ベランダ・ラプソディ





「……ごめんなさい」

 その一言に、リヴァイは半開きの目を数回瞬いた。

「……エレン?」
「ごめんなさい、りばいさん。おれのせいなんです。おれが……お、おれが……っ……」

 繰り広げられるは五歳児のガチ泣き。しかも歳相応に喚き立てればいいものの、目を覆ってその場で静かに崩れ落ちるときた。

「……なにがあったんだ?」

 そう疑問に思って当然だろう。ぐすぐすとみっともなく鼻を啜る小さなその体に合わせて屈みながら、リヴァイは軽く首を傾げながら問う。

「どうしたのか、言ってみろ。泣いてるだけじゃわからねぇだろ?」


     × × ×


 時は先週まで遡る。

「りばいさんりばいさん、このシュッとしてるのはなんですか?」
「あ? ……いや、知らねえな」
「じゃあこれは? このはっぱがまるっこいやつは!」
「あー……」
「ああ、それは『カランコエ』ですね。比較的育てやすいとは思いますが――何かお探しですか?」
 声をかけてきたホームセンターの店員を、リヴァイは一瞥してから眉を寄せる。
 いや――探している、といえば探しているのだが、ちょっと具体的に何を探しているというわけではなくて。
 大型のホームセンターの端の方に設けられたそのガーデニングスペースは他の場所と違ってガラス張りの壁が多く、おかげでそこだけ、夏の日差しが葉を照らし何か生命力を感じさせるような雰囲気であった。
 色とりどりの花に、値札と説明書きが付いている。それをひとつひとつ見比べていたところだったのだが、どうにも勝手がわからないリヴァイにはその中からひとつを選び出すことが出来なさそうな予感がしていて。
「あー……なんか育てやすいやつ、探してるんですけど」
 緑色のエプロンをした、女性店員にそう返す。実際店員に相談した方が早いだろう。足元でちょろちょろと動き回るエレンを片手で制しながらそう言うと、店員がよし来たとばかりに目を輝かせた。
「育てやすいものですね。今の時期ですと朝顔なんかはまず失敗しませんが……ガーデニング用でよろしいですか?」
「いや、ガーデニングっていうか……こいつに育てられそうなものがあれば」
 それがいいんですけど。言いながら、リヴァイの足に隠れたエレンを指さす。そこまで小さくはないくせに、未だに人と会うとリヴァイの後ろに隠れたがるエレンは微妙な顔つきでそっと店員を伺って、けれどもじっと相手を観察している。
 邪魔だ、とそんなエレンを足から引っぺがし、店員の意見を待った。店員は店員で色々と知識をひけらかせてくれたわけだが、如何せん基礎知識もなければ何を言っているかもわからないレベルのリヴァイに店員の提案を理解できるわけもなく、黙って話を聞いているとちょっと困ったような顔をした店員がまた質問を投げてくる。
「選ぶ基準は、観賞用でよろしいですか? もしよろしければ、食用のものもありますが」
 まぁ、食える方がいいのかもしれない。そう思ってそれはどうなのかと問えば、店員は営業スマイルを浮かべながら野菜のプランターの方へと足を向けながらそこを手で指した。
「野菜、となりますとうちではそんなに種類をご用意していないんですけれども、キュウリやジャガイモ、トマト、ネギなんかはいかがでしょうか。こちらのキュウリは少し育ってしまっているのですが、その分少し育てるだけですぐ実が付くかと……」
「……トマト?」
 ひょこ。店員の説明を遮って、足元から何やらきもち上擦った声が聞こえてくる。店員と二人でその方向を見やれば、何やら頬を紅潮したエレンが同じ単語をもう一度繰り返した。
「トマト……」
「僕、トマトが好きなの?」
「うんっ」
「……じゃ、それで」
 即決に店員が驚いた顔をしたが、構わずリヴァイはポケットから財布を取り出した。エレンが特別トマトが好きであるかどうかというと、多分そうでもない。しかしながら子供なんてムラッ気のある生き物だ。そろそろ考えるのも面倒になっていたというのもあって、リヴァイはさっさとその会計を済ませることにした。


     × × ×


 そもそも植物を買おうだなんて、確実にリヴァイの柄じゃない。それくらい周知の事実であろう。それでは何故そんなことをしたのか――理由はこのスーツケースに由来する。
 実のところ四日ほど、出張に行かなくてはならないのだ。地理的に家に帰ってくるというのは無理な距離であるし、子供の同行はもちろん許可されなかった。育児があると言っても受け入れてもらえないのが悲しい世の性である。
 仕事だから仕方ない、といっても四日もエレンを一人にするのは非常識というものだろう。大体にしてあいつはあと一年で小学校に行く年齢なわけだが、人よりも少し抜けているところがある。そんな奴を一人にするのは心配極まりない。――よってここでエルヴィンを召喚だ。
 最初は有給を駆使して四日間エレンに付きっきりにしてもらおうと思っていたのだが、会社の重役ということでさすがにそれは叶わないだろう。仕方がないので仕事を早めに切り上げ、定時に帰宅しエレンの世話をしてもらうということで話が決まった。
 スーツケースに日用品を詰め込みながら、きょろと部屋の中を見回す。ホテルにはおそらくアメニティがあるとは思うのだが、自分の口に入れるものや自分の肌につけるものに関してうるさいリヴァイとしては、家から持って行かなくては気が済まないのが正直な話だ。他に忘れ物が無いかと目を滑らすと、机の上になにやらパンフレット状のものを見つけた。
(……なんだこれ)
 立ち上がり、それを手に取る。見ればそれは表紙がくしゃくしゃになっていて、扱い方からエレンの物だということがわかった。「トマトとともだちになる方法」と書かれたそのタイトルから察するに、栽培方法か何かが記載されているのだろう。パラパラと中身を流し見ると明らかに子供向けといった調子で、こんなものいつもらってきたのかとリヴァイは肩をすくめた。
「あっ、りばいさん! それおれのですよ!」
 机に戻そうとした瞬間、ドアのあたりからそんな声がする。リヴァイは視線をそちらには移さないまま、近寄ってくるエレンに声をかけた。
「……買った時もらったのか?」
「え?」
「コレ。店員にでももらったのか?」
 ひらりとパンフレットを仰ぐと、エレンが返してと言わんばかりに手を広げながら首を縦に振る。
「そうです! おれいまなら、トマトとおともだちになれます!」
「読んだのか」
「はいっ!」
 そりゃまあ、こんなにくしゃくしゃになるまで読んだなら、自信あり気にそう答えるだろう。リヴァイはそうかとだけ相槌を打って、またスーツケースに手を伸ばす。
「りばいさん、トマトさんのすきなものってなにかしってますか?」
「好きなモン?」
「水です!」
「シンキングタイム無しかよ」
 リヴァイのツッコミは特にエレンの耳には届いていないようで、なにやら足取り軽くそのパンフレットを眺めながらくるくると踊っている。ご機嫌なのは結構だが、物が多いから出来れば躓かないで頂きたい。出張中、特に日中はエレン一人になるのだが、こんな調子で大丈夫だろうかと思ってしまう。
 しかしながら来年には小学生になるのだから、そろそろリヴァイの方も子離れ――とまではいかずともそこまで構うことはしないほうがいいだろう。小学校に行っている間のことを心配に思っていたら、胃に穴が開く。

「りばいさん! えるびんさんからおでんわですよ!」
「あー……なんだ? 用件を言えって言え」
「はいっ! あのっ、えるびんさん? ようけんをいえっ! ……あ、はいっ。はいっ。……『しゅっちょうちゅうのたのみのたいかはなにでペイしてくれるのかな?』……だそうですがりばいさん」
「切れ」
「ぺいってなんですか?」
「切れ、エレン」 



 えれんのトマトかんさつにっき いちにちめ

 あさおきるとりばいさんがいませんでした。
 いつもどおりにおこしに行ったのに、ベッドがからっぽでびっくりしました。おれはちょっとぽかんとしてから、おふとんをめくってみたけどやっぱりいなくて、ベッドの下とか、ドアのすきまとか、いっぱいさがしたんだけどやっぱりいなくて、そっかごはんつくってるんですねって思ってキッチンに行ったんだけどいないんです。
 おれはつよいのでこんなことでないたりとかそんなことはしないから、たぶん目からお水がでたのはちょっとびっくりしちゃったからだと思ってます。りばいさーんでてきてぇ、って、さけんでもへんじがなくて、おれほんと、りばいさんおれをおいてどっか行っちゃったのかなっていよいよかなしくなってきたそのときに、つくえの上にのってるかみをみつけたんです。

『エレンへ。夜(よる)になったらエルヴィンがくるから、それまで家(いえ)でおとなしくまってろ。オレは昨日(きのう)言ったように四日ほど帰(かえ)ってこないから、ピンポン鳴っても絶対(ぜったい)に出るなよ。エルヴィンがくるときは電話(でんわ)がくるからそうしたら出ろ。

 あと約束がいくつかあるからちゃんと読(よ)んでおけよ。

・ごはんは一日三回ちゃんとたべろ
・たべるものは冷蔵庫(れいぞうこ)にある
・たべたいものがあったらエルヴィンに言(い)え
・エアコンはさむかったら消(け)せ
・外(そと)にはあぶないから出るな。どうしても出たいときはオレかエルヴィンに電話(でんわ)して相談(そうだん)しろ
・コンロはつかうな
・なにかあったらなんでもいいから電話(でんわ)しろ
・トマトの世話(せわ)はたのんだ』

 よめないな、と思ったかんじにはちいさくひらがながかいてあったからわかりました。りばいさんの字はおれと似てきたないけど、それでもなんだか「りばいさん」というかんじの文字だなと思います。
「トマトの、おせわ……」
 おんどくをして、それからだれもいないからはずかしくないぞと、ふんふんとはなうたをうたいました。うたいながらおれはその紙をれいぞうこにペタリとはります。いつもならここでりばいさんの「へたくそ」がとんでくるのですが、うしろを向いてもまえを向いても、どこからもきこえてきません。
(トマトの、おせわ!)
 いちばん下にかいてある、これはきっとりばいさんからのめーれーなのです。もしくはおねがいかもしれません。どっちだったとしてもきっと、おれが「かんすい」したらりばいさんはほめてくれるんだと思います。りばいさんはいつも、こっちを見ないままたばこを片手に、ぽんぽんとおれのあたまをなでてくれるのです。おれはそれが、すきなのです!
 まかせてくださいりばいさん。おれはあなたがかえってくるまでにきっと、まっかっかなトマトを育ててみせます!







 えれんのトマトかんさつにっき ふつかめ

 トマトさんとなかよくなるには、お水をあげることがたいせつです。

「エレン、朝だよ。起きなさい……エレン」
「う……ぅぅん……」
「トマトに水をやるんだろう? 起きないと昼になってしまうよ」
「……!」
 そうだ、お水!
 きのうえるびんさんとえーがをみていたせいですごくねむかったけど、トマトさんにごはんをあげなくてはならないのです!
 おれはびっくりしたみたいにとび起きて、えるびんさんはそんなおれにびっくりしたみたいだったけど、そんなのはおかまいなしです。
 いきなり目をあけたから、目がしぱしぱしてよくあきません。おかげでまっすぐ歩けないなって思いながらじょうろはどこですかってえるびんさんにきいたら、うしろからちょっとこまった声がして。
「ジョウロならここだよ。ほら、しっかり立って。零さないようにね」
「……ふぁい…」
 あくびがはなをとおってぬけてから、えるびんさんがもってた青色のじょうろをわたされてもってみると、思ったよりもおもくて目がさめました。ぱっちりした目でベランダを見ると、トマトさんがおひさまに照らされてキラキラしています。カラカラとえるびんさんがまどをあければ、風がカーテンをゆらしておれのかおをびゅう、となでました。
「トマト、無事に育つといいね」
 おれがぞうさんのかたちのじょうろをかたむけてトマトさんにあさごはんをあげていると、せの高いえるびんさんがニコニコとトマトさんをみおろしています。おれもそう思うのでにっこりとすると、えるびんさんのかおはもっとうれしそうになりました。
「トマトさんがおっきくなったら、おれとりばいさんでたべるんですよ。りばいさんがサラダにするっていってたので、おれ、がんばっておっきくするんです」
「おやおや、それはいい目標だね。じゃあその時は、私も呼んでくれるかな?」
「しょくじには来てもいいですけど、トマトさんはあげませんよ?」
「え、ええ……? どうしてだい?」
「だってこれは、おれとりばいさんのあいのけっしょうなので!」
 あいのけっしょうってなんだろう。ちょっとわからないけど、なんかテレビできいたことがある。たしか、すきな人どうしが力をあわせてがんばるみたいな、そんなはなしだったはずです。それっておれとりばいさんのことみたいだなって、おれそのとき思ったんです。だからこのトマトさんは、おれとりばいさんだけのものなんです!
 えるびんさんにそうせつめーすると、えるびんさんはちょっとこまったような、でもなにかしあわせそうなかおで、「そうかそうか。じゃあお邪魔しちゃ悪いね」なんてわらっていました。
「トマトさんは、ほんとうにお水だけでおなかいっぱいになるんでしょうか?」
 すっかりからっぽになったじょうろをえるびんさんにわたしながら、おれがそうきいてみると、えるびんさんはそれをベランダのたなにもどしながら「うーん」とうなりごえをあげました。
「まぁ、人それぞれだからね」
「ひとそれぞれ?」
「うん。人によって食べる量も、好きなものだって違うからね。例えば私は、エレンよりもリヴァイよりも、いっぱいご飯を食べるだろう?」
「えるびんさんは『おおめしぐらい』ですからね」
「それ、リヴァイが言っていたのかい?」
 いえ、それもそうですがおれもそう思います。そうこたえるとえるびんさんはまたちょっとまゆげをはのじにしてわらいました。
 おおめしぐらいってどれぐらいでしょうか。


     × × ×


「それじゃあエレン、行ってくるよ。多分七時くらいには帰ってくると思うから、何かあったらメモに書いてある番号に電話してくれ」
「りょうかいいたしましたっ」
「……うん、元気がよくてよろしい。けど、その」
「?」
「……もしかして、いってらっしゃいのキスとかは、あったりするのかい?」
「? あれはりばいさんげんていですけど」
「あ、うん、そうか」
「りばいさんいがいにはしちゃだめっていわれてるんで」
「うん、うん、わかったよ。ごめんね変なことを訊いて。お留守番頼んだよ、いってきます」
「はぁいっ」
 えれんのトマトかんさつにっき みっかめ

 たいへんですたいへんですりばいさん!
 トマトさんにへんなむしが!

 おれはきほんてきにつよい子なんです。りばいさんがおとこはつよくなきゃダメだっていうから、りばいさんがつよいやつならだんなにしてやってもいいとかいうから、おれほんきでつよくなってるまっさいちゅうなんです。
 でも――でもね?
 むしだけはだめなんですよむしだけは!
「……ぉ、……おれは……つよい……」
 やまいはきから? だっけ。思うことがたいせつなんですよね? そうなんですよねりばいさん?
 おれはできるだけそのはっぱの上でモゾモゾしているなにかを見ないように、目をほそめて右手をまえにつきだしました。
 その手にはさいしゅうへーきのさっちゅうスプレー。りばいさんがよくくろくてはやいなにか(たしかりばいさんは「ジー」とよんでいた)をころすときにつかっているしろものです。
(まっててトマトさん、今たすけてあげるからね……!)
 たしかこの取っ手をひくとプシュウって出たはず。そう思いひといきにそれをひくと、思ったよりもいきおいよくふき出て、ちょっとびっくりして口をひらいたしゅんかん苦いあじがしたの上にひろがっておれはなみだ目になりました。
 むしにそれがかかったか、とか、それでむしはしんだのか、とか、そういうことをかんがえるよりもなによりもさきに、口の中がギュウッとなって、なにをかんがえたわけじゃないけどのみこんじゃダメだって、そう思ってながしまで走りました。ゴトンカラカラとさっちゅうスプレーがころがるおとをうしろにききながら、だいどころにおいてあったカップの中にすいどうすいをいれて――ガラガラペッをしなくては。
「にがい」
 というのは、さっちゅうざいの苦さじゃなくて、もっとなんかしっているかんじの、はなにツンとするようなにがさでした。よくみればカップの中には少しうすまったくろいみずがはいっていて、あっこれはしってるぞりばいさんがよくのんでるやつだ、って思いました。
 でもりばいさんはおとといからしゅっちょーに出かけているわけだし、たぶんこれはえるびんさんがのこした「コーヒー」だと思うのです。きっとそうだって思ったらきゅうに口の中がまたまずくなったので、もう一回うがいをしました。


















 えれんのトマトかんさつにっき よっかめ おひる

 はてさてここでもんだいです。いまはなんじでしょうか?

 ジーワジーワとおそとでセミがないています。おれはまだちょっとおもたい目をパチパチさせながら、じぃっとかべの「とけい」をみつめていました。
 まぁなかなかむずかしいんですよねとけいはね。さすがのおれでもちょっととけいまではね。……なんで「じゅうに」のところにみじかいのがいっぽんと、「いち」のところにながいのがいっぽんあるんでしょうかね。これなんじなんですかね。
 なんでもいいけどとりあえずおれはいつもこの「とけい」が「はちじ」のときにりばいさんにおこしてもらっているのです。でもきょうもりばいさんはいないし、えるびんさんがいたはずだけどもういないし。
――おしごとにいってしまったようです。
 きのうまでえるびんさんはちゃんと「トマトにお水あげるんだろう?」っておれをおこしてくれてたのに。これはどういうことなんでしょうか。「いくジホーキ」ってものでしょうか。ジホーキってなんだろう。
 おれは口をむっととがらせて、おふとんのうえにポイされていたけーたいをつかみました。それから「2」のボタンをおして耳にあてると、なんかいかのトゥルルルのあとにえるびんさんのこえがきこえます。
『……やぁ、もしもし? エレン、起きたのかい?』
「えるびんさん、いまはなんじですか?」
『エレン、電話では挨拶をするものだよ。もう一回やってごらん』
「おはようございますえるびんさんいまはなんじですか!」
『今はおはようではないんだけど……ううん、まぁいいか……』
「え?」
 おれは目をパチパチしました。
「おはようじゃないんですか?」
『そうだよ。おはようの次は何だった?』
「こんにちはですけど……え? もうこんにちはのじかんですか?」
『ああ。十二時を回っているからね』
「これ、じゅうにじですか!」
 いいながら、もういちどかべにかかっているとけいを見ました。やっぱりみじかいほうは「じゅうに」……をすこしすぎて、ながいほうは「いち」よりちょっと「に」のほうに行っています。
『そうか、エレンにはまだ時計の読み方を教えていなかったね。悪かった、今度教えるよ』
「どっ、どうしておこしてくれなかったんですかえるびんさんのばか!」
 おれはけーたいをにぎるみぎてにぎゅっと力をこめて、こんしんの「ばか」をくりだしました。思えばりばいさんに「ばか」といったことであたまごちんされたことはあったけど、えるびんさんにこれをいうのははじめてです。あとからかんがえたらすごくひどいことをしたと思いますが、このときのおれはちょっと「レイセイ」でなかったんだと思います。
『馬鹿とはなんだいエレン』
「だって! トマトさんにはおはようのじかんにお水をあげなきゃだめなんですよ!? なかよくなれないんですよ!? おれトマトさんとけんかはまっぴらごめんです!」
『真っ平……どこでそんな言葉を……』
「おみずっ!」
 えるびんさんとなんかはなしているバアイじゃありません。おれは「でんわきる」ボタンをピッとおして、けーたいをまたおふとんの上になげだしました。でんわのむこうでえるびんさんがなにやらいっていた気がしたけれども、そんなのおかまいなしですよ!
 おへやの中はクーラーですずしくて、セミのおととかトラックのおととかはまどがしまっているのでちょっととおくにきこえます。おれがそれをいきおいよくあけると、むわっとしたくうきとミンミンジワジワがいっきにおれのかおにふりかかってきて、おれはおこったときみたいなかおになってしまいました。
 でも、はやくトマトさんにおみずをあげないと。そう思っていつもつかっているぞうさんのじょうろをさがすのですが、どういうわけかみあたらないのです。
「……ぞうさーん?」
 よんだって出てきてくれないことくらいわかってますけど、よばないともっと出てきてくれないと思うのですよ。かくれているならなおさらなのですよ。
 いつもならこのシャベルと土がおいてあるこの「たな」にあるのに、きょうはどこへおでかけしてしまったのでしょうか? でもるすならしかたないのかもしれません。それはそう思いなおして、なにかほかのものでお水をあげることにしました。べつに、めんどくさくなったとかそういうわけじゃないですよ。いそいでるからです。
 お水をいれるというならば、やっぱりコップがいいでしょうか。でもりばいさんのコップをかってにつかうとおこられるので、それならおれのをつかうってことになりますね……でもおれのだとちょっとお水がぜんぜんはいらないのではないでしょうか……
 あれこれとかんがえながらキッチンをうろうろとしていたおれが、みつけたのはゴミばこでした。いや、せいかくにはゴミばこさんじゃなくて、「コーヒー」さん。しゅっちょーにでかけるまえにたぶん、りばいさんがすてていったものです。
 もうなんか、おれちょっとあせってたんです。だからこれでいいやって思って。お水をいれて、はしって、ぼたぼたたれるお水とかおふとんのうえでうるさくしているけーたいとか、おかまいなしにトマトさんのもとへといきます。なんだかしょんぼりしているような気がするトマトさんを見て、バシャバシャとお水をかけて、こんなんじゃたりないって思ってまたじゃぐちからお水をそそいではかけ、そそいではかけ。じかんがおそくなってしまったので、トマトさんはきげんがわるいにちがいありません。おれだってりばいさんがおそくかえってきたときに、すきなものだとかいつもよりごはんのりょうがおおくないと、ちょっとなっとくできませんから。だからきっとトマトさんだっておなじきもちなのかもしれません。だったらいつもよりたくさん、あげたほうがいいにきまっています。
 それにこれ、りばいさんがのんだあとの「アキカン」なんですよ。ちょっとしたまほうがかかってると思うから、ゆるしてねトマトさん。
 ちょっとおそくなっちゃったけど、きょうのおれのにんむはかんりょうです。かんりょうしたらおなかがすいてしまいました。ふとテーブルの上をみるとおにぎりとおかずがなんこかおいてあって、さらにその上になにかメモがおいてあります。

「……おはようえれん。よく…ていたようだから…こさずに……に…ってくるよ。……はりばいが…ってくる日だから、ちゃんと……してあげなさい。おかえりって…ってあげるんだよ。……えるびんより……」

 りばいさんとちがって、えるびんさんはおれのしらない「かんじ」をいっぱいつかったあんごうをしかけてきます。りばいさんはいつもあんごうがわかるようにしてくれるけれど、えるびんさんはちょっときづかいがたりないとおもいます。
 ちょっとわからないものもあったけど、たぶんきょう、りばいさんがかえってくるっていうことをいっているのだと思います。いわれなくたってちゃあんとおぼえているけれど、あらためてきょうかえってくるのだと思うとかおがニマニマしてしまいました。
 いすにとびのって、ごはんをたべます。いただきますってひさしぶりに、げんきよくいえました。きのうまではちょっと、いってもりばいさんが「うん」ってうなずいてくれないのがさみしかったのでいうのをやめていたんです。でもきょうは、れんしゅうしないといけないから!
 なんじにかえってくるんでしょうか。おみやげはなにをかってきてくれるのでしょう。わくわくがとまらなくて、ごはんがちょっとあまくかんじます。だれもいないのにひとりでわらっていて、たぶんおれはいますごく「へんなひと」になっているとおもうけれど、でもでもうれしいのだからしかたがないのです。
 おにぎりに、きゅうりのつけものとやさいいため。あとれいぞうこのなかにきのうののこりのサラダがあったので、それもむしゃむしゃとたべました。そうしたらすっかりおなかがいっぱいになって、おれはマットの上にねころがりながら、おえかきセットをとりだします。
 りばいさんがかってくれた、おおきなすけっちぶっくとクレヨンです。クレヨンはすごくいっぱいいろがあるごーかなクレヨンで、とくにおれはあおがおきにいり。りばいさんはくろがすきだといっていました。まぁおれはりばいさんがいちばんすきですけどね。
 いつもはきょじんのおえかきをしています。かいぶつもいいですが、やっぱりおれはきょじんのほうがこう、くちくしてやるーってきぶんになるんです。あときょじんをたおすのはりばいさんです。りばいさんはおれのヒーローなんです。でもそういうとどうしてかおこられるから、これはさいきんではおれだけのひみつ。おえかきしたかみはわすれずにゴミばこにすてておきます。
(きょうはかっこいいりばいさんをかこう)
 りばいさんの目はちょっとおもたそうで、いつもちょっとねむそう。ねむいんですかってきくとなんでだ? っていわれます。しつもんをしつもんでかえすのはずるいです。
 りばいさんはえるびんさんよりもずっとちいさいけど、おんぶしてもらったときのせなかは、思ったよりもおおきいって、みんなこれしらないでしょう? えれんだけのひみつです。あとあたまをぽんぽんしてくれるても、おれのなんかよりずっとおおきくつめたくて、すごくやさしい。りばいさんがあたまをナデナデしてくれると、おれのしんぞうのまんなかのところがぽっとあっつくなって、りばいさんにとびついてしまいたいほど「りばいさんすきだ」って思います。でもとびつくとポンポンナデナデはおわってしまうので、おれはじっとがまんをするしかないのです。しあわせだけど、むずかしいです。
(りばいさんと、おれと、それからトマト!)
 りばいさんがしゅっちょーにいくまえに、トマトがそだったらいっしょにくおうな、といっていました。サラダにしてくうのがいちばんいいといっていて、おれもそれがいいと思いました。りばいさんとおれでお水をあげておおきくしたトマトさん。しあわせのあじがするにきまっています!
 おれはあかいクレヨンをみぎてににぎって、ぐりぐりとトマトさんをかきました。りばいさんのおくちと、おれのくちにひとつづつ。いや、ひとつといわずになんこでも!
 おれたちは、おいしそうにニコニコしています。
(……ねむい)
 なんていってもおひさまはぽかぽか、おなかはいっぱいしあわせだから。とけいはよくわからないけれど、そろそろおひるねのじかんだと思うのでちょっとねます。おやすみなさい。











 えれんのトマトかんさつにっき よっかめ おひるすぎ

 おひるねからおきるとだいじけんがおきていました。

 おれはたぶん、いちじかんもねていないとおもうので。いや、とけいはわからないのですけれど、でもおれはほんとに、ぜんぜんねてないとおもうのです。
 でもそんなみじかいあいだに――どうしてしまったんですかトマトさん!?

 おれはあったかいくうきがへやのなかにはいってしまうのなんかきにせずに、口をぽかんとしてトマトさんをみつめていました。たしかにさっき、お水をあげたときちょっとだけげんきがなかったようなきもしたけれど、でもでもこんなに「びょうにん」じゃなかったはずです。こんなにふにゃふにゃへろへろしてなかったはずなのです。
 おかしい。おれはちゃんとごはんをあげました。ふつうごはんをたべたら、げんきになるものじゃないんですかね。ということはやっぱり、このトマトさんはびょうきにかかってしまっているのかもしれません。
 かんがえるんだおれ。びょうきのひとにはどうしたらいいのか!
 おれはなにかのテレビでみた、どこかのめいたんていみたいにあごの下にてをやって、「ううむ」とひとつうなりました。こうするといいことがひらめくようなきがしてそうしたのですが、なかなかむずかしいです。でもこのままなにもしないのは、びょうきのひとをほっとくのとおなじことになります。そんなことはできません。
 おれがびょうきのときは、どうしていたんでしょうか。ねているとなおるけれど、トマトさんはねることはできないし、おふとんをかけたらきっとあついです。おれがゴホゴホしてるとりばいさんはスプーンでゼリーをたべさせてくれますが、トマトさんには口がありません。それよりもなによりもトマトさんは「しょくぶつ」です。おれもそこまでばかではないのでにんげんとおなじでないことくらいはわかっています。だからむずかしいのですよ。
 どうしよう、ときょろきょろまわりをみわたしていると、たなの上に土をみつけました。

――りばいさん、これなんですか?
――これはその……何か特別な土だ
――なにがどうとくべつなんですか?
――あー…なんつーかその……栄養のある土って言うんだか
――えいよう?
――それもわかんねーか。あーあれだ。俺がよく飲んでるビンのやつあるだろ? 小瓶の。
――りぽなんとかですか! あれくさいですよね!
――まぁ、くせえのは元気になるために我慢する感じだな。あれと一緒だ。普通のご飯とは違うけど、飲むと元気になるだろ
――おれはのんだことありませんが!
――いや、俺の話な。元気になってるだろ?
――そうですか?

 ……そのしゅんかん、これだと思いました。なまえもおぼえていないし、かんじはよめないし、でもかくじつにこれです。あのときりばいさんが「げんきになるためのもの」といったのは!
 おれはせんたくばさみでとまっていたそのふくろをあけ、なかみをてですくってトマトさんの土にかけました。でもかけるだけだとたぶんききめがわるいんじゃないかって思って、もともとはいっていた土とまぜあわせることにしました。げんきになれ、げんきになれって、おまじないをかけながら……
 てがよごれてしまったけど、そんなことよりもトマトさんがげんきになってくれるのかがしんぱいでしんぱいで、てをあらいにいっているあいだになにかあったらたいへんだって、おれはそのばでしゃがみこみました。げんきになるまでここをうごかないでずっとかんびょうするぞっていう、いきごみがありました。できればはやくげんきになってもらわないとこまります。だってこんなトマトさんのすがた、りばいさんにみられなんかしたら――
 そう思ってまた土をかけました。しんぞうがドキドキとうるさくて、はなのおくがツンといたくて。


     × × ×


 今日帰ると言ったくせに、何時に帰ると言わなかったことを思い出した。正直な話四日も放置しておいて薄情は今更だと言われるかもしれないが、それでも心配なのは確かだ。毎日エルヴィンから様子を聞いてはいたが、やはりこの目で見るまでは安心できやしない。こんなことを言ったら極度の親バカだと言われるだろうし、エルヴィンに至っては笑い物にするに違いない。だから極力表には出さないようにしているが、なんだかんだで内心はいつでも心配の大嵐でうるさいのが現状だ。
 でもそういえばエレンの方は傍から見ても誰から見てもわかるくらいリヴァイにべったりなのだから、育児的には成功しているのだろう。親(正確なことを言えば俺は直接の親ではないのだが、細かいことは言及しないでおく)が結構どうしようもなくても、子供は勝手に育つものだ。逞しい限りである。
 そんなべったりなエレンのことだから、きっと何時に帰ってくるのか気になっていることだろう。そう考えて新幹線に乗る間際にエルヴィンに確認したところ、よく寝ていたから起こさなかったと言っていた。ついでにメモに時間を書き忘れた、とも。

――お前、仕事できるくせになんでそう日常的には忘れっぽいんだ?
――すまなかったよリヴァイ。実は今朝は少し遅刻をしていてね。メモをじっくり考えて書く時間がなかったんだ
――……遅刻? 随分珍しいじゃねえか。夜遅くまで仕事でもしてたのか?
――いや? ちょっとエレンと夜遅くまで起きていてね。それで……
――オイコラてめえ、うちのエレンに何しやがったんだ今すぐ削ぎ落としに行くぞ
――君と一緒にしないでくれるかなリヴァイ?

 エレンが寝付けないから映画を見ていたんだよとエルヴィンはそう言って笑っていた。リヴァイが明日帰ってくると言って、そわそわして寝なかったのだという。それを聞いて恥ずかしながら赤面した。俺も大概だ。
 それと昼間にエレンから電話があった旨を聞いたのだが、案外きちんとトマトの栽培をやっているようだった。血は繋がっていないにしても性格というものは似るらしく、エレンもめんどくさがりな面がある。だから三日と持たずに水をやらなくなるのではないか――そう思ってエルヴィンに一応言っておいたのだが、今思えばあいつはそういう時に使えない奴だった。本当に仕事以外スイッチの切れている時は使い物にならない。

 しかたねえな、と、若干緩む頬のままエレンに電話をした。電話の取り方は教えたし、登録してあるから画面にリヴァイの名前が映っているはずだ。なのに何故か、出ない。
(どういうことだ……?)
 電話の取り方を忘れてしまったのか? いや、しかし昨日電話に出たという話があったから、さすがのエレンもそんな短期間に忘れやしないだろう。だとしたら寝ているのだろうか。それならそれでいいのだが、――こんな時間に?
 時刻は六時十九分。お昼寝というには時間が外れすぎている。なんだかんだでエレンの体内時計がきっちりとしていることを知っているリヴァイとしては、引っかかるのが当然であった。
 いや、まさか……とは思うけれど、実際に何かあったのだとしたら――?
 振り返って電子掲示板を確認する。――しながら、もう一度エレンにかける。出ない。エルヴィンにかける。留守電。
 どうなっているんだと焦燥感が募る。けれども交通機関の定められた時刻とその距離にはどうしたって逆らえないものだから。


     × × ×


 鍵はきちんと閉まっていた。玄関に荒れた様子もなければ、エレンの靴だってちゃんとある。名前を呼ぶと返事がないが、廊下を抜けリビングに出ればその小さな背中がぽつんとそこにうずくまっていた。
「エレン……」
 胸を撫で下ろす。内心正直かなり焦っていた、というか、この状況で焦らない親なんていないだろう。
 とにもかくにも無事だったのだからよかった。そうは思うけれど、何故か呼びかけても返事の一つもしない。別に寝ているというわけではないのだ。あと、死んでいるとか、そんな縁起の悪いこともありえない。呼びかければきちんと反応は示すのだ。びくりと肩を跳ねる。
 部屋の中は薄暗い。いつもつけている明りを、多分数か所つけ忘れているのだ。リヴァイがそのスイッチを片っ端からつけながらエレンの方へと足を進めていくと、床になにやらエレンが落書きしたであろう紙が落ちているのに気が付いた。
(なんだ? ……怖ぇな……)
 この年の男子の落書きなんて、まぁ何を描いているのかがギリギリわかるレベルだろう。人が二人、多分そうだ。じっと見れば「えれン」「りばいさん」と読めることから、自分たちの似顔絵らしいことがわかったわけだが、何故だか顔だと思われる部位に赤く塗りつぶされた丸が何個がくっついている。
 真意ははっきりとは分からないが、吐血しているようにしか見えないそれからそっと目を離して、リヴァイはまた一歩を踏み出した。
「……エレン?」
 さすがに不審に思って近づくと、その小さくて細い肩が何やらブルブルと震えていた。リヴァイは目を瞬かせて、半開きの口を怪訝に歪める。
 くるりと振り返ったエレンの目に、うるうると透明な何かが満ちている。かと思ったら目が合った瞬間に溢れ出し、目の端からぼろぼろと零れていった。下唇を噛んだエレンの顔が段々とぐしゃぐしゃになっていき、呆気に取られていたリヴァイを目の前にエレンはついに両手で顔を覆いながら立ち上がろうとして、けれども出来ずにまたしゃがみこんだ。
「ごっ、ごめんな……さい……っ」
 謝罪が一回。何のことだろうと首を捻る。エレンの泣く姿は幾度となく見てきたけれど、この泣き方はちょっと久しぶりだった。前に飼っていたハムスターの「りばいさん」(その名前はやめておけと言ったのにエレンがどうしてもと言って聞かなかった)が、脱走していなくなってしまった時と同じ顔をしている。悲壮感あふれるというか、悔しさと寂しさとやるせなさを混ぜ合わせたような、極めて静かな泣き方だ。
「おい、エレン。泣いてるだけじゃわかんねえだろ……」
「り、りばいさんっ、ごめっ、ごめんなさいっ」
「だから……」
 何度も謝罪を繰り返すことしかしないエレンに、言葉の続きを促すが、到底先に進む気配がない。どうしたものかと思いながらふとエレンの手を見て、リヴァイは目を見開いた。
「エレン……お前それ、どうした?」
「……あ、……こ、これは……」
 泥だらけ、なんてもんじゃない。外で砂遊びしたってそんなにはならないだろう。それくらい、エレンの手には泥が付着している。それで顔を覆うものだから頬や額にも土がついて、酷いことになっていた。
「とりあえず顔は擦るな。ほら、立てって。んで手、洗え」
 話はそれからだ。言いながらリヴァイがエレンの細くて短い腕を掴んだ。そのまま流しまで連れて行き手を洗わせると、タオルでその手と顔を拭きながらふと窓の方に目をやる。
「これ、もしかしてあのトマトの土か? 掘り返しでもしたのかよ」
「……いえ、その……」
「つーか窓開いてんじゃねーか。虫入ってくるだろ閉めろよ」
「…………っ!」
 タオルを置いて、窓を閉めに行こうと足を踏み出したその瞬間だった。まさかエレンの手だとは思えない強さの力に、ぐいと後ろ手を引かれて驚く。
「っだ、だめです、りばいさん!」
「は? なにが」
「そっちにいっちゃいやなんです!」
「あ? どういうことだよ。窓閉めないでどうすんだ」
「お、おれがしめます! おれがしめますから! りばいさんはここからうごかないでください!」
 涙も引っ込んでひたすら焦ったようにエレンが言う。――いかにも怪しいが、ここで真っ向勝負をするほど子供ではない。リヴァイは適当に「そうかじゃあ頼む」と、ほっとしたように窓を閉めに行くエレンの後ろ頭をじっと見つめ、一歩、二歩と歩き出すエレンが窓に手をかけた刹那――音もなくその背後まで近付いて行った。
「……なるほど……」
「…………!!」
 目の下の方で、今まさに窓を閉めようとしていたエレンの肩が大きく跳ねたのが見えた。こいつはどうやら、本気で俺がおとなしく待っていると思っていたらしい。呆れると同時にその光景がエレンの行動の真意をよく表していて、リヴァイは呆れたような、それでいて安堵したような溜息を漏らした。
(なにをどうしたらこうなるんだか……)
 ベランダに、腐葉土の開封済みパッケージと、リヴァイのお気に入りメーカーのコーヒー缶、それから鉢植えのトマト。見ればぐにゃりと元気なく萎れてしまっている。数日前自分が出張に出るときにカメラに残したそれとは打って変わって瑞々しさが消え失せて、どこぞの牧草とも区別がつかないレベルにまで達していると言っても過言ではないだろう。コーヒー缶の関連性はわからないが、鉢植えの土が妙にふかふかとしていること、トマトがやや傾いていること、それからさっきのエレンの泥だらけの手が頭の中でぽつぽつと浮かんで、それらがカッチリと組み合わさった。
「……みっかめまでは、できてたのに」
 ぽつり。あれこれと観察していたリヴァイの腰のあたりから、弱々しいそんな声が聞こえてきた。
「おれが……おれがわるいんです」
 エレンの手が、リヴァイのシャツの裾を掴もうとこちらに伸びて、それから何を思ったのか引っ込んだ。空を掻いて手持無沙汰に握りこんで、それからここ数日、リヴァイが出張に行っていた時に起こった出来事をぽつりぽつりとその小さな口から絞り出し始めた。
 最初はきちんと朝に水をやっていたこと、そしてある日殺虫スプレーをかけてしまったこと、今日は寝坊をしてしまって朝に水をやれなかったこと、だから昼に水をやったこと……それから元気がないからと腐葉土を追加したこと。
 それだけ情報が集まれば、トマトがこの短期間にここまで萎れる理由がよくわかった。リヴァイも別段植物に詳しいわけではないので定かではないが、昼間に水をやってはいけないことくらい、知っている。ちなみにエレンもそれは知っていたようだが、それがどうして駄目なのかまでは理解していなかったようだ。昼間――特に夏のこの熱い時期に水をやってしまっては、トマトからしたら完全に茹で風呂状態になること間違いなしだろう。それから腐葉土に関しても、そんな状態で投入されたら根腐れしかねない。しかも土を混ぜ返した跡があるから、おそらく根も切れてしまっているところが多々あるだろう。総じて、とりあえずこのトマトが助かる可能性が限りなくゼロに近いことが分かった。
 黙っているリヴァイが、怒っていると思っているのだろう。エレンはしばらくこちらの様子を窺っていたが、堪え切れずにまた泣きだした。それに目を落としながら、リヴァイはそっと右手を持ち上げる。
 ぽん、ぽん、とその小さな頭を軽く手のひらで叩いてから、そっとその色素の薄い髪を撫でた。すると泣きじゃくる声が弱まって、それから困惑したような目がこちらをちらと覗き込んでくる。
「――ま、最初なんてこんなもんだろ」
 そっと、しゃがみこんだ。うちには縁側なんて大層なものはないが、リビングとベランダの境界線――窓枠のあるそこに腰をかけると、立っているエレンの方が目線が高くなる。
「失敗は何とかのうんたらって、お前この前俺に偉そうに言ってたじゃねえか」
「……しっぱいはせいこうのもと?」
「あーうん、それだそれ」
 膝に肘を乗っけて、頬杖を突く。それからエレンを見やると、室内の明かりをうるうると内包する目元からまた雫が落ちてきた。
「あんま擦るなよ。腫れるだろ」
「う、う〜〜っ……!」
 目元を擦る手をどけようとしても、なかなか上手く行かない。火事場の馬鹿力? ――とはちょっと違うのかもしれないけれども。
「とりあえずまぁ……明日また、買いに行くか」
 その呟きに、「なにを?」と返ってくる。トマトに決まってると笑うと、エレンが困ったような、何とも言えないような表情を浮かべた。
「んでもう一回、俺と育てればいいだろ。リベンジだリベンジ」
 子供一人で栽培させようだなんて、まずそこからが間違いで。それに、これは二人で育てようという話だったのだから。
 それでどうだ? と交渉をエレンに投げかける。今にも零れおちそうな大きなアーモンド型の目は、さっき手で拭ったおかげで涙は溜まっていないが、別の意味のキラキラがそこにはあった。
「りべんじ、ですか?」
「そうだそうだ。……悪くないだろ?」
「……わるくないです!」
 一件落着、そんなことを体現するように、リヴァイは自分の膝をぽんと景気よく叩いた。仕切り直しみたいに窓を閉め、それから更にカーテンを閉めて。

「さて、エレン。ご飯にしようと思うんだがその前に」
「はいっ」
「俺に何か、言うことは?」
 買ってきた土産の袋に手をかけながらそう問うと、少し固まったエレンが何か思いついたような顔をして、「ごめんなさい」とまた小さく謝ってきた。袋を漁って土産を取りだしたリヴァイが、小さめの箱を手に乗せエレンの前へとしゃがみこみ言う。
「謝るのはもういい。……俺が帰ってきた時に言う言葉があっただろう?」
 ほら、と腕を広げてから、はっと口を半開きにしたエレンにそっと微笑む。実際それが微笑めていたかどうかはまた、別の問題として。

「……おっ、おかえりなさいりばいさん!」
「……よくできました」





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