人魚姫パロ02






どうしたって届かない恋がある。














「真太郎」
 追い風に混じってそんな声がした。船の手すりに手をついていた緑間は、そっとそれを振り返る。
「真太郎」
 もう一度呼ぶ、それは赤司の声だった。海にぽつんと浮かぶその容姿に多少の違和感を覚え、緑間は歩み寄りながら首を傾げる。
「赤司? …どうしたのだよ、その髪は」
 前髪が、やけに短くなっている。確か眉が隠れるくらいの長さはあったはずだ。それが今では、その凛々しい眉が月明かりに照らされてしっかりと見えていた。
「…それは、まぁ、気にするな。そんなことより、お前の話だ」
 波に煽られる、赤司の肌が白い。いつになく真剣な表情の彼を見下ろしていると、少し切り出しにくそうに赤司が口を開いた。
「お前……あの魔女が言っていた言葉を覚えているか?」
「言葉?」
「ああ。お前が――お前が恋い慕っている、あの男が他の娘と結婚することがあったならば、お前は海の泡となって消えると言っていただろう」
 ちら、と赤司がこちらに視線を寄越す。緑間はそれにあっさりと頷いた。
「ああ、そうだな」
「そうだなって………わかっているのか? お前、このままだと……」
「いいのだよ」
 目を伏せて、首を小さく横に振る。赤司が何か言い返そうと息を吸い込んだようだったが、目を合わせない緑間を見てそっと口を噤んだ。

 この好意が、伝わる伝わらないの問題ではない。最初からどうしようもなかったのだ。
 性別がどうであるとか、もはやそんな話でもなくて、もっと根本的に生物的な観点からして、そこに人間と人魚の恋愛は生まれる余地がなかったのだ。
 わかっていたのに認めなかった。毎日毎日「もしかしたら」を繰り返して、かすかな希望を胸にそっと彼を想っていた。
 叶わないだなんて、そんなの認めたくなかったから。

 愛があれば何でもできる、だとか、世界は愛で、だとか、そんなのは本当に綺麗事なのだなと改めて思う。
 どうしたって埋められないものがそこにある。目に見えて、埋まらない溝が。


「……真太郎、これを」
 しばらく波の音しか響かなかった鼓膜を、赤司の声が揺らす。
 俯いて黙り込んでいた緑間がふと顔を上げると、彼の手には何やら物騒な物が握り込まれていた。
 ナイフ? 緑間がそう呟くと、海に上半身を浮かべた赤司が大きく頷いた。
「これであいつを刺すんだ」
 解き放たれたそんな言葉に、緑間は目を見開いた。それから数回瞬きをして、やっとその意味を掴む。
「刺す…? なぜ、なんのために」
「お前がこれで奴を殺せば、お前は海の泡にならずに済むのだと魔女が言っていた」
「これで…?」
 ほら、とナイフが手渡される。月明かりを直線的に跳ね返すそのシルバーは酷く鋭利で、切れ味の良さそうなものだというのが見て取れた。

――刺せば。……刺せば、助かる。

 緑間は受け取ったナイフに目を落としたまま、じわりと眉をひそめた。

 刺せば助かる。刺さなければ助からない。
 殺せば生き延びる。殺さなければ死ぬ。
 単純な選択問題だ。ただし、生死をかけた、一生分の。

「…………戻っておいで」
 黒に染まる海から、そんな声がする。
「戻っておいで、真太郎。僕の元まで。…どう足掻いたって、魔法を使ったって、生物はそう簡単に変化するものじゃない。頭の良いお前なら、それくらいわかるだろう?」
 ちゃぷ、と波が立って、赤司が船の縁に手をかけた。しゃがみこんだ緑間がそれを見下ろすと、水に濡れた手がそっとこちらに伸びてきた。
 ひたり。それが頬に触れる。
「お前の居場所なら、ここにあるだろう。愛が欲しいなら、ここにある。いつだって僕はお前を想っていると、知っているだろう? 真太郎――」

 戻っておいで。

 酷く悲しそうな顔をしながら、赤司の手のひらがそっと顎のあたりまで滑る。
 そしてそのままするりとその指が唇に届いて、月夜に映えるオッドアイと視線が絡んだ。

「殺すんだ」

 静かに、まるで愛を囁くときのように、ただ静かに。
 ナイフを、握り込まされた。
 射抜くようなその目から、逃げられなくなりそうで。

 ザァッ、という風の音で、緑間はようやく瞬きをした。
 相も変わらずこちらを見つめ続けるその目からそっと視線を逸らして、それから俯き小さく首を振る。

「……何故だ」
 瞬きを忘れた赤司が、ぽつりと呟いた。
「何故だ、真太郎……。ただ、目を瞑ってこれを振り落とせばいいだけだぞ。何も難しいことなど無い。怖くなんてないから――」
「そういう問題ではない」
 遮った声が、酷く震える。
「行為自体に尻込みをしていると――確かにそう言えなくもないが、真意はそうではないのだよ。…考えてもみろ、赤司。己の手で愛する人を殺すんだぞ。お前はそれを厭わないと言い切れるのか」
「自分の命がかかっているんだ。もしそれで愛する人が生き残ったとしても、自分が生きなければその先その愛も無駄になる。それだったら愛した人の一生を、自分の手で終わらせてその人の全てを奪ってしまうのが最善の策だと僕は思う」
 迷いなく見つめ返してくるその目を、緑間は直視しなかった。
 相違を認められないのは、やはり自分が子供だからなのだろうか。
 生き延びてこその人生だが、ここで断つのは間違った選択か?

 伏せた瞼をぎゅっときつく瞑る。

「……やはり、お前と俺は違う」
 そうして小さく首を振った。
「俺はきっと弱い。だからあいつが――高尾がいなくなる未来を考えただけで、酷く胸が痛むのだ。認めよう、これがきっとお前が常日頃言っていた俺の『弱さ』なんだろう」
 ナイフをつき返す。けれどその手は制されてしまった。
「弱いならば……強くなればいい。僕の元へ戻っておいで。僕が居れば、お前は強くなれる。そうだろう? 今までだってそうやってきた」
「強さが全てではないと悟ったが故の結論だ。弱くてもそれでも、俺はあいつへの愛に生きたい」
 そのための生だ。そのための死だ。
 愛のない絶望の未来を生きるよりも、ずっとこちらの方が簡単だと思うのだ。
 だから。
「俺の愛は酷く重いが、でもそんなものも、時間に、海に溶けてしまうのだろう。それでいいのだよ。俺のこの気持ちは多分、そうやって幕引きされるのが最善だ」

 真太郎、と、赤司が名を呼ぶ声がした。
 けれど振り返りはしない。
 走り出した両足が、焼いたように熱かった。
 この足も、服も、全てはどうせ擬態の為の偽物だ。
 でもこの胸は違う。何にも擬態などしていない。嘘などひとつもないのだ。
 ただ、恋をしている。愛を知っている。

 そう、それだけが真理で。




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