人魚姫パロ01



頬に、触れるだけのキスをした。不安定に揺れる船内でも高尾はぐっすりと眠っており、それくらいでは起きる気配はない。

「…おやすみ、高尾」

――さようなら、とは言わなかった。いや、言えなかったというのが正しいのかもしれない。

緑間はその薄暗い寝室を足音を立てないように抜けだすと、明かりの落ちた廊下を駆け、潮風の吹く船尾へと走る。
途中でカランと金属製の音がしたが、おそらくナイフを取り落としてしまったのだろう。
使う用もないのだから、いいだろう。そんなことを考えている頭はぼうっと霞んでやけに熱を持っていた。
風が頬を撫でた瞬間、ヒヤリと冷たい感触があった。
何事かと手の甲で拭うと、そこが何やら濡れている。水に入ったわけでもないのに。
ああこれが、涙なのか。人間が体内から流す、海のようにしょっぱい水。
それで実感する。自分は人間になっているのだと。そう、正真正銘の――

「高尾」

おそらくまだあの寝室で眠っているだろう彼の名前を呼ぶ。
聞こえやしない。聞こえやしないのだ。声に出しているつもりでも、自分では声にしているつもりでも、全く。
もどかしかった。伝えられない思いがこの胸の中でくすぶって暴れ出して、叫びたくても叫びだせもしなくて。

びゅう、と吹いた風に向き直る。
船の行き先はどこだったか。
ああでももう俺には、そんなことは関係ない。どこへ行ったって、きっと結末は一緒だから。
いくらこの足で先へ進んだところで、俺の先にハッピーエンドはない。わかっている。そんなことわかっていたはずなのに。
夢を見てしまっていたのだ。ただ、きっとそれだけだった。

 最後にもう一度、名前を呼んでみる。やはり耳には鋭い風の音しか届かなくて、緑間は口の端を軽く持ち上げて文字通り声も無く笑った。
そしてぐらりと頭を後ろへ、広がる暗い青へと重力に任せ――

目を瞑った。体を包む冷たい感触が一瞬にして熱を持って、ああ体が溶けているのだと思った。

熱い、熱い。けれど不思議と恐怖はなかった。

閉じた瞼の裏にあの夏の日差しのような笑顔が焼きついて、それを思い出すうちに、ぷつりと張り詰めた意識の糸が切れた。




――冷たい海に溶けた恋のお話は、これでおしまい。


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