不可思議な一日だった。 「――…フ、」 「なぁに笑ってるんです?思い出し笑い?」 ふと、今日の出来事の一つが頭に浮かんだ。 そんな僕に気付いたグソンは軽快な口調で問いを並べて。 「まぁ…そんなとこかな」 「そんなに楽しかったんですか、」 ヒロインさんとのデートは、と付け加えた。 グソンに言われ、数時間前まで共に過ごしていたヒロインとの時間を、より深く思い返す。 ヒロインの日常を垣間見ることもできた時間。 僕にとっては新鮮な日常だった。 「ああ、楽しかった」 「そうでしたか…それは良かったですね」 素直に気持ちを口にしてみれば、グソンは一度赤い目を覗かせてから、穏やかに笑んだ。 今日はヒロインが洋服を見に行ってみたいと言うから連れて行くことにしていた。 陽射しの気持ちのいい昼下がり。 向かう場所もまたこの間ヒロインを連れて行ったインテリアショップのように廃棄区画の地下を改装し作られた場所だ。 様々な服を扱っている為何階分ものフロアが整備されていた。 だがそこに辿り着くまでには、廃棄区画で暮らす人間が好きに営む露店が立ち並ぶ通りも通過する。 「聖護くん、あそこの通りも通って行く?」 「行くよ」 「ほんと?じゃあちょうどよかった、あのね、この間、」 「うん?」 ヒロインの手は自然と僕の手の中に収まるようになっていた。 いつも通り言葉を交わしながら廃棄区画内を進んでいく。 「やあ、槙島さんじゃないですか」 「ああ、君か」 その時、顔見知りの男に声を掛けられた。 薬物の売人をしている男で、必要に応じ取引をしていた。 風貌は小綺麗に整えていてはいるが、この場所にすっかり馴染んでいる男。 男はヒロインに目線を向け、爽やかな笑顔を作って見せた。 「これは珍しい、槙島さんがこんなふうに女性を連れているなんて…」 「こんにちは」 ヒロインもにっこりと笑い、男に挨拶をして返した。 「それにしても随分と可憐な女性だ」 「可憐!?初めて言われたかも知れない…、そんなことないけれど、でもありがとうございます」 「本当に可愛らしい……槙島さん、この娘は一体どんな腕利きなんですか?」 「ヒロインはそういう女ではないよ」 「へぇ!そうでしたか、あなたが連れているのでてっきり、」 「あ、じゃあ聖護くん、私ちょっとだけ先に行ってるね、少し用があって」 ヒロインは僕と男の会話が始まる気配を察し気を遣ったのか。 笑顔のまま男に会釈をしてから、通りへと入っていった。 僕も男も馬鹿ではないから、ヒロインがいたとしても上辺だけを掻い摘んだ会話ができたはずだが。 ヒロインに備えられている空気を読む感覚が、おそらく自然とヒロインを動かしたんだろう。 それにしても用があると言っていたが…それも偽りではなさそうだった。 だとしたらこの場所になんの用があるというのか。 「じゃあまたお願いしますね、槙島さん」 「連絡するよ」 「お待ちしております」 男との会話を終え歩みを再開させ、人の中からヒロインの姿を探す。 すると少し先にある露店の前で、店の中年の女と話をしているヒロインを見付けた。 天然のフルーツをミキサーにかけ作るドリンクを売っている店のようだ。 「でも、」 「いいっていいって、気にしないでいいんだよ、お嬢ちゃん!」 「だけど、おばちゃんもおじちゃんも商売だし、悪いよ」 「そりゃそうだけど、あんたは気にしなくていいから!」 ヒロインは困ったような笑顔を見せているが、店の女は快活な態度でヒロインに声を掛けていた。 「ヒロイン」 「聖護くん!お話終わった?」 「ああ、それより……ヒロイン、もしかして君は、金を恵まれたのか」 「でも、違うの聖護くん、今返すの」 「だからいいって言ってんのに!あの人だってあんたの感じがいいから持ってきなって言ったんだし、ね!」 隣に立てばヒロインの手には小銭が握られていることが見えて。 やり取りからヒロインは、この小銭を女に渡そうとしているが、受け取ってもらえずにいることが分かった。 だが今、ヒロインの手にはこの店の商品らしきものは見当たらない。 とういことは、今日ではない時間のやり取りの延長なのだろう。 「ヒロイン、以前にも一人でこの場所に来たのかな?」 「うん、この間聖護くんと通ったとき色々なお店があって楽しそうだったから」 「また好奇心かい?」 「さすが聖護くん、その通りです」 ヒロインはいたずらっぽく笑った。 それを見て僕もゆったりと笑う。 ヒロインが僕の知らない時間にここへ来ていたなんて思いも寄らなかった。 ヒロインの予想外の行動には今日も楽しませてもらっていると感じる。 「それでねこの間、ここのお店のジュースが美味しそうだったから頼んだの、でもここって電子決済が使えないんだね」 「ああ…それは説明しておかなかった僕が悪かったね」 「ううん、私の方こそ聖護くんに一言言えば良かったんだよ」 シビュラ社会で生きていれば電子決済が主流だ。 現金を持ち歩くなんて無縁の生活をしていたに違いない。 だがここでは話が変わってくる。 「だから私その時お金持ってなかったから…せっかく作ってもらったのにごめんなさいして、また買いに来ますって言ったら、その時にいたおじちゃんが持ってっていいって言ってくれて…」 「あの人は、ここでは現金しか使えないって言った時のお嬢ちゃんの驚いた顔が特に可愛くて気に入ったって言ってたよ」 「えぇ?ふふふ、驚いた顔が?」 夫婦で営む店なんだろう。 以前ヒロインが立ち寄ったときはこの女の主人が店番をしていたことが伺える。 「そして今日ヒロインはその時の金を返しに来たわけか」 「うん、でも、」 「この女性が受け取ってくれない、と」 「そうなの」 「だからお嬢ちゃん、気にすることはないよ、これからも買いに来てくれることが何よりだし!ほら、色男の兄ちゃんも言ってやってくれよ」 それにしても、個人間の金の貸し借りなど表社会ではまずありえないことだろう。 それどころか、こういった世界も長く見てきているが、ヒロインのように商品を恵まれている人間は初めて見た。 「ヒロイン、せっかくこう言ってくれていることだし、好意に甘えてもいいんじゃないかな」 「聖護くん、でも…」 「ヒロインが世話になったならご主人にもよろしく伝えてもらえるかな、また必ず買いに来るよ」 「やっぱり感じのいいお嬢ちゃんのツレも感じがいいね!いつでもおいで」 「おばちゃん本当にいいの…?なんかすみません」 「やっと納得してくれたかい!あんたいい子だからむしろ今日もご馳走してやりたいくらいだよ」 「!、だめだめ、今度はちゃんと買わせてください」 ヒロインは僕の言葉でやっと納得したが。 女は律儀に金を返そうとしていたヒロインに更に好感を抱いたようだった。 ヒロインは最後にもう一度深々と頭を下げ礼を言い。 今度こそ目的の地下へ向かった。 到着するとヒロインの表情はまた輝いて。 「すごい…!ホロじゃない服がたくさん…!!」 「そういう場所だからね」 「すごいね!聖護くん!」 「ヒロイン、ここでは金の心配もせずに好きなものを好きに選ぶといいよ」 「でも今日は私も現金を持ってきたから自分で買うよ、いつも聖護くんにプレゼントしてもらうばかりだもん」 「僕がしたくてしているんだから、気にすることはないよ」 「ありがとう聖護くん、でも今日は私お金持ちだから大丈夫!」 「フ、そう、金持ちか、」 「そうなの、だから買えるよ、聖護くん」 …金のことは、まぁ置いておいて。 ヒロインに合いそうなレディースを扱っているフロアへ連れていくと、ヒロインは好みの系統のショップに目星を付けまじまじと服を眺め始めた。 「ねぇ、聖護くん、これって触ってもいいの?」 「もちろん、構わないよ」 「へー…いいんだ」 そしてヒロインは若干恐る恐る売り物の服に触れ、素材の違いも体感して。 目移りしちゃうね、と嬉しそうに告げた。 その微笑みに髪を撫でてやりたくなった。 が、それを行動に移すよりも先に。 「ぇぃ、ぇぃ!ぇい!えい!」 近付いてきた子供の声に気を取られ。 何かと思えば、その男児は機嫌良く僕の尻を叩いた。 餓鬼にこんなことをされる覚えはない。 「君、何か用かな」 「ぎゃっ!?動いた!!?」 「動くに決まっているだろう」 「え?どうしたの?聖護くん」 視線を向ければ男児は大袈裟に驚いた。 ヒロインはその声に反応し、見ていた服から僕達に目を向けた。 「君は何故、今僕の尻を叩いたのかな」 「…」 「あはは、聖護くん、この子にお尻叩かれたの?」 身なりからして豊かな家庭で育てられている子なのだと分かる。 しかし親に連れて来られたからと言って、じっとしていられる年齢ではないのだろう。 とは言え何故、僕を叩いたのか。 その上僕が動いて驚くなんて理解に苦しむ。 故に問うてみたが、先程まで上機嫌だった男児は、今は驚きのあまりなのか真顔で固まっている。 「聖護くんのお尻がかわいかったんじゃない?」 「ヒロイン、そんな話があると思うかい」 「だって、小さくて羨ましいよ」 「それは君の主観だろう、…というかヒロインはそんなことを考えているのか」 ヒロインだけは冗談を言い状況を楽しんでいるような雰囲気。 そんなヒロインがいるから、緊迫した空気にならずに済んでいることは分かる。 だが男児はそれでも固まったままで。 見兼ねたらしいヒロインは、手にし選んでいた服を一度戻してから。 しゃがみ男児と視線を合わせてやった。 「怖がらなくても大丈夫だよー、このお兄ちゃんも怒ってないし、ねぇ、聖護くん」 「それはどうかな、理由によっては考えるところもあるかも知れないね」 「くすくす、聖護くんってば…もう、」 ヒロインの振る舞いはすぐに子供に対するものへと移り変わった。 その切り換えもヒロインからしたら自然と行われているのだろう。 おまけに振り向き僕に向けられる視線も随分と柔らかかった。 「お兄ちゃんね、どうしてお尻叩かれたのか不思議なんだって」 「うん…間違えちゃったの…」 「間違えた?」 ヒロインが優しく語りかければ、男児は俯いたままもじもじと口を開いた。 間違えたと聞いたヒロインは、首を傾げつつも、辺りを見回した。 「あ、わかったかも、もしかしてマネキンだと思ったんでしょ?」 そうしてヒロインは僕の傍に並べられていたマネキンを視界に入れ。 男児に告げると、男児も顔を上げ控え目に首を縦に振った。 どうやらヒロインの出した答えは正解のようだが。 僕をマネキンと間違えるなど、やはり理解し難い。 「やっぱり…あっちからマネキンのお尻叩いて遊んできて、このお兄ちゃんのこともマネキンだと思っちゃったんだよね」 「うん」 「お兄ちゃん、すごくスタイルいいもんね、仕方ないかも」 「うん」 「聖護くん、スタイルの良さからマネキンに間違えられるなんて素敵な理由だから許してあげて?」 「素敵な理由とは思わないけど…、くだらなくてどうでもよくなったよ」 ヒロインがいなければ導き出せなかったであろう答えは実に馬鹿馬鹿しいものだったが。 ヒロインが愉しげに笑えば、安心したのか男児もつられて笑った。 「だが君は先に言うべきことがあるんじゃないかな」 「そだね、お兄ちゃんに謝らなきゃ」 「あ…」 僕も他人に向ける笑みを作ってはいるが、相変わらず男児と同じ目線で相手をしてやっているヒロインとは違い、見下ろしつつ声を掛けた。 男児はまた不安げに、だが漸くまともに僕の目を見て。 「おにいちゃん…間違えちゃってごめんなさい」 謝罪の言葉を口にした。 「言えたね、偉い偉い、あとマネキン叩くのもあんまり良くないことだからやめようね、危ないし」 それに対しヒロインが誉め頭を撫でると、男児はまた笑みを取り戻し。 「じゃあぼくママのとこ戻る!」 「そっか、ばいばい」 「ばいばーい!おねえちゃん!おにいちゃん!」 嬉しそうに手を振りこの場を去っていった。 見送ると僕達の視線は自然と絡まり。 「…聖護くんはどこまでも聖護くんだね」 「子供と言えど一人の人間には変わりないからね」 ヒロインは先程までの僕の態度を思い返しているらしく、けらけらと笑い始めた。 笑いながらヒロインは、もう、と言って僕の二の腕に手を添えた。 それは、今までに体感したことのない、優しい感触だった。 僕からしたら見知らぬ餓鬼に対しあんなふうに接せられるヒロインの方が面白いが。 おそらくそんなところも、共に過ごせる由縁なのだろう。 ヒロインも僕といて退屈だと感じていたら、疾うにあの部屋を出ていっているはずだし。 ヒロインが退屈な女であれば、僕が先に始末していた。 「さあ、ヒロイン、服の続きを選ぶといいよ、もう邪魔も入らないだろう」 「ふふ、はーい」 それからもヒロインは真剣に服を選び悩んでいた。 だから「めぼしいものは店員に預けておこうか、あとでその中から吟味するといいよ」と勧めた。 ヒロインは僕の言うことを素直に聞き、服選びを続けた。 僕はその間にヒロインが気に入った全てのものの会計を済ませておいた。 「じゃあ聖護くん、悩むのはこれくらいにしておいて今から更に選んでお会計するね」 「いや、だが僕がもう済ませたから必要ないよ、品物を取りにだけ戻ろう」 「え…?…え!ほんとに!?いつの間に!?」 「ヒロインが悩んでる間に」 ヒロインはしばらく露店の女に対してのように、僕にも払うと粘っていたが。 きっとヒロインは次から、僕がいなくとも此処へ出入りするようになるだろうから。 その金はその時に使えばいいと思う。 「じゃあヒロイン、今からカフェにでも行こうか」 「ん?それは嬉しいけど…」 「そこで奢ってもらおうかな、金持ちのヒロインに」 「あ、うん!任せて、聖護くん」 「だからこれは気にすることはないよ」 「本当にいつもありがとう…聖護くん」 交換条件として言えばヒロインはなんとか合意した。 モールを後にし、早速カフェへと向かう。 そんな最中だった。 前を歩いていた中年男が、向かって歩いてきていたヒロインと同年代くらいの女にぶつかった。 その拍子に女はバランスを崩し、抱えていた紙袋の中身の野菜や果物を地面に転がした。 「あぁ…!大丈夫ですか?」 「ぇ…?あ…はい…」 するとヒロインは咄嗟に僕の隣を離れ、その女の荷物を女と共に拾い始めた。 他人に無関心な人間ばかりなこの時代、これもなかなか珍しい光景だった。 現に女はヒロインの行動が意外だったようで若干の戸惑いを見せた。 「貴重な天然の食材が…傷付いてなければいいんだけど」 「えっと…きっと大丈夫です、ありがとうございます」 「いえいえ!はい、じゃあこれで全部かな」 「あれ…?あと林檎が」 「りんご?」 「アップルパイにしようかと思って買ったんですけど…」 林檎は僕の足元に転がってきていたから拾い上げた。 ヒロインは女と共にきょろきょろと辺りを見回して、僕のことも視界に入れた。 そして林檎を持つ僕に気付いて。 「あ!聖護くん、拾ってくれたの、ありがとう」 「フ、君の林檎ではないだろう」 自分のことのように礼を言い、僕の手から林檎を受け取り女に渡した。 ヒロインが「おいしいアップルパイができるといいですね」と言えば、女ははにかんでヒロインと僕に礼を言い、僕達とは反対方向へ進んでいった。 僕達もまた改めてカフェへ向かった。 到着をしテラス席に座りオーダーをする。 僕は紅茶を、ヒロインはカフェオレと、さっきの女との会話からアップルパイが食べたくなったらしく、アップルパイもオーダーした。 オートサーバーのようにすぐに完成したものが出てくるわけではないから、会話をしつつオーダーしたものが運ばれてくるのを待った。 本を読んで待つという選択肢もあったが、まだヒロインと話していたかった。 「何故さっきはあの女性の手助けをしたのかな」 「手助け…?拾ったこと?」 「ああ」 「手助けなのかな……そういう意識でしてるわけではないから…」 「だが君のような人間は珍しいだろう」 「でも私はずっとこうだし、なぜとか考えたことないよ」 「そう、ヒロインのそういうとこ僕は良いと思うよ」 「わ、聖護くんに褒められた、うれしい」 先程の出来事に話題を振ると、ヒロインは考え込んだ。 それはヒロインの行動が偽善や見返りを求めるようなものでもなく、全て素で行われていることを物語っていた。 ヒロインは僕の思う型に簡単には嵌まらない。 本当に見ていて厭きないな。 そう思っていた時、また新たな出来事が起こった。 ヒロインの視線が何かに捕らわれ、少し首を傾げながらも小さく笑顔を作ったから。 ヒロインの視線を辿ってみると見知らぬ老夫がこちらを見ていた。 老夫は僕とも目が合うとこのテーブルに向かって歩いてきた。 「ヒロインの知り合いかな?」 「ううん、知らない、けど、すごい見られてる感じがしたから」 知り合いではないなら何故、等と考える隙もなく、やって来た老夫は僕達に声を掛けた。 年を重ねた老人らしい声だがしっかりとした口調だった。 「ここに座ってもいいかい」 「あ…構いませんよ、って聖護くんもいいかな?」 「そもそもこのお爺さんに僕の意思を確認する気はあるのかな」 「ぁ…、」 老夫は僕の返事も待たずに、空いている席から椅子を引いてきて、このテーブルに座った。 そんな光景にヒロインはくすくすと笑った。 「お待たせしました、あれ…?お客様は…?」 「わしにはコーヒーをブラックで」 「かしこまりました」 ウエイトレスが僕達のオーダーしたものを運んでくると、老夫は自分の分のオーダーをした。 やはりここに居座るつもりらしい。 だがヒロインの対応に興味があったから、この老夫を拒否することもしなかった。 小柄ではあるがどっしりと構えた老夫はヒロインの目をまっすぐに見て口を開いた。 「良い本を読んだんだ、この気持ちを誰かに話したくてな、そうしたらあんたと目が合った」 「そうだったんですか、お爺ちゃん、それは紙の本?」 「無論、あんた達みたいな若者にはもう無縁なんだろうがな」 「ううん、そんなこともないですよ、って言っても私はこの彼の影響で触れるようになったばかりなんだけど」 なるほど。 感銘を受ける出来事があった時、誰かに話したくなることもあるのは自然の摂理だろう。 ドローンでもコミュフィールド内のアバターでもなく。 きちんと目を見て話を聞ける、ぬくもりのある相手が欲しくなることは分からなくもない。 だからこの老夫が、たまたま居合わせたヒロインの醸す雰囲気に惹かれたのは必然なのかも知れない。 ヒロインもまた、こういった経験は初めてではないのだろう。 老夫を邪険に扱うこともなく、すんなりと受け入れ、自然と会話を広げてやっていた。 「この青年のかね?」 「そうなの、聖護くんはとても本が好きで……あ、お爺ちゃんはなんの本を読んだの?」 「ドストエフスキー、罪と罰という本だ」 「聖護くん、知ってる?」 「ああ、もちろん」 「ほう…!君は読んだこともあるのかね」 「貧しい青年ラスコーリニコフが主人公でね、」 「おお!あんたは本当に読んだことがあるらしいな!」 ヒロインにあらすじを説くつもりで言葉を口にしてみれば、老夫の目は輝き始めた。 そして僕に想いを伝えて来たから、僕も自分の考えを返した。 するとまた老夫も自らの意思を口にして、軽い議論へと発展した。 ヒロインはにこにこと微笑み、カフェオレやアップルパイを口に運びながらも相槌を打っていた。 時折内容についての疑問も発した。 それに対しまた僕と老夫はそれぞれの考えを述べた。 そんな時間を過ごすうちに老夫の心も満たされたのだろう。 「うむ…あんたはなかなか見所のある青年だ」 「あはは、でしょう、お爺ちゃん、聖護くんってすごいの」 人にこのような言葉を掛けられるのは初めてだった。 この老夫が僕の素性を知らないとは言え、僕にとっては異様な経験だった。 「楽しい時間を過ごさせてもらったよ、邪魔したね」 そうして老夫は僕達の分の伝票もさりげなく持ち、席を立ち去っていった。 「あ、伝票…!!私が払うのに…!」 「親身に話を聞くヒロインの気持ちが嬉しかったんじゃないかな、きっと紳士なお爺さんなんだろう、気持ちを汲んで引き止めない方がいいかも知れないね」 「そっか…うん、じゃあありがたく……でも、私結局お金使ってない…」 「ヒロインに奢ってもらうのはまた次の楽しみに取っておくよ」 「うん、次こそ任せて、聖護くん!」 それから家へ帰り夕飯も食べ、グソンから連絡が入るまで共に過ごした。 出掛けることになればヒロインはエントランスまで見送りに来て。 「聖護くん、今日も本当に楽しかった、ありがとう」 「僕も充実した時間を過ごせたよ」 「また行こうね」 満面の笑みで僕を見上げた。 その笑みを見て、僕は昼間撫で損ねたヒロインの髪に触れた。 梳かすように撫でれば、一層目尻を下げふんわりと笑ったヒロイン。 「行ってくるよ」と告げれば、「いってらっしゃい」と返ってくることはもう日常だ。 そうしてグソンと落ち合い、思い返した。 「――…という時間を過ごしたんだ」 「ダンナ相手に…怖いもの知らずな人間が出てきてハラハラしちまいましたよ」 「そんなことで殺したりはしないよ」 「フ、まぁそうでしょうけど…、それにしてもヒロインさんは濃い日々を過ごしているんでしょうね」 「ああ、面白いよ」 一日のうちに、こんなにも赤の他人と関わったことはかつてない。 だがおそらくヒロインの中では当然で。 全てヒロインが持つ人柄の為せる業としか言いようがない出来事だったのだろう。 人と人との関わりが希薄な世界で、ヒロインはとても稀有な存在だと思えた。 同時にヒロインを裏切ったあの男の愚かさがますます際立った。 僕はこれからも傍でヒロインを見ていきたい。 犯罪を考えることと同時進行で、次はヒロインを何処へ連れて行ってやろうか思案した。 陽だまりアンダンテ ← top ← contents ×
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