ヒロインはすっかり慣れた様子で此処へ帰ってくるようになった。 「ヒロイン、おかえり」 「ただいまー、聖護くん」 「もうすぐチェ・グソンも来るようだからそうしたら夕飯にしようか」 「はーい」 僕は相変わらず快くそんなヒロインを受け入れている。 もう何日か共に過ごしたが、やはり心地の悪い女ではなかった。 「あ、これ聖護くんの?だよね?」 「うん?」 「ジャケット」 「ああ」 ヒロインは自身もアウターを脱ぎながら、今日僕が外出時に身に付けていたジャケットを視界に入れた。 帰ってきてそのままソファに置いておいたものだ。 「聖護くんにもアウターは必要なんだね」 「どういう意味かな?」 「聖護くんって薄着だから寒さとか感じないのかなぁって秘かに思ってたの」 「ヒロイン、それはまるで僕が鈍い人間のような言い種だな」 「あはは、そんなつもりじゃなくて、」 「まぁ確かに寒さに弱いわけではないだろうけどね」 ヒロインの朗らかな笑い声が流れる。 一ヶ月前には予想もできなかった風景だが、今は僕にとっても違和感のないものになっていた。 「でも聖護くん、これ掛けた方がいいよ」 「ああ、そうだね」 ヒロインは自身のアウターと共に僕のジャケットを手にした。 そうして少し部屋を見回し。 「でもなんか…」 「なにかな」 「この部屋でも掛けておけるものがあるといいかも」 「それは一理あるね、ヒロイン」 家具についての提案を受けた。 外から帰ってきた際には、まずこの部屋へ立ち寄ることが多い。 それはヒロインも同じなようで。 当然今のところ僕がヒロインを拒否するつもりもないから。 毎日此処へ帰ってくるヒロインに、より良い暮らしを用意する為に、ヒロインの提案に穏やかに頷いた。 「…それに、聖護くん、今脱ぎっぱなしだったしね」 「ヒロイン、それはまるで僕がずぼらな人間のような言い種だな」 「ふふ、もしそうだとしても私が掛けるからいいんだけど、じゃあこれもとりあえず掛けてくるね」 少し僕をからかうように言ったヒロインだったが。 すぐにふんわりとした笑みを残し、一度部屋から出ていった。 おそらく二枚のアウターを寝室のクローゼットにしまいに行ったのだろう。 その姿を見送り、再び手元の本へ視線を向けた。 しばらくするとヒロインもまた戻ってきて。 自然と隣に腰かけた。 遠すぎるわけでもなく、近すぎるわけでもない、絶妙な距離だった。 ヒロインは滅多なことでもない限り読書中の僕に声は掛けてこない。 その癖、構ってほしい、等という僕には理解し難い心情を抱いていることもあるらしく。 だから今夜は本を閉じ、僕から沈黙を破った。 顔を見れば、ヒロインの瞳の中に僕が映る。 「ヒロイン、次の休みは明後日かい?」 「うん、そうだよー」 「じゃあ明後日、買いに行こう」 「え?買いに…?」 ヒロインは一度不思議そうに小首を傾げた。 しかしすぐに先程の会話と繋がったらしく。 「それって本物の小洒落たハンガーラックを?聖護くんと一緒に?」 「もちろん」 「本当!?嬉しい!すごい楽しみ!」 心から嬉しそうな笑顔を見せた。 その姿はとても輝いて見えて。 「ヒロイン、」 「なぁに、聖護くん」 「キスしようか」 「ぇ……え!?なんで!?」 飾らずに思ったままを口にした。 だがヒロインにとっては思いもよらぬ発言だったんだろう。 数秒、僕の言っている言葉の意味が分からないというような表情で固まり。 それから大きく驚き、驚きからなのかけらけらと笑い出した。 「なんで、聖護くん、びっくりしたー」 「ヒロイン、冗談だと思っている?」 「え?だって、冗談じゃ、ない、の…?」 無造作に置かれていたヒロインの手の甲に手のひらを重ねる。 僅かに距離も詰めた。 ヒロインの顔からは再度笑みが消え、代わりにうっすらと頬が色付いた。 「僕はそんな冗談は言わないよ」 「でも待って聖護くん、そんなふうに宣言されると身構えちゃうっていうか…返事に困るっていうか…」 「厭かな」 「えぇっと…いやとかじゃ、ないんだけど、でも、なんで、」 正にしどろもどろだ。 ヒロインは口調こそ柔らかいものの、割りと明瞭に考えを口にする女だから。 僕が少し迫っただけでこんな態度になるのは見ていて面白かった。 「じゃあキスをしても構わないかな」 「だからね、聖護くん、そうやって許可を取られると…」 「フフ、だったら許可を取らなければいいんだね」 ヒロインの眉尻は下がり、瞳は若干潤んだ。 重ねていた手はそっと握る。 「――…おや、」 「っ…!グソンさん…!」 しかしそんなタイミングでグソンが部屋に入ってきて。 僕達を見て、ばつが悪そうに微笑んだ。 「お邪魔でしたか」 「おかえり、チェ・グソン、構わないよ、続きならいつでもできるし、ね、ヒロイン」 「もー…しょうごくん、だからそれもすごい返事に困る」 「やはりお邪魔だったようで…」 「違うの、それより聞いてグソンさん!やっぱり聖護くんって掴めないよー」 「フ、ヒロインさん、秘密の相談とやらが本人に筒抜けになっちまいますぜ?」 「いいの!」 ヒロインは照れ隠しのように僕の隣をすり抜け、キッチンへ向かうグソンの元へ駆け寄った。 持ち前の人懐っこさからなのか、ヒロインはグソンにもすぐに打ち解けたようだった。 グソンも、何を考えているのかは知らないが、ヒロインを否定している雰囲気は微塵も感じられずに。 それどころか僕の知らない二人の時間も出来上がっているようで。 全てに於いて悪い気はしなかった。 二人が言葉を交わしている様子を横目に改めて本を開き、読書を再開させた。 この空間は今日も快適だ。 そうして迎えたヒロインとの約束の日。 昨日はこのセーフハウスへは立ち寄ることはなかった。 明け方に戻り支度を済ませ、ヒロインが起きてきたら朝食を共に取った。 ヒロインの準備が整うのをリビングで本を読みながら待っていた。 「聖護くん、お待たせー、今日の服もかわいくて幸せです」 「ああ、よく似合っているよ、ヒロイン」 「うれしい、ありがとう」 「じゃあ出ようか」 「うん!」 ヒロインと外を歩くのは、ヒロインに声を掛けセーフハウスへ連れてきたあの日以来だった。 あの夜のヒロインは僕の一歩後ろを歩いていたが、今は並んで歩いている。 ヒロインの心の距離の表れだろう。 「聖護くん、今からどこに行くの?」 「少し離れた所にねインテリアショップがあるんだ、ホロ投影されることを想定していない家具が揃っているよ」 「へーそうなんだ、ほんとに楽しみ」 これから向かう先のこと、日常のこと、落ち着いたテンポでの会話は途切れることを知らなかった。 ヒロインは耳や目から吸収する全ての知識に興味を持ち瞳に星のような瞬きを宿し続けていた。 地下に入り露店が立ち並ぶ通路を抜け、階段を上がる。 とは言えまだ地上でもなく。 「なんだか色んな場所を通ってきたから、感覚がまったくわからない…」 「だろうね、疲れてはいない?」 「うん、大丈夫、ありがとう、でも聖護くんここも廃棄区画なの?」 「そうだよ」 「だけどこの辺りは雰囲気が違うっていうか、とても綺麗なんだね」 「主な顧客が上流階級の人間だからかな」 「え!そうなの?てことは…やっぱり聖護くんも?」 「さあ、僕はそういう型にははまっていないと思うけど、ごく普通でありきたりな人間だしね」 「えー?ふふふ、本当?」 この時代、家具にしろ衣類にしろ、ホロを使わない手の込んだ物を揃えるとなると、当然値が張る物が多く。 特に此処は古い時代を重んじる富裕層の人間でなければ手が届かないような品を扱う界隈だ。 故に廃棄区画内とは言え整備も行き届いていた。 シビュラ社会から飛び出した人間のさ迷う荒んだ区画とは空気も違い、ヒロインはそのことにもまた新鮮な反応を示した。 目的のインテリアショップに到着し、煌びやかに統一された店内へと足を踏み入れる。 僕の姿に気付いた馴染みの店員が笑顔で近付いてきて、丁寧に頭を下げた。 落ち着いた色のスリーピーススーツをスマートに着こなす男だ。 男は一度だけ僅かにヒロインを見据えた。 かつて僕が人を連れ来店したことはないから、顔には出さないが驚いているのだろう。 そしておそらくヒロインを品定めした。 「槙島様いらっしゃいませ、いつもご贔屓にしていただきありがとうございます」 「ああ」 「本日はどういったご用件でしょうか」 僕と男のやり取りを見たヒロインは、呆けに取られながら僕を見つめたから。 ヒロインに視線を流しつつ男に告げた。 「ヒロインというよ、彼女が気に入る物を、ね、」 「あ…ハンガーラックを探しています」 ヒロインに話題を振れば、男も柔らかな表情をヒロインに向けた。 ヒロインは少しハッとして、緊張した様子で用件を口にした。 「ヒロイン様、さようでございますか、では店内に展示されている物をご覧になられますか、それともオーダーメイドで、」 「そうだな…せったくだしオーダーメイドにしようか、ヒロイン」 「オーダーメイド…!?」 「ではこちらにどうぞ」 店内奥の応接室に通され、ソファに並んで座れば、男はヒロインにタブレットを差し出した。 「大まかなイメージでも構いませんのでご希望があれば描き出してみてください」 「はい…ありがとうございます」 ヒロインは何もかもに圧倒されている様子でそれを受け取り、付属のペンを手にした。 けれどすぐに描き始めることはなく悩んでいることが伺える。 与えられた選択肢の中から選ぶわけではないのだから当然の反応とも言えるだろうが。 「一から決めるなんて…考えたこともなかった」 「だがだいたいのイメージはできているのかな」 「うん、なんとなくはできてるような気がするんだけど……、あ、そうだ聖護くんって美術の先生なんだよね」 「ああ、そうだよ」 「じゃあ私が言うから、聖護くん描いてみてくれる?」 「それは構わないけど」 「やった、聖護くんの絵もちょっと見てみたかったんだよね」 僕とヒロインが会話を始めると、男は声を掛けることはなく会釈をし、一度この場から離れていった。 入れ替わりで女の店員が紅茶を運んできた際には、ヒロインは女にも恭しく礼を伝えていた。 しかし僕と二人きりになって少し緊張もほぐれたのだろう。 面持ちや言葉からそんな気持ちが見て取れた。 「あんまり場所とりたくないから…こう…棒のやつ」 「フ、スタンドだね」 「そうそう、スタンドで…あとは…猫脚だったらおしゃれ?アンティーク調な」 「うん、だったらこうかな?」 「素敵、そしたら掛ける方もちょっとくるって」 「くるって……ヒロイン、他の表現方法も少し考えてみようか」 「あ、ふふ、でも聖護くんに伝わってるから今はいーの、あとせっかくだしストールとか帽子とかも掛けられるといいよね、だから…」 ヒロインは一つ一つを真剣に悩み、イメージを伝えようと手振りも添え努力していた。 僕はヒロインのイメージを逃さないよう拾い、線にしていった。 「だいたいこんな感じかな」 「うん、かわいい!しかも聖護くんの絵が上手いおかげで超リアル!」 「紙と鉛筆で描いた方がもっと味のあるデッサンになるんだけど…、まぁ今日はそれを目的として来たわけではないからね」 現物が出来上がったわけでもないのに、ヒロインは絵を見てはしゃいでいた。 その姿を見て連れてきて良かったと思えた。 「ヒロイン様、イメージは固まりましたでしょうか」 「はい、一応、」 「でしたら次に材質なのですが、木製、アイアン製、」 「こんなにあるんですか!?」 「ええ、今ヒロイン様が手にされているサンプルは木製のものですね」 「木だけでもこんなに…!これもまたすごい悩む」 男は今度は材質のサンプルを持ってきて、ヒロインの前に並べた。 デザインからしてアイアン製にしたらいいだろうと思ったが、ヒロインの意思を尊重する為見守ることに徹した。 笑みを張り付けたままの男も向かいのソファに座り、ヒロインが答えを出すのを待った。 ヒロインはそれぞれをまじまじと眺め色味を確認し、指で触れ感触も確かめていた。 「聖護くん、すごいね…、ホロだったらこんなふうに悩むことはまずないもんね」 「そうだね、ヒロインはこうやって考えることを億劫だと思うかい」 「ううん、まさか…」 サンプルに視線を奪われたまま僕の問いに対し首を横に振ったヒロインだったが。 次の瞬間、僕を見て幸せそうにはにかみながら。 「聖護くん、悩むのって楽しいね」と告げた。 その笑みと台詞がまた随分と輝かしく思えて。 僕はヒロインの顎にそっと指を添え、顔を近付けた。 そして、唇を重ねた。 「…!」 軽く触れ合った唇は、一度で離すのが惜しい程の柔らかさだった。 が、今はこれ以上をする気もないから、おとなしく引きヒロインの顔を見つめた。 間近で目が合ったヒロインは瞳を真ん丸にさせ仰天の表情で。 色気とはかけ離れた面持ちだったが、逆に微笑ましく口角は上がった。 するとワンテンポずれてヒロインの頬は紅く染まっていった。 「しょうごくん…今、なにを…」 「うん、キスだね」 「…いや、それはわかるよ、でもなんで…」 「許可を取らなければいいと言ったのはヒロインだろう」 「いいって言ったわけでもないし、しかもなんで今ここで…!ああもう…絶対顔真っ赤だ…」 何事もなかったかのようにヒロインの問いに答えた。 だがヒロインは今のキスを何事もなかったように扱うことは困難らしく。 サンプルに向き直ったが、恥じらいは隠しきれないままだった。 それから男にも目をやれば、今まで何度来店しても接客用の表情を崩したことはなかった男だが、今は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で。 おまけに何故か男まで顔を赤くしていて。 「なんか…すみません、槙島さんが…」 「いえいえ、私の方こそなんだかすみません…気を利かさずに居座ってしまい…」 「いえいえいえ、ここはお店ですから、槙島さんのおうちでもないのに…すみません」 「なぜ二人が赤面しているのかな、君達が唇を重ねたわけでもあるまいし…、面白いな」 「聖護くん…!!そんな他人事みたいに…!」 状況の物珍しさに瑞々しい気持ちを覚えた。 そんな中でもヒロインは選ぶものはきっちりと選び、最終的にゴールドのアイアンに決めたようだった。 だから「僕もそれがいいと思うよ」とヒロインの顔を覗き込めば。 ヒロインはまだ余韻を引きずっているのか、また赤くなった。 からかうつもりがあったわけではないけど、ヒロインの反応に自然とクスクスと笑い声が漏れた。 「それでは槙島様、仕上がり次第またご連絡を差し上げますので」 「頼んだよ」 「よろしくお願いします、楽しみにしてます」 「かしこまりました、ご期待ください」 「行こう、ヒロイン」 そうして平静を持ち直し深く頭を下げる男をはじめ店員に見送られ、店を後にした。 が、ふとヒロインが並んでいないことに気付く。 出会った夜と同じ、一歩下がった位置にいる。 キスをしたことによって僕に警戒心でも芽生え、再び距離ができたのだろうか。 だとしても、それはそれで構わなかった。 ヒロインの変化を間近で見ていることに変わりはないのだから。 取り分け言及もせずに歩き出そうとした。 しかし、その時。 「ね、しょうごくん」 「うん?」 手のひらにぬくもりが触れた。 ヒロインが後ろから僕の手に手を伸ばし、そっと握ったようだった。 それはすんなりと僕の肌に馴染んだ。 だが想定外の出来事には変わりなく、ヒロインに視線を向ければ。 「こうして歩いてもいい?」 同時にヒロインはまた僕の隣に立ち、あどけない笑みを見せた。 それを見て僕は返事の代わりに、再度ヒロインの顔に顔を寄せてみた。 たださっきよりもゆっくりと。 そうすれば雰囲気を察したヒロインは自ら静かに瞼を落としたから。 もう一度、唇に触れるだけのキスを降らせ。 見つめる。 「…厭、だったかな?」 「ううん…いやではないよ」 二度目のキスをしたヒロインは照れることもなく、ひたすら僕を真っ直ぐに見上げた。 けれど優しく微笑めば、すぐにヒロインの口許もいつも通りに綻んで。 「じゃあヒロイン、昼食をどこかで食べようか」 「外食で?天然のものを?」 「ああ、もちろん」 「すごい!それも超楽しみ」 手を繋いだまま、歩みを進めた。 意味もなく他人の体温が手の中に収まっていることが不思議だった。 だがこれも悪い気はしないことは確かで。 いつもと変わらない空気に包まれながらも、ヒロインは今朝よりも僕の傍にいた。 「ねぇ、聖護くん、」 「なにかな、ヒロイン」 「王子様のキスで目覚めるお姫様は眠り姫と白雪姫の他にもいる?」 「いや、グリム童話では白雪姫もキスで目覚めたわけではないよ」 「そうなの?」 「ああ、おそらくヒロインの記憶にある物語は改編されている方のものだろうね、グリム童話は時として残酷だよ」 「そうだったんだ、ロマンチックなものばかりではないんだね」 「だが恋が、ロマンチックな出来事ばかりではないことは、僕よりもヒロインの方が詳しいと思うけど?」 「聖護くん…!そうかもしれないけど…!!」 「フ、でも更に理解できよ」 「ん?」 「ヒロインが好む恋愛の傾向が」 「あ、聖護くんが不敵な笑みだ」 キスをしたのは毒林檎 ← top ← contents ×
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