ヒロインの怪我の程度を聞きそびれた。


ダンナの様子からして大怪我ではないはずだが、あのひとを理解できる日など来ないだろう故にそれも分からない。


それにヒロインが怪我をしたからと言って、俺自身ここまで急ぐ必要性があるのかも分からない。


しかしそれでも足はひとりでに逸っていた。


何かに突き動かされるような感覚で歌舞伎町まで行き、部屋へ入った。


ドアが音を立てることもなく自動で開くと、ソファでヒロインを胸の中に収め座っているダンナが視界に飛び込んできた。


ぱっと見ヒロインに大きな怪我があるわけでもなさそうだった。


俺に気付くとダンナは、表情を持たずに、唇の前で人差し指を立てた。


ヒロインはダンナの腕に安堵し眠ってしまったという所か…。


おとなしく待っていろとは言ったが、あまりにも呑気な二人の姿。


溜め息混じりに思わず脱力しちまえば。


ダンナはいつも通り余裕のある微笑みを作って見せた。


静かに撫で下ろされる胸中。



「悪いね」

「いいえ……ヒロインさん、どこを怪我したんです?」

「右膝の下、5センチ程、急いで帰ってきて何処かで切ったみたいだよ」

「そうでしたか…今薬と包帯を用意しますね」


いつもより小さな声で言葉を交わす。


収納スペースからご所望の救急箱を手にし、二人の足元であぐらをかき座った。


ヒロインの大したことのない傷も、自らの目で確認した。


救急箱の蓋を開け、必要な物を選り分けていく。


「チェ・グソン、それにしても君は…」

「はい?」

「いつからそんなに過保護になったのかな」


ダンナの問いに、無意識に顔を上げていた。


過保護と口にし、目が合ったダンナは相変わらず秀麗な笑みで。


…これを過保護というのか。


そもそも元より俺は意図はなくとも、生活感のないダンナの世話だって焼いちまってると思う。


例えばもし今、怪我をしたのがダンナだったとしても、俺は同じようにここへ戻ってきていた。


「そんなつもりはないですけど…そうだと言うんなら、元からですよ」

「そう?だが君にしては焦っていたようだったから……フ、面白かったよ」

「…あんな電話をされりゃあ…ね、誰だって焦りますよ、怪我の程度も分からなかったですし…」

「それは君が勝手に通話を切ったからだろう」

「それより先に切ったのはダンナでしょう」


話ながらダンナはそっとヒロインを腕の中から開放し、ソファから下ろされている足はそのままに、上半身だけを横にした。


ヒロインはそれに気付くこともなく、尚も安らかな寝息を立て続けている。


その柔らかな流れからは慣れを感じ、ひどく自然だった為に、消毒液を手にしたままなんとなく眺めちまっていた。


「何かな?」

「…いや、随分と慣れた動作だと思いまして……ヒロインさんも起きませんし」

「慣れた動作…か…、毎晩のことだからからだろう」

「あぁ…」

「こうして寝かし付けたのは初めてだったけどね」


ダンナとヒロインには今はまだからだの関係こそないものの。


ここのところダンナは、用がなければ毎夜ヒロインと眠っているらしく。


ダンナの方こそ、いつからそんなに過保護になったのか、と問いたくもなるが。


ヒロインの穏やかな寝顔を見るていと、口にするのは不粋な気もして―――。



「チェ・グソン、」

「何です?」

「消毒は必要ないよ、僕がしておいたから」


手元に視線を戻し、まずはピンセットで綿を挟み消毒の準備をしていた。


しかしダンナの言葉に再び顔を上げざるを得なく。


「……もしかしてダンナ、とても原始的な手段を取ったんじゃ…」


目を見て言えば、ダンナは更に目を細めた。


どことなくあどけなく見えたそれは肯定の表情だろう。


何の感情も抱いていない女に、普通そこまでしない。


ダンナの中でヒロインがどれ程の大きさになっているかは計る術もないが。


「出してしまえばいいんだよ、恋をしていた血など」


付け加えられた台詞には僅かに威圧が満ちていて。


傷を作って帰ってきた挙げ句、ここで寝ちまうほどヒロインは疲れているようだし。


何かあったのは確かだろう。


おそらくヒロインのかつての恋人絡みで。



ダンナに必要ないと言われた消毒液を傷口へと乗せれば。


「……ん、…」


染みたらしくヒロインは眠りながらも若干顔を歪ませた。


「――…追加のご依頼があれば、いつでもお受けしますからね、」

「ああ……僕が手出しをするつもりはないけどね、」


今のところは、と言いながら、ダンナはヒロインの髪に指を絡め優しく梳いた。


ダンナの手の感触にヒロインはまた安堵したのか、手当によって生じる痛みにそれ以上敏感になることはなく。


その後、薬も塗り包帯も巻いたが、ヒロインが目を覚ますことはなかった。


見ず知らずの人間を殺めるか否かの意思を確認しつつ、ちっぽけな傷口の手当をする。


殺める際に流れる血の量とは比べるにも値しない傷を大切に扱うなど、なんだか滑稽だと頭の隅で感じながら、救急箱の蓋を閉じた。


白い包帯をぼんやりと見つめた後、もう一度ダンナに目をやった。


「…ですが、」

「うん?」

「やっぱり…ご依頼がなくとも調べておきますよ、同居人に付きまとう男の情報は知っておいても無駄ではないでしょう」


ダンナと共に過ごすことが、危ない橋を渡る行為だということは自覚している。


だが自分で見極めた上でこうしているんだから悔いもない。


「フフ、やはり随分と過保護な上に大切にしているように見えるけど」

「まぁ…そりゃあ、ね、じゃあ否定はしませんよ」


今後もこのひとの意思は尊重していくまでだ。


大切なものの基準なんてとっくに破綻してる。



「ヒロインさんはダンナの特別なご贔屓ですから」


言えば、ダンナは満足げに口角を上げた。


「そう、じゃあ頼んだよ」

「はい」


それからダンナは一度立ち上がり、ヒロインの背と膝の裏に手を入れ軽々と持ち上げたかと思えば。


橙色のクッションが枕代わりになるようソファに寝かせ直した。


だらりと下ろされたままだったヒロインの足も無事にソファの上に乗った。


寝にくいだろうと気になってはいたが、触れてはいけないような気がして、俺は敢えて避けた行いだった。


そしてダンナが本を手に再びソファに座ったのも見届けて。


ヒロインにブランケットを掛けてから、ダンナの前に紅茶を用意した。



「チェ・グソン、今夜はまだここにいるかい?」

「一人の人間の情報を調べるくらいならここでもできますから、問題なければいますけど…」

「じゃあ朝食も頼んでいいかな、泉宮寺さんからもらった卵もあるよ」

「分かりました、ヒロインさんの好きな料理を作りましょう」

「きっと喜ぶよ」


頼まれずとも朝食の準備はしていくつもりだった。


今日に限らずそうしている。


だがわざわざダンナが口にするということは、ヒロインの為に共に食事を取る所まで含まれているのだろう。



このひとが何を考え、この女の何がこのひとを動かすのかも分からないが。


不満の種は見当たらない。



向かいのソファに座り、ダンナとヒロインの姿を同時に視界に収めれば。


二人の空気が息衝く感触を覚える。


自然と軽く口角が上がったことを感じながらも、持ってきていたパソコンを立ち上げ情報の中へ身を投げた。


ヒロインが目を覚ますよりも先に、片付けちまいたい仕事の為に。




傍らで彩るシャリファアスマ


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