運命論は伝播する |
確かあの日は、夜遅くに高尾からのメールがあったのだ。 高校2年の冬休み。大晦日のことだった。 年を越えるということ自体に特に興味はなかったけれど、高尾が夜に連絡をすると言っていたから寝ないで待っていた。 そうして新年を迎える10分前に、その『連絡』とやらはシンプルな着信音と一緒にやってきた。 『新年になったら、言いたいことがある』 その文面と時計を見比べて、緑間は返信ボタンを押した。 用があるならさっさと言え、俺は早く寝たいのだよ――そう送ると、ケータイを閉じる間もなく電話がかかってきて。 『だめ! まだ寝ないで!』 「はぁ…? なんなのだよ全く。丁度いい、早く用件を言え」 『…いやいや、まだ駄目っつーか……あともうちょい待ってって。新年になったら多分言えるから!』 「10分くらいで何が変わる。いいからさっさと言え」 『いやいや全然ちげーから! 日付変わっか……おわっ』 「?」 スピーカーの向こうの高尾の、さらに後ろから音がする。 車のエンジン音のようなそれに耳を傾けていると、カーテンの向こうに赤いランプが見えた。 次いで、電話の先から聞こえるそれに酷似した音がして。 「高尾」 『は、はいっ!?』 「お前、今どこにいるんだ」 『ど、どこって……』 うろたえる高尾に、まさかと思って立ち上がり、カーテンを開けた。 するとそのまさかでケータイを耳に当てマフラーに埋もれた高尾と目があって驚く。 「……そんなところで何をしているのだよ?」 『あ、え、う……あの……』 ごめん! と、それだけ言って、ブツリと通話が途切れた。 わけがわからず呆然とする緑間を余所に、窓の外の高尾は耳からケータイを離し、それをたたむこともないままどこかへと駆け出す。 なにがどうなっているのか、なんてよく考えもせずにコートを引っ掴んだ。それから玄関で靴を引っ掛けて、何事だと心配する母の声にも答えずにただ高尾の後を追う。 高尾がおかしいだなんて、そんなことは日常茶飯事だから、気にすることでもないのかもしれなかった。 けれど何か――何かが引っかかる。電話を切る直前の高尾が酷く変な顔をしていたように思えて、緑間はその理由を聞かなくてはいけないような、そんな気がしていた。 「――ッ、高尾!」 最寄駅付近、線路沿いの閑散とした道に、緑間の張り上げた声が響く。 声をかけられた男は一瞬びくりと背中を強張らせたが、しかし振りかえらずに走り出した。 「待て、おいっ、なぜ逃げる! 高尾! 待て!」 「く、来んな! 緑間、来んなって……! やめ……っ、い、痛……!」 振り切ろうとする高尾の手首を、左手でしっかりと握り込んだ。高尾は最初こそ抵抗して振りほどこうともがいたが、やがて緑間のテーピングに目を落とし、それから観念したように静かになった。 ちら、とこちらを見上げて、それからまた重力に負けるみたいに視線が落ちて。 「なぜ逃げる。お前が用があると言っていたんだろう。違うか?」 手首を掴んだままそう訊ねると、俯いたままの高尾が小さく首を横に振った。 「……ち、違いません」 「じゃあ早く言え」 「それは……まだ、できない」 「は?」 「だってまだ、31日だろ」 緑間が首を傾げると、高尾が手の中のケータイを見せてくる。煌々と光ったその画面には確かに、12月31日午後11時58分と書いてある。 「それのなにがいけないのだよ」 「何って……それは……それ言っちゃうと、俺の用件になっちゃうから」 「わけがわからん」 「わかんなくっていいよ。…わかんなくていいからさ、…ごめん、もうちょっとだけ待っててよ」 俯き加減の高尾の声が、尻窄みに冬の空へと溶けた。 走ったからだろう、高尾の息が酷く荒れている。対する緑間はさほど息を荒げてはいないが、やはり高尾の速さに追い付くのに体力を使ったのは確かであった。 「たかが2分で何が変わる。いいから早くしろ。俺も暇ではないのだよ」 「だから全然違うんだって。いいからあと一分三十秒……」 はぁっ、と高尾が息をつく。そうして呼吸を整え、「おねがい」と小さく一言。 俯いた高尾のつむじが見えていた。表情が見えないので何とも言えないが、高尾は何故か酷く緊張してるようだ。一体どうしたというのか。今更緑間を前にして、何を。 ちらりと時計に目をやる。長針と短針が、あとひと目盛で12と重なる、そんな時間だった。 緑間は困惑しつつ高尾を見やって、けれどそれからすぐ横の線路へと視線を向ける。確か、12時丁度にこの駅を出る電車があったはずだ――そう思って線路の先を目で辿ると、少し遠くに小さな明かりが二つ見えた。 電車のヘッドライトであろうそれが、徐々に近づいて。線路を軋ませながら冬の空気を切り開き、風を巻き起こして颯爽と緑間の隣を通り抜けていく。 12時丁度発の、その電車が。 「……31日が終わったようだが」 ぽつり。緑間が零すと、高尾が小さく頷いた。 「……うん」 「それで? お前の用件というのはなんだ」 一分半前の会話を引き戻す。すると気まずそうに顔をひきつらせた高尾がやはり小さく答えた。 「つ、つまらないことなんだけど」 「……つまらないならば聞かないが」 「う、嘘。大切なこと」 待って、心の準備がまだ追いついてなくて。 そんなことを言って、高尾がまた黙り込む。 これでは埒が明かないのではないか。そうは思ったが、いつものように「もういい」と一蹴することはしなかった。 様子が、おかしいのだ。どう考えても。 手首を握りしめていた高尾が、そっとその手を離した。かと思えば今度はコートの袖を遠慮がちに摘む。 それに気を取られていたら、つい聞き逃しそうなほどに小さな、本当にかすかな声がした。 「…………すき、なんだ」 けれど聞き逃しはしなかった。 心臓が、ドックン、と一回。瞬きをするのも忘れて。 「好きなんだ、緑間。――俺ね、お前のことが好きなの」 コートの袖から伸びる筋張った高尾の手が、ぶるぶると震えていた。 確かに外は凍えるほどに寒いけれど、おそらくそれは気温のせいなどではないのだろう。 それきり黙ってしまった高尾の黒髪が、突き刺すような冷たさの風にはらりとほどける。 「…………俺は男だぞ」 沈黙を破ったのは、気の利かない緑間のそんな言葉だった。 俯いたままの高尾は一瞬だけ肩をびくりと強張らせたが、次いでかすかな笑いのまじった白い息を吐いた。 「知ってるよ。当たり前じゃん」 「お前は、男が好きなのか?」 「そ、そういうわけじゃねーよ! 『真ちゃん』が好きなんだっつーの!」 ガバッ、と顔をあげた高尾と視線がかち合う。その射抜くような目に一瞬怯んだが、先に目を逸らしたのは高尾の方だった。バツが悪そうに口の端をひきつらせ、緑間の肩の辺りに目を落とす。 そうして困ったように眉をひそめて。 「……やっぱ、つまんない話になっちまったな。ごめん」 一歩、高尾が後ずさる。 「帰ろっか。ごめんね、まじで。真ちゃんママ心配してるっしょ。こんな時間に外出るとか言って」 高尾――緑間が呼びかけるが、当の本人はそれが聞こえているのかいないのか、また一歩後ろへ足を進めて。 「高尾」 「俺の話はこれでおしまい。送ってくからさ……うわっ!」 もう一歩を踏み出して帰路につこうとする高尾の腕を、緑間は掴んでしまっていた。 しかも実際、掴んだだけではない。制した。「行くな」と、言葉には出さず、無言のまま。 「……なぁに真ちゃん。離してくれない?」 眉だけ困った風にハの字にしながら、高尾が笑う。 「断るのだよ」 「悪かったよ。変なこと言って。――そんな顔すんなよ」 ちらりと横目で見られ、自分はどんな表情をしているのか――よくはわからなかった。 「……考え込まなくていいよ。真ちゃんは何も考えなくていい。そーだな…忘れてくれたら、もっといいかな」 帰って寝て、夢だったって思っといてよ。俺も明日からは、ちゃんとするからさ。 相も変わらず目を合わせないまま、高尾は笑いをまじえてそんなことを言う。 それが妙に気に食わない。 口を開こうとする緑間の言葉を、全て遮って紡がせまいとするかのように、何度も何度も調子のよいことを。 ――ちゃんとするよ。俺は真ちゃんの友達で相棒で、ただそれだけだから。 苛立ち、というには酷く悲しみに近い感情が胸の奥で叫び声をあげていた。 もどかしくて引っ掻いてしまいたくなる。この手の中の骨ばった腕を。 けれど同時に、その寂しそうな背中に寄り添いたいとも思う。 この感情の名前を、緑間は知っていた。 知っているからこそ、高尾の言動を受け入れることなど出来る筈もなく。 ――そうやって最後まで話の決着をつけないことで、なかったことにするつもりなのか。 気を使って茶化して、いつだってお前は。 だからだ。だから余計に、どうしてもこの手を離さずにはいられない。 なかったことにされるのが、嫌だと思った。 「馬鹿を言うな」 胸が苦しいのがいけないのか。少し言葉が掠れてしまう。 「夢になどしないのだよ。こっちを向け、高尾」 名前を呼ぶと、おずおずと顔を上げる。こちらを見上げたその目には、困惑と驚きの色が滲んでいた。 見つめ返そうとすると逃げられる。仕方なしに、緑間は両手で高尾の頬を包むとくいっとそれを上に向けた。 「な、なに……なんで……」 「何故、言おうと思った?」 瞳の中をじっと見つめる。しばしその視線から逃げようとした高尾だったが、流石にこの至近距離で逃げられる筈もなく観念したように目をそっと伏せた。 「隠していたのだろう? ずっと」 年を越したというわりには、辺りは酷く静かで、困ったように眉をひそめる高尾の呼吸が全て耳に届きそうなほどだ。 暗闇の中、高尾の表情を知る術はオレンジの街灯に頼ることひとつだけだったが、それでは全然足りない。 いつだって本音を上手く隠してしまうのがこの男なのだ。こんな不鮮明な視界では見えるものも見えなくて当然―― そう思った矢先に、高尾の頬が酷く赤く染まるのが見えた。 目の前でふてくされたように視線を逸らし続けるその顔が、やっとのことで口を開く。 「……一番、良い時だと思ったんだよ。今日、この日、この時間が」 「――『良い』?」 言葉の意味が掴めず繰り返すと、また茶化すように軽く笑った高尾が続ける。 「うん。多分おれ、真ちゃんの占い信者っぷりが感染ったんだわ」 そう言うと、右手で持っていたケータイを操作し始めた。何が出てくるのかと緑間は一旦高尾から手を離してその様子を見守っていたが、しばし間があって高尾が画面をこちらに向けた。 少しかがんでそれを覗き見る。それは緑間が明日の朝に見ようと思っていた、今年の運勢を発表している占いページであった。 「11月21日生まれの運勢は、全体的には吉。けど恋愛運が大吉。しかも年内で一番運勢がいいのが……」 これ、とスクロールして見せたそれには、年間スケジュールのごとくカレンダーが表示されていて、高尾は『1月1日』の枠を指さす。 そこには何やら花丸マークがついていた。 「……こんなんキャラじゃねーんだけどさ」 パタン、とケータイを閉じた高尾がまた、口の端を持ち上げて笑う。 「笑ってくれていーよ。俺は多分、神に頼りたくなるくらい、お前とどうにかなりたかったんだ。…どうにかなってるのは俺の頭の方だったみたいだけど」 ポケットに手を突っ込んで、高尾がそう言ってまた茶化すものだから。 何かが頭の中で切れた音がしたのと、高尾の胸倉を掴んでいたのは、おそらく同時だった。 至近距離に引き寄せられた高尾は目をぱっちりと開けたまま瞬きも無くこちらを凝視して、緑間はその目を見るのが随分と久しぶりだななんて、一瞬そんなことを考える。 「答えをくれてやるのだよ」 言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、緑間は高尾の上へと顔を伏せた。 酷く不安定な体勢のせいで、唇をめがけたのに少し外れてしまう。もう一度、と同じように繰り返して、今度はちゃんとキスが出来た。 触れるだけの、稚拙なキスだった。なにぶん経験がないために見よう見まねであったが、おそらくこれで合っていると思う。 様子を窺おうと顔を離して高尾の目を見ると、そこは先程胸倉を掴んだその瞬間と何も変わらず見開かれていて、緑間は若干うろたえた。 「目……目は、閉じろ。馬鹿者」 「あ、う……うん。ごめんちょっと、びっくりして」 やっとのことで瞬きをした高尾が、今のって、キス? だなんてそんな質問をしてくるものだから、それ以外に何があるのだよと顔を背けた。 今更ながらの気まずさに口を噤むと、酷く沈黙が耳についた。静かな筈なのに、むしろ何か煩い気さえしてくる。 何か言え――我慢ならずにそう口を開こうとしたその口が、振り向きざまに一秒、塞がれて驚く。 頬を両手で包まれて、冬の夜空に溶けるようなじんわりとした口付けをされた。 「……やっぱあの占いって当たるんだな」 唇を離した高尾が、酷く嬉しそうな顔でそんなことを言う。 そうして白い息を一つ吐いて抱きついてきた冷たい体を、両手でぎゅっと抱き返した。 「――馬鹿を言うな。お前が人事を尽くした結果なのだよ」 |
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