヒロイン、察しはついていると思うが僕は合成されたものが嫌いでね」

「はい」

「ヒロインが此処に居る選択をする限り、僕は喜んで衣食の用意をするよ」

「ありがとう…槙島さん」

「しかし此処でそんな生活を続けていくうちに、もしもヒロインの色相が濁ることがあったら、ヒロインは薬品に頼るのかな」


ヒロインが自ら職のことを話すよう仕向けた。


当然僕はヒロインの職について知らない振りをする。


「あ…あのね、槙島さん、私製薬会社で働いてるの、受け付けをしてる、だから薬品ってすごく身近なもののようにも思えるんだけど、」

「だったらヒロインはメンタルケアについても人一倍敏感というわけか」

「でもね、私は薬品関係のことで適正が出た訳じゃないの、だから薬は使ったこともないし、使おうと思ったこともないよ」


僕は柔らかな眼差しを向け、ヒロインの言葉に頷き調子を合わせた。


意識しているわけではないだろうが、ヒロインの奥にはしっかりとヒロイン自身が存在していて。


何に対しても自分なりの判断基準を持っているように見えた。


悪くないな。



「今の会社にいるのはね、空間演出能力?それが高く評価されたみたいで、」


続けてヒロインは、何故今の職に就いているのか口にしたが。


なるほど。


ヒロインのこの答えを聞き、合点がいった。


シビュラがこの社会に於いてヒロインに求めたものは、癒しか。


重要視されている企業で、適正が出ているとは言え働いている側のストレスはおそらく想像の比ではない。


そんなやつらはきっと自社の薬品に頼る。


だがそれでユーストレス欠乏症になっていたら元も子もなく。


そうなる前に社員のストレスを軽減する役割をヒロインは担っているのだろう。


「基本は目を見て挨拶をする、笑顔で話に応じる、それだけのことなんだけどね」


確かにそれだけのことだが、ドローンにはない何かがあることは確かで。


そこにいる、それだけで安心感を作れる女。


ヒロインに救われた人間は数知れず、か…。



ヒロインの話を聞いているうちに食事は済んだ。


ヒロインはその間に、一杯のワインを時間を掛け楽しんでいた。


アルコールのせいだろう、色の白いヒロインの頬はほのかに桜色に染まった。


ひどく酔っている様子はない。


「平気かな?」

「うん、なんか、しあわせ」


ヒロインは本当に幸せそうに笑い声を漏らし、両手を頬に当て背をソファの背もたれに預けた。


「…目まぐるしいな」

「うん?」


そんなヒロインを眺めつつ、ボトルを手にソファから立ち上がり、ヒロインの隣へと移動した。


ヒロインはやや不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。


「いや、昨夜は泣いていたから」

「…!夕べは本当にご迷惑をお掛けしました…」

「迷惑だと思っていたら、連れてこないよ」


昨夜の話題を出せば、ヒロインは眉を下げ少し困ったような表情になった。


実験を行うような心持ちで、今度はそっと頬に触れてみる。


昨夜は涙で濡れていた頬。


するとヒロインの頬は一層紅くなって。


「フ、やっぱり目まぐるしい、面白いね」

「…槙島さんにそんなことされたら誰だって赤くなりますよ」

「そうかな」

「ん…そうだよ」


随分と緩い空気で満ちた。


ヒロインの空いているグラスに二杯目のワインを注げば。


再びヒロインの視線もグラスへと注がれた。


しかしそれをきっかけにどことなく雰囲気が変わったことも察知した。


ボトルをテーブルに置いたと同時にヒロインはゆっくりと紡ぎ始めた。


「…彼と出会ったのも職場だったの」

「そう」


昨夜の男のこと。


軽く相槌を打ち、耳を傾けることに徹した。


願わくばまた想定外の感情を見せてもらいたいものだ。


「取引先の人で、挨拶してくれる笑顔がかわいくてね…気になり始めたんだ」


ヒロインとあの男との出会いは、昔の作家達の描いた本の中では溢れているようなありふれたものだった。


だが今この時代では、話は別だ。


「そのうち一緒に出掛けられるようになって…、告白をして受け入れてもらえた時はすごく嬉しかったなぁ…」


ヒロインの語尾は懐かしさを含み、その後の言葉は一時途切れた。


が、語られたヒロインの価値観は、想定外を通り越し。


「シビュラによる相性診断で選んだ相手ではなかったんだね」

「だって恋する気持ちは別物だったもん、惹かれちゃうものは止まらないでしょ」


称賛に値した。


ヒロインはシビュラに従うばかりではなく、本能的に自らの意思で動いている。


それでいて色相の濁りも知らずに――。



「…でも結局彼はシビュラが選んだ相手に揺らいだんだけどね」


しかしヒロインとあの男が辿ったのは昨夜の結末。


ヒロインの意思で選ばれたことが、どんなに尊いものか気付けないとは、実に愚かな男だ。



「――ヒロイン、僕はね、恋などという感情は錯覚に過ぎないと思っているんだよ」

「…?じゃあ槙島さんは恋をしたことないの?」

「ああ、ないね、必要もないと思っている」


ヒロインの変化を傍で見ていきたい。


純粋にそう思い、手っ取り早い方法を模索した。


「だからこそ錯覚に涙しその感情を大切に扱うヒロインに興味を持った、僕には計り知れないものだからね」

「そうなんだ…」

「だから言ったんだ、僕と一緒に追求していこうと」


欲望の方向を弄るだけで自由にコントロールできるのは、何も犯罪に限った話ではないのではないか。


ヒロインの好奇心が刺激されたように、僕の好奇心も疼く。


これは僕にとっても新たな世界の幕開けとなるだろう。


「ヒロイン、もう少し聞いてもいいかな」

「うん?なあに、槙島さん」

「彼のどこに恋をしていたんだい?」

「どこに…」


ヒロインはグラスを片手に若干考えた。


それから僕の目は見ずに、感情が読み取りにくい表情で言葉にし始めた。


「まずはさっき言った笑顔…まぁ顔が好きだったんだろうね、」


顔と口にした際には自嘲気味な笑みが薄く現れたが。


「優しいところとか、一緒にいてほっとできたとことか、からだ動かすのも好きだったみたいで、友達とスポーツしたり…それ見てるのも好きだった」


坦々と語られていくあの男のこと。


飛び抜けた特徴はない。


それでも恋をすると、それら全てが特別に変わるのか。


「仕事に対する態度も真面目だったし、誠実だと思ってたんだよね…」


ここまで言ってヒロインはワインを一口飲んだ。


ヒロインが誠実だと思っていた男は虚像。


「誰よりも大切にしてくれて…、結局これも嘘だったけど」


大切にされていたことも、何もかも。


ヒロインが本物だと思い込んでいた全てが、偽りに成り果て終わりを告げた。



シビュラが認めた恋ではなかったから?


そんな馬鹿げた話があってたまるか。



「ふ…なんだろう…、言葉にするとすごく陳腐…」


男との恋を言い終えたらしいヒロインは、力ない笑みを浮かべ、刹那空虚を見つめた。


陳腐なのは錯覚だからではないのか。


それともヒロインの裡にあるものは未だ輝きを知っているのか。



君の出す答えを、僕に見せてほしい。



「じゃあヒロイン、僕の顔は好きかな」

「槙島さん?」


そのまま考え込むようにぼんやりしていたヒロイン。


放っておけばまた涙を流し始めたかも知れないが、問えば首を回し僕に視線を向けた。


数秒見つめ合う。


「…ふふ、ほんと綺麗な顔、嫌いなわけないよ」

「嬉しいね」


ヒロインは問いに対し拍子抜けしたように唇を綻ばせた。



「ヒロイン、約束するよ」

「約束?」

「ヒロインが彼にしていた恋、全て上回るものを僕が与えてみせる」

「え…?」


視線は絡み合ったまま。


今度はヒロインは小首を傾げて。


ただ僕の言葉を待った。


「―――人生で一番楽しい瞬間は、誰にも分からない二人だけの言葉で、誰にも分からない二人だけの秘密や楽しみを、共に語り合っている時である、」


この引用は、ヒロインに聞かせる為、そして自分自身にも聞かせる為に口にした。


ヒロインは真剣な表情で僕を見つめたまま。


心当たりがあるのか、それとも僕の意図が理解できたのか。


あるいはその両方か。


言葉は発することなく静かに頷いた。



「だから、ヒロイン」

「…はい」

「僕に恋をしてごらん」


言えば、ヒロインの瞳に光が差して。


僕の瞳にも反射した。



さあ、ヒロイン、これから創造する世界では何が見えるかな。


そうして僕自身も新しい何かが見出だせるのだろうか。


楽しみだ。




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