重要な会議が終わるまで会社に残ることになっていて、いつもより帰りが遅くなった。


遅くなるかもとは伝えておいたけれど、それでも私を気にしてくれたらしい聖護くんからはさっき電話があった。


今から帰ることを告げると「待っているよ」と返ってきたから、聖護くんはもうあの部屋にいるのだろう。


自分の帰りを待ってくれている人がいることは嬉しい。


でもこんなふうに嬉しいのは待ってくれている人が聖護くんだからなのかな。


軽くなる足取りを感じながら、すっかり慣れた帰路を辿る。


最初は不安だった廃棄区画。


特に夜は怖かった。


だけど今は怖いだけの場所じゃないって分かってる。


通りへ出れば、声を掛けてくれる顔見知りもできた。


それぞれに事情はあるんだろうけど、あそこで知り合った人達は悪い人にも見えなかった。


私の帰る場所のある街。



「―――ヒロイン!!」


ちょうどシビュラに全てを管轄されている街を外れたところ。


気にしたことはないけれど、聖護くんいわく街頭スキャナの数もかなり減るらしい。


そんな場所で後ろから手首を捕まれ、懐かしい声と響きで呼ばれた。


「ヒロイン!こんなとこに何の用があるんだよ」

「え…?……なんで…?」


振り向けばあの時別れた彼の姿。


「何でか聞いてるのは俺の方、ヒロイン、こんな所で何をしてるの」


問いを問いで返した私に、また問いを突き付ける彼は、少し眉を下げばつが悪そうに笑った。


「……あなたには関係ない」

「関係ないとか言うなって…、俺やっぱりヒロインのこと…」

「っ…やめて」


再会して早々、彼の唇から吐かれる言葉に嫌悪を覚えた。


愛してた頃はそんなこと一度もなかったのに。


声を聞き、顔を見て、懐かしさが芽生えていないと言ったら嘘になる。


大切にしてた想いを裏切られた事実も再び浮き上がり、胸が締め付けられもした。


でもそれは私の心についた傷の問題。


彼自身に感じることはもう何もないみたいで。


「ヒロイン、会いたかったんだ…話がしたい」

「…その為に会いに来たの…?」

「ああ、ゆっくり話したくて」


むしろ彼が何かを話す度にマイナスになっていく気がした。


だって此処でばったり会うなんてありえない。


明らかに跡を付けられてた証拠。


それでも声を掛けるなら私が会社から出てすぐ掛ければいいのに。


それもしなかったということは、あわよくば家まで付いてくるつもりだったんだろう。


でも廃棄区画という予想外の場所に、彼は思わず私を呼び止めたに違いない。


ゆっくり話したいなんて言ってるけど、今の私の住み処を知ってどうするつもりだったのかと思うと少しぞっとする。


「端末の番号を変えただろ?帰ってくるかと思って待ってたけど音沙汰もないし…」

「私が帰ると思ったの?」

「毎日待ってた、ヒロインがいつ帰ってきてもいいように部屋もそのままだよ」

「何言って……勝手に決め付けないでよ」


呆れて物も言えないとはこのこと。


私に隠れてシビュラが選んだ彼女と逢瀬を楽しんでいた癖に。


何故か未だに私に執着する彼に、みるみる幻滅していく。


恋をしていたから、彼の本性が見えていなかっただけなのか。


恋をしていたから、全てを許せていただけなのか。


元から私が彼の全てを見ようとしていなかったのか。


今となっては分からないけど。


もう怒りすら湧いてこなくて、惨めになるばかり。


さっき掴まれた手首から広がるように冷ややかな感覚がからだ中を廻った。


「会いたくて仕方なかったんだ、我慢できなかった…、ヒロイン…ほんと帰ってこいよ」

「新しい彼女がいるでしょ、シビュラが選んだ彼女となら絶対にうまく行くんだから」


言えば彼は何も答えずに首を横に振った。


…あの晩、彼はとても馬鹿げた根拠を言った。


私といることがとても心地好いから、シビュラが今の自分に選んだ女の子ならどれだけ心地好いか知りたかった、と。


とても悲しかった。


そして彼はそれでも私がいいと言ったけれど、そこで選ばれて嬉しいなんて思えるわけなかった。


ひたすら悲しかった。


今更何を言われても無理。


自分の気持ちが冷めきっていることを冷静に感じた。


「帰ろう、な?ヒロイン、」

「やだっ…、やめて」


彼はもう一度私の手首を握り、少し強く引っ張った。


私の跡を付けたりこんなことをして、なんで彼の色相が濁らないのか考えたけど。


言葉の端々やこの行動から、理由が分かったような気がした。


きっと彼はまだ、私を自分のものだと思ってる。


私が彼に愛想を尽かすことなどないと。


故に自分がおかしなことをしている自覚すらないように思えた。


「…ちょっと落ち着きなよ、頭冷やした方がいいよ」

「ヒロインがいないと無理」

「でも、言ったでしょ、私の居場所はもうあなたの所にはないって、」


だけど私は誰かのものなんかじゃないから。


まっすぐに目を見て、きっぱりと拒絶の言葉を口にする。


「今、私の帰る場所はこっちにあるの」

「……は?」

「だから、離して」


私の居場所は廃棄区画内だと態度で示して。


捕まれていた手を勢いよく引き抵抗した。


彼は私の言葉に呆然として、力も抜けてしまったようで、すぐに離してもらうことができた。


けど。


「ちょっと待って…だったら尚更このままってわけにはいかないよ、…落ちこぼれが集うような場所で、」

「…そういうふうに言うのもやめて」

「だってそうだろ…人間的に欠陥があるからこんなところに出入りするようになるんじゃないか、ヒロインが居るような場所じゃない」

「いい加減にしてよ」


通りすがる人の視線を感じて、居た堪れなくなった。


悪い人ばかりじゃないのに、ここのことを何も知らない彼にそんなこと言われたくなかった。


彼の台詞を回りにいる人の耳に入れたくなくて。


無視して帰れば良かったのに、今度は私が彼の手首を掴んで、近くにあった人通りの少ない路地に入り込んでいた。


咄嗟にしてしまった行動だった。


「…ここにいる人達が人間的に欠陥があるって言うんなら、今ここにいる私もそうだよ」

「ヒロイン…、ヒロインはそんなことない、俺が一番よく知ってるし、理解してるよ」


若干きつめに睨んで牽制したけど、彼には届かなかった。


返す言葉も見付からず、彼の手首を掴んでいた手を力なく離した。


だって何を言っても噛み合わない。


理解してる、なんて、その思いは錯覚だよ。


理解できていないからこうなっているんでしょう。


キラキラ輝く恋心を教えてくれたことは感謝してる。


そしていつかもう一度そんな恋がしたいとも思ってる。


だけど、なのに。


彼が言葉を発する度に、本物の恋を信じたい気持ちまで汚れていくようで。


「ヒロイン…こんな所にいたらいつか濁るよ、だから帰ろう」

「濁ってしまうのはあなたの方でしょ…、私はあなたのものじゃない、だから執着もしないで」


これ以上、汚されたくないよ…。



あなたのものじゃないと告げれば、彼は心底傷付いた顔をした。


でもそれをちゃんと理解してもらって、お互い別々の道を進むのが最善だから。


「……帰るね」と口にして、背を向けようとした。


だけど行動に移すよりも先に。


「ヒロイン!」

「っ…!」


きつく抱き締められ。


「ほんとにやめて…離して!」

「ごめん…ほんとにごめん、俺が悪かった、…ヒロイン、愛してるから…」


泣きそうな声で縋られ。


全身が粟立った。


情に流されることもない。


何もかも汚れていく。


綺麗なものに触れたくて、指先が震える。


「ヒロインの居場所はここだろ…?」

「ちが…う…、」

「ヒロイン…」


そう思ったと同時に浮かんだのは、優しく微笑んで穏やかに私の名を呼ぶ聖護くんの姿。


あのひとは美しい。



「…しょうごくん……」

「は…!?…だれだよ……それ、」


無意識に口にしてしまった名。


呼んだところで汚れた想いが綺麗になる訳じゃないのに。


でも彼は、私の口から自分以外の男の人の名が出たことにとてつもなく驚いて。


私の顔を覗き込もうと、腕の力を緩めたから。


その隙に私は両手で彼を思いきり突き飛ばした。


「聖護くんは…私を理解してくれる大切なひとだよ」


捨て台詞を残し、今度こそ彼に背を向けた。


彼は衝撃で壁に強く背を打ち付けたようだったけど、振り向くこともせずにあの部屋に向かって走った。


私の最後の言葉がショックだったのか彼が追ってくる気配もなかった。


でもとにかく走った。


走りながら、小説やドラマだったなら聖護くんが登場して助けてくれる劇的な展開が待っていたかも知れない、なんてことも頭を過ったけれど。


そんなこと起きるわけもなくて。


だけど私はそれで良かったと思った。


自分の意志で、自分の足で、帰りたかったから。



でもやっぱり、聖護くんの顔が早く見たい気持ちは別物で。


息苦しくて仕方なかった。


この息苦しさは、走っているからという理由だけではないような気がした。


マンションに着いて呼吸を整えることもせず、そのままリビングに向かった。


ドアが開くと、ソファで座って本を読んでいる聖護くんが見えて。


聖護くんも私に気付くと、本を閉じながらいつもの微笑みを向けてくれた。


「しょうご、く…」

「ヒロイン、おかえり」

「はぁ…聖護くん……ただいま…」


顔を見て、声を聞いて、物凄い安堵を感じた。


上手に息ができる。


言葉では言い表せないほどの安らぎだった。



「ヒロイン?怪我をしたのかい?」

「え…?…あ、ほんとだ…」


優しい顔でおかえりって言ってくれた聖護くんだけど、すぐにその笑みは消え、視線は私の脚に注がれた。


聖護くんに言われ見てみれば、膝丈のスカートから出てる脚、右膝の下に5センチ程の切り傷ができて血が滲んでいた。


傷に気が付いたことで、ズキズキと痛みも感じ始めたけど。


「急いで帰ってきたから何処かにぶつけたのかも」

「まぁこの辺りはお世辞にも整った環境とは言えないからね、…だとしても血が出ているのにも気付かないなんて、よほど急いでいたのかな」

「…うん、早く顔が見たかったの」


何よりも大きいのは安堵だったから、今の気持ちを素直に口にした。


すると聖護くんは再びにっこりと笑って。


立ち上がり、ドアの所で立ったままだった私の前まで来て、私の手を取った。


「いつもより帰宅が遅かったとしても…そんなに急がなくたって、僕は何処にもいかないよ」

「ん…」


聖護くんのくれる言葉と体温に安堵は増殖していった。


そうして聖護くんに手を引かれ、促されるようにソファに座った。


だけど聖護くんは隣に座らないで、私の足元でラグの上に座って。


何をするかと思えば、ふくらはぎに手を添え、血の滲む傷口に唇を付けた。


「っ…!聖護くん…!?なにして…」

「うん?消毒だけど」

「でも、そんなこと…、聖護くん、いいから…!」

「―――…恋というやつは待つことを知らないもので、」


舌を這わせられたことによって、じんとした痛みも増したけれど。


生暖かく柔らかな感触に支配されそれどころではなくなる。


「これが一旦若い男女の血の中に入ったが最後…」

「聖護くん、やだ…本当に大丈夫だから、」

「傍の者が許してくれるまで待つなんてことがあったらそれこそ奇跡というものだ――」

「聖護くん…っ」

「…関わることのない感覚だと思っていたけどね」


聖護くんは最後に傷口にキスをして、何かの引用を言い終えるとゆっくりと顔を上げた。


さっきまでの彼とのやり取りとか、今の状況とか、全ての流れが混ざって意識はまばらで。


聖護くんが口にした言葉もきちんと頭に入って来ていなかった。


「聖護くん…ごめんね、今ちゃんと聞けてなかった…なんて言ったの?関わることのないって…?」

「…ああ、僕もチェ・グソンも痛手を負うようなへまをすることはないからさ、」

「痛手?へま?…ふふ、怪我のこと?」

「この家に救急箱は置いてないんだよ、だから応急措置」

「ぁ…うん……」


なんだかはぐらかされたような気もするけど。


それ以上蒸し返す気にもならなくて。


ただ端整な姿を眺めていた。


疲れと安堵とドキドキで、ぼうっとしてしまいそうになるのを堪えるので精一杯。


「しかしこれだけというわけにもいかないか…」

「けど、ほんとにそんな大袈裟なものじゃないし、平気だよ」

「だがヒロイン、跡になったら困るだろう、仮にも嫁入り前の女の子なんだしね」


見つめていると、聖護くんは微笑みのまま揶揄するように言った。


だから私も、そしたら聖護くんにもらってもらうからいい、って。


いつもの調子で冗談を返したかったんだけど、それすらすんなりと口から出てこなくて憚られてしまった。


すると聖護くんは私の頭をぽんぽんと撫でてから、隣に座り直して。


「ああ…でももしかするとチェ・グソンなら用意してあるかもしれないな」


テーブルの上に置いてあった端末に手を伸ばし、おそらくグソンさんに電話を掛け始めた。


何度か呼び出し音が鳴った後に、グソンさんの声が漏れて聞こえてきた。


「ダンナ?ご依頼の件ならまだ少し…」

「いや、今はその話じゃない、チェ・グソン、この家になんだけどさ、」

「この家…歌舞伎町ですか?」

「ああ」

「どうかしました?」

「救急箱は置いてあるかな」

「もちろんありますよ、いつ何が起こるか分かりませんし…、ていうかダンナ、あると思わなかったんですか」

「必要ないだろう」

「ありますって…、ご自分が綱渡りのような楽しみを多々持っていることはダンナが一番自覚し」

「…あ、」


いつものテンポで交わされていた会話だったけれど、最後の方で聖護くんが少しだけむくれたかと思えば。


聖護くんは何も言わずに電話を切り、私に向き直った。


傍若無人な振る舞いに思わず笑い声が漏れた。


「ヒロイン、あるそうだよ」

「いいの?グソンさん、話の途中だったみたいだけど」

「小言を言い始めそうだったからいいよ」

「でもどこにあるかわかった?」

「あると言うんなら、この家の中に必ずあるんだから、探せばいいだけだよ」


そう言って聖護くんは救急箱を探す為に腰を上げようとした。


でもその時聖護くんの手の中の端末が鳴って。


相手は聞かなくても分かる、グソンさんがすぐに折り返してきたんだろう。


「何かな」

「あのねぇ…ダンナ、なにかなじゃないですよ、…怪我、したんですか」

「僕ではなくて、ヒロインが、ね」

「ヒロインさんが?あぁ…もう……今すぐ向かいますんで、二人でおとなしくし待っていてくださいよ」


そうして今度はグソンさんの方から一方的に切られた電話。


刹那聖護くんは僅かに驚いたように端末を見つめたけど、それからくつくつと笑った。


「チェ・グソンにしては焦っていたね」

「でも…聖護くん、グソンさんお仕事してたんだよね?この程度の傷で帰ってきてもらったら申し訳ないよ…」

「ああ、僕が頼んだ調べ物をしてもらっているだけだし、大丈夫だよ」


…彼に嫌なことをされても嫌悪だけで涙なんて出てこなかったのに。


二人の優しさに触れ、今度は泣いてしまいそうになった。


鼻の奥がつんとする。


「それにしても…チェ・グソンが過保護になったり、」

「うん…?」

「読み聞かせをねだったり、怪我をして帰ってきたり…、僕が拾ったのは小さな子供だったのかな」

「あー…ふふ、ごめんね、聖護くん、ありがとう」


そんな私を悟ってか、聖護くんは宥めるように私の髪に指を通した。


繊細だけど大きな手の感触が心地好かった。


「幼女のような君のことは抱き締めてあやしてやるのが一番かもしれないね」

「ぇ…?」


だけど間もなくその心地好さは途切れてしまい。


もっとしてほしかったな…なんて秘かに思っていると、今の私には一瞬では理解し難い言葉が耳に届いて。


聖護くんは軽く腕を広げた。


「おいで」


ますます頭が回らなくなり、多分ぽかんとしてしまった。


それに対して聖護くんは、フと息を吐いて緩やかに口角を上げ。


「ヒロイン、おいで」


見兼ねたように優しく私の手首を掴んで、自分の方へと引き寄せた。


されるがままで、あっという間に聖護くんの胸の中。


背中にも聖護くんの腕が回ってきて包まれる。


当然胸の高鳴りも収まらないけれど、自分でも驚く程に一層落ち着いたことも感じて。


やおらに従い聖護くんの肩口に額を預けた。


ゆっくりと呼吸をする。


「聖護くん…」

「うん?」

「ほっとする…ありがとう」


――…聖護くんが、帰ってきた私の様子を見て、おかしかったことに気付かなかったわけないんだ…。


「気が済むまでこうしているといいよ」

「ん…でももうすぐグソンさんも来てくれるでしょ」

「それでも構わないよ、チェ・グソンだって僕達には構わないだろう」

「ふ、せっかく来てもらうのに…それじゃ意味なくなっちゃうよ」


聖護くんがいて、グソンさんもいる。


私、本当に此処が好きだ。



「聖護くん、あったかいね」

「生きているからね」

「あはは、それはそうだけど…、あといい匂いもする」

「そう?でもそれはお互い様な気もするけど」

「ほんと?」


汚れた感情すら浄化されていくようで。


聖護くんは本当にあやすように背中を撫でてくれるし、全ての感触が心地好かった。


やがて、大きな安堵で気が抜けたからだに取り入るように、睡魔が訪れ。


そのまま眠ってしまった。



気が付くと朝で、ぼんやりと意識が目覚めた。


目を開けるとまずテーブルの上に置いてある聖護くんの本が目に入り。


ソファで眠ってしまったことに思考が追い付いた。


それから膝下の傷口にも目をやれば、とても丁寧に包帯が巻かれていた。


きっとグソンさんが手当てしてくれたんだ…。


寝起きでままならない意識だったけど、状況を見つめ直せば夕べの出来事も鮮明に蘇る。


あやされて眠ってしまうなんて本当に子供のようだし、それ以外にも随分と聖護くんに甘えてしまった。


あまりにも安心し過ぎていたと思う。


聖護くんのみならず、グソンさんにも寝顔を晒してしまったんだろうし…。


改めて思い返すと色々と照れくさくもなって、きっと今の私は僅かに赤面してる。


でも本当に、聖護くんにもグソンさんにも感謝が尽きなくて。


顔を合わせたらもう一度きちんとお礼を言いたいと思いつつ、寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こした。



「ヒロイン、起きたかい」

「おはようございます、ヒロインさん」

「ぁ…」


するとキッチンの方から柔らかな響きで声を掛けられて。


視線を向ければ、聖護くんはダイニングの椅子に座っていて、グソンさんはキッチンの中で立っていた。


あたかな空気で満ちる場所。


ソファから脚を下ろし、少しの距離でも小走りで向かった。


「聖護くん、グソンさん、夕べは本当にありがとう」


早速お礼を言えば、二人はとても穏やかな笑みで迎えてくれた。


「よく眠れたみたいだね」

「聖護くんのおかげだよ」

「傷は痛まないかな?」

「大丈夫、グソンさんもこんなに綺麗に手当てしてくれてありがとう」

「いいえ、ではヒロインさん、朝食の準備をしますんで座って待っていてくださいね、お先に紅茶をどうぞ」

「ヒロイン、冷めないうちに飲むといいよ」

「うん…ありがとう」


グソンさんは聖護くんの隣に紅茶を置いてくれた。


本当は手伝いもしたかったけど、二人の好意に甘えやすい選択に、今もありがたく身を委ねていた。



今まで、三人で朝食を取ることって、滅多になかったけど。


でも今朝はこうして二人でいてくれていることも、二人は私を気遣ってくれているような気がした。


直接的な言葉はなくても、こんなにも胸に染みるなんて―――。



「ヒロインさん、今朝は新鮮な卵が手に入ったんですよ、何にしましょうか」

「たまご!えっと…じゃあ、オムレツが食べたいです」

「いいですね、そうしましょう」

「チェ・グソン、僕はそれ、いらないからね」

「ええ…分かってますって」

「あはは、おいしいのに」



二人が好きで、此処が好き。


こんなに穏やかな気持ちで今日の朝を迎えられたのだって、間違いなくこの環境のおかげ。


私の居場所は此処だと、強く認識できた。


これからも此処にいたい。




パウダーピンクの躁鬱


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