失恋した身で、槙島さんに拾われて一週間と三日。 槙島さんはここに帰ってこない日もあれば、食事を一緒に取ったとしても、夜更けに出掛けてしまうこともあった。 教師をしていると言っていたけど、漠然とそれだけではないのだろうと思う。 なんだか忙しそうなひと。 しかも槙島さんはショートスリーパーで、睡眠も三時間で足りるらしい。 だから寝室のベッドは相変わらず独り占めさせてもらってる。 でももし私がいるからって槙島さんがベッドを使わないんだったら、やっぱりそれは申し訳なくて。 だからこの間そのことについて改めて触れてみた。 そうしたら槙島さんは、相変わらず綺麗な顔で。 「ヒロインが知らないだけじゃないのかな」 「え?」 「僕はヒロインの寝顔をもう何度も見ているし、隣でも眠っているよ」 「え!」 「だから心配する必要はないよ」 こう言って微笑んだ。 本当のことなのか…それとも私の反応を見て楽しんでいるのか…あるいは私が気を遣わなくていいように言ってくれているのか…。 未だ掴み所がなくて分からない。 でもそれ以上を追求することはやめた。 もちろん槙島さんに興味がないわけでもないけど、そこまで踏み込むほどの関係ではないことも明確だし。 何より答えが何だったとしても、槙島さんがこの環境を私に用意してくれていることには変わりないから。 住むところも、食事も、着るものも、与えてもらって。 ここに居て、言葉を交わす時は、気に掛けてくれていることも伝わってくる。 槙島さんの好きな本の話もよく聞かせてくれるし、邪険に扱われたこともない。 それで充分。 充分過ぎるくらい。 だから槙島さんが何をしているひとなのかは、端的に言えばどうでもいいことだった。 全部柔軟に受け入れたい。 ただこの掴み所のなさは計算なのかと思うこともある今日この頃。 “僕に恋をしてごらん”と言った槙島さん。 でもだからといって槙島さんは特別なアプローチなんてしてこない。 一緒にいるときの彼は至極自然体に見えた。 けどそれが逆に駆け引きだったりする可能性もあって。 事実今、仕事から帰る私は今夜あの家に槙島さんが帰ってくるか気になっている。 期待している。 槙島さんが自然体でいてくれるおかげで私も自然体でいられるし、何より槙島さんの話を聞くのは楽しい。 別れた彼に未練はないけれど、恋を失ったこと自体に泣きたくなる日はある。 それでも今こんなにも前向きに過ごせているのは槙島さんがいてくれるから。 知らない世界を教えてくれる。 夢中になっているうちに、失恋の寂しさも紛れる。 槙島さんの存在は大きかった。 セーフハウスに着きロックを解除する。 すると人の気配。 自然と足取りは軽くなって、部屋へ入ると案の定槙島さんがいた。 嬉々とする心。 「ヒロイン、おかえり」 「槙島さん!ただいまー」 「フ、嬉しそうだね」 「あ…ふふ、そうかな、そうかも」 「うん、僕も君の顔が見たくて帰ってきたからね、帰ってきた甲斐があったよ」 …黙ってるだけでもいい男過ぎるのに。 こういうことまでさらっと言っちゃうから、こわい。 不意打ちにときめいてしまう。 「ヒロイン?どうかしたのかい?」 「ううん!大丈夫」 「そう?食事は済ませたかな」 「まだだよー」 でもやっぱり槙島さんは素に見えるから。 今のも無意識なのか確信犯なのかも分からなくて。 一人こっそりドキドキしてる。 会話をしながら、キッチンで立っている槙島さんの隣まで歩みを進めた。 「じゃあ丁度良かった、泉宮寺さんから色々ともらってきたんだ」 「せんぐーじさん?」 「各所にコネがある人でね、楽しい人だよ」 「へーそうなんだ、槙島さんの人脈ってなんかすごそうだよね」 「そうかな」 「うん、」 これでもし、槙島さんが私への態度を計算しているのなら、私は完璧に槙島さんの罠にはまっていっている。 その様は正に、緩やかに、堕ちていくように―――。 隣に立って、少しでも槙島さんの心を読みたくて、ちらりと槙島さんの顔を見てみた。 目が合うと、槙島さんはゆったりと瞳を細めた。 不覚にもそれにまたときめいてしまって。 なんだか逆に私の心が見透かされた気分にもなる。 「松茸ご飯だそうだよ、それから煮しめとなます」 「調理もしてくれてあるの?」 「ああ、本当は一緒に食べていかないかと誘われたんだけどね」 「もしかして女の人?」 「いや、男性だよ、まぁどちらにせよ僕は今日は帰ってくるつもりだったから」 「そっか、ありがとう、槙島さん」 槙島さんの手元には漆で塗られた艶のある重箱。 椿の絵が施されている。 槙島さんが繊細な指先で蓋を取り、一段目を二段目の隣に置いた。 「おいしそー」 「ああ、それにこの松茸は天然物の中でも特に貴重とされているものなんだよ」 「そうなんだ、…ん、いい香り」 「さて、いただくとしようか、ヒロイン」 「うん!」 二人分の食器に盛り付け直してテーブルに並べて。 今日会社であったこととか。 槙島さんが今日読んだ本の話とか。 他愛もない会話をしながら、天然の食材に満たされる。 最初は好奇心で口にしてみた、色相が濁ると言われている天然の食材。 だけど私のサイコパスは、携帯型の測定器はもちろん、街頭スキャナーや会社の検査でも引っ掛かることはなかった。 とても良好にクリアカラーが保たれていた。 きっとそれは、私には槙島さんが心の美しい人に見えているからで。 立ち振舞いも、紡ぐ言葉も、今まで出会った人間の中で飛び抜けて秀麗。 そんな槙島さんに安心して今の日々を過ごしているからという理由も影響しているのかも知れない。 そうして今やもう天然の食材の虜。 「こんなに美味しいものを普通に食べられないなんて、もったいないよねー…」 「僕もそう思うよ」 「だからね、最近、会社や外で食べなきゃならないお昼ご飯が物足りなくて」 「じゃあチェ・グソンに弁当を頼んでおこうか」 「あはは、それはさすがに大丈夫、グソンさんに悪いよ」 「だが今夜も…そうだな、これに吸い物でもあれば尚良かった、そうは思わないかい、ヒロイン」 「あ、うん、確かにー」 「やはりチェ・グソンに頼むべきだったのかも知れない」 「ふ、今夜はグソンさんは忙しいの?」 「そのようだね」 槙島さんは自炊もできない訳じゃないけど、グソンさんがいるときはグソンさん任せらしい。 この間、槙島さんはいない朝、朝食を用意しながらグソンさんが教えてくれた。 それからグソンさんは「あのひとには、俺も救われてますしね」と付け加えた。 だから「じゃあ私とおんなじですね」と笑えば、グソンさんは「そうですね」と一層穏やかに答えてくれた。 槙島さんとグソンさんの関係もよく分からないけれど、それも別にこのままで良かった。 外国の人がこうして日本にいるなんて絶対に何か訳があるんだろうけど。 でもグソンさんも優しくて心地がいいから。 それで充分。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした、本当に美味しかったです」 「ヒロインに満足してもらえたんなら何よりだよ」 二人で手を合わせ、私は食器を食洗機に並べた。 するとそのまま本を読むだろうと思っていた槙島さんももう一度キッチンへ来て。 「……緑茶…は、ないようだ」 「ん?」 「緑茶を淹れるつもりだったんだが切らしているようだね、仕方ない…紅茶にしよう、ヒロインも飲むだろう」 「…はい、…槙島さんが淹れてくれるの?」 「座って待ってるといいよ」 ティーカップを二つ用意して、紅茶を淹れる準備を始めた槙島さん。 私は促されるままソファに座ったけれど、なんだか落ち着かない。 だって槙島さんに紅茶を淹れてもらうなんて初めてで、無性に緊張してしまう。 「お待たせ、ヒロイン」 「ありがとう、槙島さん…!いただきます」 「ああ」 程なくして槙島さんは私の前に紅茶を置いてくれた。 二人を包むようにほのかに甘い香りが漂っている。 透き通る深い赤が綺麗。 槙島さんは向かいのソファで脚を組んで座り、カップを片手に早速本を開いた。 本当に絵になる姿。 私はそんな槙島さんを眺めながらカップを口に運んだ。 「おいしい…」 読書の邪魔をするつもりはないけれど。 槙島さんが淹れてくれた紅茶もとても美味しくて、思わず声に出してしまった。 槙島さんが淹れてくれた紅茶は、グソンさんが淹れてくれるものよりも甘い気がした。 私の言葉に反応した槙島さんは本から顔を上げ、私を見ると優しく口角を上げた。 そうしてまた本に目線を戻した。 紅茶の味と共に広がるのは、幸せ。 それから静けさ。 時折槙島さんが本を捲る音も聞きながら、ゆっくりと紅茶を味わっていた。 これを飲み終えたら私はシャワーでも浴びに行こうか。 でもそうしたら今日はもう槙島さんとは一緒にいられないかも知れない。 …無意識に、もう少し一緒にいたいと思っている自分に気付く。 このままおやすみなさいって言うのはなんとなく淋しくて。 本当に読書の邪魔をするつもりはないんだけど、ほんの少しでいいから構ってほしい矛盾を感じる。 槙島さん頭いいんだし、私のこの気持ちにも気付いてくれないかな、なんて。 ちょっと身勝手なことも考えながらぼんやりと見つめていた。 もしこれで想いが通じて目が合ったとしたら、嬉しくてそれだけで満足。 だけど当然、そんな私の視線に槙島さんは気付くわけなくて。 ま き し ま さ ん 今度は唇だけ小さく動かして、声に出さずに呼んでみた。 「――……フ、」 すると槙島さんは目は伏せたままだけれど、僅かに笑った。 だからこんな念も通じたのかと思って、一瞬どきっとした。 でも槙島さんはそのまま本から目を離すこともなくて。 きっと本の内容に笑ったんだろう。 ちょっとだけ萎れる心。 …それにしても私、思った以上に一喜一憂してる。 だから、自分の気持ちをもう少し知る為にも、やっぱり槙島さんにこっちを向いてもらいたくなって。 ごめんなさい、槙島さん。 一回だけ読書の邪魔をさせてください。 でも普通に呼んだら、目線は向けられずに返事だけ返ってくる可能性もあった。 そうしたら今夜はおとなしくシャワーを浴びに行く選択肢しかなくなってしまうから。 ない知恵を絞り、今の私にできる精一杯のことを。 「――……しょうごくん、」 初めて下の名前で呼んでみた。 すると槙島さんはほんの僅かな間の後に顔を上げ。 ゆっくりと私を視界に収めてくれた。 望んでいた結果が返ってきた。 「なにかな、ヒロイン」 目を見て、微笑んで、名前を呼んでもらえる。 それだけで、嬉しくて。 どうしてこんなにあまいんだろう。 「ヒロイン?僕に何か用があって呼んだんだろう」 「ぁ…あのね、聖護くん、」 「なんだい、ヒロイン」 「えっと、この紅茶…何か、入れた?」 自分の心の中に広がる甘さに思考が追い付かずに。 咄嗟に口を衝いて出ていた疑問。 せっかくこっちを見てくれたんだし、素直にちょっと構って欲しかったって言えば良かったのに。 だって槙島さんなら多分そんなわがままにも付き合ってくれた。 それなのに、なんでこんなに照れちゃうんだろう。 「茶葉から抽出したものに砂糖を加えただけだよ」 「…うん、じゃあお砂糖だね、お砂糖で甘いんだ」 「フ、さっきは美味しいと言っていたけれどやはり口に合わなかったかい」 「ううん、そんなことない、とてもすき…です」 「そう、それなら良かった」 槙島さんはまた優しい顔をしてくれて。 やっぱりどうしようもなく甘い。 聖護くん。 「もう一杯淹れようか?」 「いいの?あ、でも、眠れなくなったりするのかな?本物の紅茶は…カフェインだっけ?」 「もしそれで眠れなくなったなら、僕と話をしていればいいよ」 「…聖護くん、構ってくれるの?」 「フフ、構う、――もちろんだよ、ヒロインのことならいくらでも、」 そうして聖護くんの傍で、もう一度、甘い香りに包まれた。 今夜はまだ、全部お砂糖のせいにして。 惑溺性ストックホルム症候群 ← top ← contents ×
|