あのセーフハウスへは戻れない日もある。


今回は四日、帰ることができなかった。


グソンとは今日の昼に顔を合わせた。


聞いたわけではないが「時間が合えば一緒に食事を取ってますけど、ヒロインさんは相変わらずですよ」と報告を受けた。


僕自身は四日振りにヒロインに会うこととなる。


ロックを解除し、リビングへ向かったがヒロインの姿はなかった。


今までヒロインは、音で気付くと寝室にいようが出迎えに来ていたのだが。


出てこないということはシャワーでも浴びているか、眠っているということだろう。


まあ…執着しているわけでもないヒロインが、何処にいようと構わないが。



持ち歩いていた本を本棚へ並べる為に寝室へと向かった。


ドアが開くと、控え目に柔らかく保たれた照明が溢れ出した。


そして予想外に、起きているヒロインが目に入った。


ヒロインはベッドの上で膝を抱え、顔を埋めていた。


照明を少し明るくしながら声を掛ければ。


「ヒロイン、」

「ぁ…」


呼んだことで僕に気付き顔を上げたヒロインの瞳からは涙が零れていて。


ヒロインが涙を流す心当たりについて、真っ先に浮かぶのは別れたあの男だった。


ヒロインは未だあの男を想い涙するというのか。



「聖護くん、おかえりなさい」


ヒロインは涙を手で拭ってから、笑顔を作って見せた。


今のヒロインの状況を見て、名を付け難い感情が小さく芽生えたことを感じた。


だがヒロインを見て生じたのだから、答えも自ずとヒロインが持っているはずだろう。


故にいつもと変わらぬ態度でヒロインに接した。


ベッドに腰掛け、ヒロインの髪を耳に掛けながら撫でた。


「無理に笑顔を作ることはないよ」

「無理に…?…ううん、違うの、聖護くん」


穏やな口調で言葉を紡げば、ヒロインの顔からは笑みが消えた。


そうして何か言いたげな、だが言葉選びの段階で躊躇しているような雰囲気を受け取ったから。


僕から踏み込んでみる。



「それにしても未だヒロインのここには、」


ヒロインの胸の間に、人差し指を押し付けるように触れた。


薄い生地の下、鼓動が伝わってくる。


ヒロインは驚いた様子で少し身を強ばらせた。


「強く、あの男がいるのかな」


言えばヒロインは再び瞳に涙を溜め。


ただ大きく首を横に振った。


胸を痛めているような表情だった。


それに加え見て取れるのは、僅かな焦燥?


どちらにせよヒロインはやはり未だにあの男への想いを胸に秘めているのか。


そう感じた。


「未練などないと、ヒロインは言っていたけれど」

「うん…未練なんてない」


しかし、ヒロインは潤んだ瞳で僕を真っ直ぐに見て答えた。


その瞳から偽りは感じられなかった。


だとしたら、何故。



「そう、だったら…、それでもまだ忘れられない理由があるのなら」


残るのは―――。


「からだの相性が…よほど良かったのかな」


髪を掛けたことによってあらわになったヒロインの耳許で囁き。


「こればかりは、ヒロイン、僕も試してみないことには分からないからね」


ヒロインの腰へと腕を回しつつ、首の付け根に顔を埋め口付けをした。


「…っ…、しょうごくん…?」

「……フ、」


そのまま少し下り、部屋着の襟刳りから覗く鎖骨の下、じっくりと吸い付き紅い跡を付ければ。


ヒロインの吐息は出逢ってから初めて官能的なものを含んだ。


唇を離し色濃く付いた跡を確認する。


こんな跡を残してしまうくらいには、僕の中でヒロインの存在が確立されているのだと思い知らされた。


「あの…聖護くん…」

「なんだい、ヒロイン」

「本当に違うの」


目が合ったヒロインは眉を下げ、頬を紅潮させ。


僕の行動のせいで、いつもより艶めいた生物に見えた。


このまま荒療治で抱いてしまうのも悪くない気がした。



「…何が違うのか聞かせてくれるかい、ヒロイン」


だがヒロインが心の裡を話そうとしている。


そんな欲求で話の腰を折るのは愚かしい。


だから、指で涙を拭ってやってから、また一定の距離を保った。



「ただね淋しかったの…」


僕が話を聞く体勢に入ったことを察したらしいヒロインは、おもむろに口を開いた。


「それはあの男を思い出してという意味ではないのかな」

「違うよ、本当に彼にこだわってるわけじゃなくて……彼にはもう何も求めてない」


まだ僅かに涙声だがいつも通りのヒロインの口調。


仮初めでもなく、明快に表現されていく思考。


「確かに仕事以外のほとんどの時間を彼と過ごしていたから…今の私は独りでいることに慣れていないのかも知れないけど…」

「独りで過ごすことが淋しかった?」

「最初はね、そんな気もした」


必要に応じ頷き同調し、今は聞き役を担った。


「だからグソンさんが貸してくれたパソコンでコミュフィールドにも行ったの」

「だが、最初は…ということは、ヒロインはアバター同士の交流では満たされなかったようだね」

「ん…楽しい時間は過ごせたよ、でも聖護くんの言う通り満たされない部分もあって…」


思うにヒロインは、人間が好きだ。


些細な繋がりも疎かにせず、その上で適度な距離を取る術も身に付けている。


来るものは受け入れて。


求められれば無意識に心地好い空間を作ってやっていることだろう。


共に過ごし感じたヒロインの性格からして、それはコミュフィールド内でも現実世界でも、分け隔てないことが予測された。


「それにね、外に出れば人と触れ合う機会はたくさんあった」

「だろうね、何度か君と出掛けているから、ヒロインがどんな日々を過ごしているかは察しが付くよ」


ヒロインに人を引き寄せる性質があることは目の当たりにした。


そして関わりをぞんざいにしないことも。



だからヒロインを知り、今にして思うのは。


あの晩も、僕がヒロインを連れ去ったつもりでいた。


しかし実際は、まず僕が誘き寄せられていたなのではないか、と。


僕とヒロインの二項対立。


相手のテリトリーに先に落ちたのは、どちらだったか。


ヒロインの方が一枚上手だったという事実もあり得るのかも知れない。


この僕が上手を行かれるなど、想像に及ばない出来事だが。


想定内に留まらないからこそ面白いことだってあるだろう。


僕の考えをこのようなものに至らしめるヒロインへの興味は尽きずに。


「でも、それでも足りなくて…、やっぱり誰でもいいわけじゃなかった」

「うん……ヒロイン、おそらく君は孤独を理解できる人間なんだね」

「孤独、を…?」

「誰だって独りだ、この世界で生きる人間にとってそれは当たり前のことだろう、だがヒロインにとってはそうではないのかも知れない」


ヒロインは僕の言葉の意味を少し考えてから静かに首を縦に振った。


旺盛な好奇心から、人と向き合おうとするヒロインだからこその見え方が存在する世界。


だが、ヒロインが他人の心に触れることができたとしても、ヒロインの心に触れることのできる人間は限られているのだろう。


ヒロインを癒せるのはヒロインに選ばれた人間だけで。


その上ヒロインはその相手をシビュラに縋って見付けたりはしない。


ヒロインに選ばれることには価値があると感じると同時に、口角は緩く吊り上がった。


「だから、淋しかったのか…」

「うん、なのに…ふふ、聖護くん、勘違いしたでしょ、だからちょっと焦っちゃった」

「ああ、そのようだね、すまなかった、―――ヒロインが笑っておかえりと言ってくれたのは、僕に会えて嬉しかったから?」


問えばヒロインは照れくさそうに微笑み、もう一度頷いた。


僕も微笑みで返す。


「嬉しいね」

「うん、私も嬉しい、聖護くん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま、ヒロイン」


今、僕とヒロインは、恋をしてごらんという僕の提案の上に成り立っている。


ヒロインの感情も日に日に傾き、僕を好意的に受け止めていることは伺える。


判明した涙の理由からも、僕がヒロインにとっての唯一に近付けていることが読み取れる。



だとしても。


未だしっかりと掴めている感覚があるわけではない。


今の関係を覆される状況すら悠然と思い浮かべることもできる。


ふわりと向けられるこの笑みのように。


ヒロイン自身もふわりと舞って消えてしまうのではないかと―――。



「だったらヒロイン、今夜は一緒に眠るとしようか」

「え…!?一緒に?」


ヒロインはいつもこのベッドの半分だけを使い眠っていた。


おそらくヒロイン自身に告げても「そうなの?」と返ってきたに違いなく、完全に無意識のうちの行いだったと思うが。


あの男と眠っていた頃の癖なのだろうと決め付けていた。


しかしどうやらそうではない。


「一晩中いられるかは分からないけどね、それでも明日からもなるべく帰ってくるようにするよ」

「でも聖護くん忙しいのに…迷惑掛けたいわけじゃないよ、四日会えなくて淋しかったのは嘘じゃないけど……」


ヒロインに選ばれることへの興味は今夜更に広がった。


ヒロインのことは今後も捕らえておくべきだと思う。


「あの…、聖護くん」

「うん?何かな」

「もし今度、何日か会えなくて淋しくなったら電話してもいい…?声が聞けたらそれだけで満足だし」

「声…ヒロインはそんな所にまで気を遣っていたのか、気にせず掛けてくるといいよ」


逃がすことのないよう、ヒロインの想いは受け入れていきたい。


それは苦ではなかった。


「ありがとう、聖護くん」

「だがさっきも言った通り明日からはきちんと帰ってくるけどね」

「だからそれは大丈夫だよ」

「僕がそうしたいんだから、君が気にすることじゃない」

「ふ…聖護くんって、時々結構強情だよね」


ヒロインが、涙を忘れて、くすくすと笑うから。


穏やかな気持ちで触れたくなった。


ヒロインの後頭部に手を回し、顔を近付ける。


すぐにキスの気配に気付いたヒロインは、おとなしく瞼を下ろした。


四日振りに触れ合う唇。


触れる以上はまだ知らない。


今宵もそれ以上踏み込むことはせずに離すと、ヒロインは至近距離で僕の瞳をまっすぐに見つめた。


そしてゆっくりと柔かな唇が動く。


「……じゃあ…聖護くん、わがままついでに、もう一つ、言ってもいい…?」

「ああ、言ってごらん」


―――淋しかった、とヒロインは泣いた。


人肌恋しい女の想いが垣間見えた。


恋心というものは未だ見当も付かないが。


しかし今まで生きてきて恋心を向けられることに縁がなかったわけではない。


僕の気持ちを得られずに淋しいと言う女に抱いてほしいと懇願されたこともある。


だからヒロインも、僕から手を出すまでもなく、それを望む可能性もあるのではないかと感じた。


侘しさに埋もれた心を手っ取り早く肌の触れ合いで癒そうと。


僕を見る濡れた瞳からも充分それは推測できた。


「良かったらなんだけどね…本を」

「本、」


しかしヒロインの口から出た言葉はまた僕の仮定に収まるものではなかった。


飛び出した言葉の意味を追いおうむ返しする。


「朗読してほしいの」

「朗読……、…構わないけど何故かな」

「聖護くんの声ってすごく落ち着くから、私ね聖護くんの声とても好きみたい」

「ほう…落ち着く、か……君が僕の声をそんなふうに評価していたなんて知らなかったな」

「ふふ、だいすき」


ヒロインが僕を求めたことには違いなかった。


だが求められたものは、からだの繋がりよりも、精神的な安堵。


より深くを求められたのか。


はたまた今の僕がヒロインを抱いたところで、ヒロインにとっての癒しには値しないということか。


正解はヒロインだけが知る。



心理を見るように瞳を見つめていた。


するとヒロインはあどけなく目を細め、いたずらな笑みで。


「――彼としてたセックスよりも、好きよ?」

「ハ……さっきは浅はかな問いを投げて悪かったよ」

「ふふふ、」


吐かれた台詞は絶妙な返しだった。


ちらりと覗く、白い肌によく映えた鬱血痕を指先でなぞれば。


ヒロインは僕を責めることもなく。


またふわりとした笑顔が舞った。



「じゃあヒロイン、どの本がいいか、一緒に選ぶとしようか」

「うん!」


それから僕の意向で攻撃的ではない本を選び、座る形でだが、初めて二人でベッドに入った。


本を開き―――こんな夢を見た、という出だしから読み始める。


始めこそ嬉しそうに微笑み、僕の声を聞いていたヒロインだったが、数ページ読み進めると僕の肩に凭れ夢の中へ誘われたようだったから。


きちんと横にし直し、布団を掛けてやった。


寝顔はとても安らかで。


今手にする本の章は第十夜で締め括られているが、このペースで毎夜ヒロインに眠られていたら、十夜で読み終えることは到底無理だろう。


だがそれでも僕は最後まで読んでやるつもりでいる。


そんなことを考えつつ、ヒロインの髪を梳くように触れていた。


「少し、無防備過ぎるな…」


ヒロインの泣き顔を見た際に芽生えた見知らぬ感情は消えた。


いや、消えたというより、今こうしている事実に覆い隠された気分だ。


あの感情をなんと呼べばいいのか、答えは見えぬままだが。


ヒロインが持つ答えを、今独りで追究していく必要はないと感じ。


今夜は眠るヒロインの隣で新たに本を開き、心の調律をした。




純情クラシカル


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