どうかこのまま、世界の果てまで |
占いは信じるけれど、正直作り話は本気にしない性分だ。 おとぎ話、SF、フィクション。それらのどれもがそれらなりの面白さを持っているとは考える。 けれど所詮は空想で塗り固められた夢物語なのだ。 現実に存在はしない。それが面白さを一層掻き立てるのだと、これは誰の説であったか。 超能力だって同じ類の話だ。 時間の操作ができるだとか、人の気持ちを読めるだとか、そんなものは存在しないと信じているからこそ魅力がある。 だからあってはいけないのだ。 たとえば自分の体にある日突然変化が起きて、奇怪なことが起こるだとか。 夢の中以外の現実で、そんなことは起こってはいけないはずだ。それなのに。 その日のおは朝占いの蟹座は1位。 信じられないことが起こるかも? と、はしゃいだ調子の声がスピーカーから聞こえていたことを覚えている。 ―――――――――― チリ、と右目の奥が微かに痛んだのは、早朝、リヤカーを連結させた自転車が遠く小さく見えた時のことだ。 朝日が目に染みたのか。そんなことを考えながら緑間は右手を瞼の上にそっと乗せる。 秋などとうの昔に過ぎ去ってしまっていたようだった。朝はマフラーをしなければ耐えられないくらいに冷え込み、指の方もかじかんで動かなくなってしまうことが多い。常に人事を尽くす身としては、まだ手袋には早い季節だと言われようが、そんなことで冬はどうする気なのかと言われようが気にしない。 ただひとつ宮地にとりあえずリヤカーで登校するのをやめたらいいのではないかと指摘されたことには少し考えさせられたが、それでも外に出ているという事実は変わらないだろう。寒いものは寒いのだ。だからそれは継続すると高尾に宣言したら、「真ちゃんって頭いいんだけどたまに馬鹿だよな」とどこかで聞いたことのあることを言われた。 「おはよー真ちゃん」 ガラガラと音を立てるそれを引きながら、高尾が欠伸混じりの挨拶をした。 夜更かしでもしていたのか。うっすらと目の下にクマがあるようだが。 「んじゃまー、今日もいっちょじゃんけんといきますかー。今日こそは勝つのだよっ」 「……遅い。馬鹿なことを言ってないでさっさと漕げ。あと真似をするな」 「ごめんごめん。つかちっと遅刻しただけじゃん。んな怒るなって」 おどけてみせる高尾の顔はやはり眠たそうだった。そういえば今朝確認した高尾からのメールは、午前一時あたりに送信されたものだった気がする。朝練で四時起きの人間とは思えない行動だ。 「『ちょっと』? 五分がちょっとの遅刻だというのか? お前には登校時における数分の大切さを叩き込まねばならぬようだな」 メガネのレンズ越しにギロリと視線を投げると、特に反省の色が見えない高尾がへらっと口角をあげる。 「ごめんってばー。これで機嫌直してよ、ほら」 ひょい、と高尾が何かを投げて寄こす。不意打ちだったけれど、日頃から高尾のパスを取りこぼしたことのない緑間だ。まさかそれについて行けないわけもなく、短い筒状のそれをしっかりとキャッチした。 「『あったか〜い』のメインシーズンになるなー。もうどこにも『つめた〜い』はなかったわ」 目を眇め、口の端を持ち上げた高尾が間延びした声を出す。 視線を落とせば、手の中でじんわりと熱いそれが目に入った。それが何であるかは、言うまでもないだろう。 そこでふと昨日のことを思い出す。 部活帰りに高尾におしるこを買いに行かせたのだが、どうやら学内の自動販売機のそれが売り切れであったらしい。冬に差し掛かり皆が温かいものを求める季節になったからか、それとも単に業者が補充を忘れていただけの話か。 なんにせよ手に入らなかったごめんねと申し訳なさそうに眉を寄せる高尾に、ならばコンビニに寄れと指図した。コンビニならばさすがに売っているだろう。そう思ったのも束の間、学校のそれと同じ理由か否かは知らないが、棚のどこにもおしるこは存在していなかった。 これにはさすがの高尾も笑うではなく難しい顔をしていた。 なんだろ真ちゃん、おしるこブームとか来ちゃった感じなのかな。またあるあるとかのせい? 困っちゃったね。コンビニはしごする? 部活帰りに直帰せず寄り道をすること自体が珍しいのだ。これ以上どこかに寄ったら帰りが遅くなってしまう。そう思って緑間は首を横に振った。いや、家にストックがあるから、と。 その日のおは朝の順位は最下位だったのだ。だからそれくらいの災難があったところで予想の範囲内である。しかもラッキーアイテムの補正もいつもより人事を尽くし切れていない気がしていた。だから仕方のないこと―― けれどまさか家のストックまで切れているとは思いもしなかったのだけれど。 そこまで考えを巡らせたところで、高尾の視線に気が付いた。 「なに、急に黙ってどーした? あ、わかった。真ちゃんもしかして感動しちゃってる感じっしょ? 和成くんまじハイスペックーとか思っちゃってるんしょ?」 「……そんなわけがないだろう馬鹿め」 「またまたぁ。照れなくてもいいんだぜ?」 覗き込んでくる高尾の褒めてと言わんばかりの顔に、まさか賞賛をくれてやるはずもなく。 「何を勘違いしているのかわからんが、お前がおしるこを買ってくるのなんて日常茶飯事だろう。何も感動することなどない」 「昨日のことがあってこそのだろ? まーいーけど。従順で健気な高尾ちゃんになんかご褒美とかないの?」 ねえねえ、と顔を近づけてくる。自分で切り出すあたりが高尾らしいというか――それとも緑間の性格を知ってか知らずか。 「言った時にすぐ持ってこれていないのだから、褒めることなど何もない。それよりはやくリヤカーを出すのだよ。遅刻してしまう。ただでさえお前のせいで遅くなっているというのに」 つい、と顔を逸らす。その反応に一瞬気に食わない表情をした高尾だが、これもまたいつものことだ。溜息混じりに頭を掻いて、気を取り直して口を開く。 「あーへいへい。りょーかいっと。んじゃ今日も行きますか! じゃーんけーん…」 「お前が漕ぐのだと言っているだろう」 「ぽ…!? えっ!? なんで!」 「寒空の下5分も俺を待たせた罰なのだよ」 ちょっと待てよだからそれは、とか、不平等だ、とかあれこれと騒ぎ立てる高尾を無視して、緑間は目の前の四角く大きな荷台に足をかけた。 年の割にも人としても大きなその体を木製のリヤカーに預ければ、ギシリといやな悲鳴を上げるのはまぁ、仕方のないことで。 壊れたら高尾が直すだろう――そんなことを考えているうちに、観念した高尾が自転車のペダルを踏み込んだようだった。 高尾の乗る自転車がキィと鳴く。それからワンテンポおいて、リヤカーの車輪が呼応するように軋んだ音をたてた。 「これだからエース様はなあ…。いや追いかけがいがあるんだけどさ」 「何の話だ」 「いやー? べっつにー?」 「なんでもないならさっさと漕ぐのだよ。本当に遅刻してしまう」 「へいへい俺が悪うございましたー!」 「うるさい近所迷惑だ」 立ち漕ぎのまま声を大きくした高尾に注意する。それにも気の抜けた謝罪が返ってくるだけだった。 ―――――――――― 学校へ向かう信号は、両手で数え切れる程度だ。それに引っかかった際毎回じゃんけんが行われるわけだが、今日の高尾は振り返らずにそのまま突っ切っていく。 校門まであと何個目の信号だったか。 あともう少しでおしるこを飲みきる。そんなタイミングだったと記憶している。 「…………?」 一瞬、目にゴミが入ったのだと、そう思った。 右目に違和感がある。痛むというほどではないが、何かが眼の奥のほうで疼くような、そんな感覚があって。 (睫毛か……?) おしるこの缶を右手に移し、そろりと左手を持ち上げる。しかしテーピングを巻いた指では眼球が傷ついてしまうかもしれない。そう思い直し、また持ち替えてから右手の指でそっと目をこすった。 瞼の上からぐしぐしと擦る。するとチリリと鋭い痛みが走った。ゴミが入っているのだから当たり前だろう。大元を解決しなければどうしようもない。 「高尾、鏡か何かを持っていないか」 「…へ? なに真ちゃん、いきなりどったの?」 後ろを振り返ることもせず、自転車の高尾が質問を返してきた。 「いや、目にゴミが入ったみたいなのだよ」 「え、大丈夫? 取れる? つか俺さすがに鏡は持ってねーや」 「そうか。ならば仕方ない。目薬をさすことにするのだよ」 「あ、目薬持ってんだ。ならよかった。あ、チャリ止める?」 「必要ない。遅刻する」 カバンの中を漁りながらそう無愛想な相槌を打つ。素っ気ない言い方に対し慣れに慣れきった高尾は気にも留めずにペダルを踏み続けた。 指先の感覚で探り当てた目薬は、染みないタイプのものだ。以前睫毛が入ってしまった時に高尾が近くの薬局で調達してきたのだったと記憶している。それから数回使用しているが―― 眼鏡を外した状態で、点眼した目を何度も何度も瞬かせる。 しかし気のせいだろうか。何か物が入ってるような違和感はなくなったけれど、今度は眼球の奥が痛い。 目薬の効果か。いや、違う。そうではないようで。 「取れたー?」 「…わからない。けれど放っておけば治るかもしれないのだよ」 目の痛みなど、実際よくあること。気にするほどのことではないと首を振った。 寝不足じゃないのと高尾が言うので、それはお前だろうと返したら、何故かきょとんとした顔をされた。 ―――――――――― 「宮地! パス回せ!」 「おいコラ高尾! お前パスミス何回目だふざけんな殺すぞ!」 「すんません!」 「すんませんで済んだらケーサツいらねーんだよ」 「ええ…小学生っすか…」 「よーし木村、パイナップル持ってこい」 「なんでっすか!」 「フツーにむかついた轢く」 「パイナップルじゃなかったんすか!?」 ドリブル音、それからスキール音に混ざって、朝一だというのにもかかわらず高尾と宮地は通常運転だ。 相変わらず口数が多い。というか、煩い。 周りが静かであるから特に目立つ――というのは、朝食を戻しかねないほどのこの過酷な練習内容で、そんな軽口を叩いてられるのは高尾くらいで、それにいちいち反応していられる元気があるのが宮地くらい、という意味だ。 もちろん緑間や大坪、木村だってそれくらいの余裕はあるけれど、ただ、相手にしないだけで。 しかしながら今日の緑間の口数が少ないのは、それのせいだけではなかった。 チリチリ。ズキズキ。ガンガン。 時が経つにつれて今朝登校中に感じた痛みが強くなっているようなのだ。 目の奥が疼くというのか。異物感はないけれど、まるでそこで何かが呼吸をしているような、心臓がそこにあるような――妙な気持ち悪さがあった。 体調管理も尽くせる人事の一つである。だからその辺に関しても抜かりなく尽くす緑間にとって、こんな事態に陥ることが正直初めてのことであり、戸惑いがなかったと言えば嘘になる。 だからといって練習中にそちらにばかり意識が行ってしまうのは―― 「真ちゃん!」 ――危険極まりないことだと、わかっていたはずなのに。 朝練も終盤に差し掛かったころのことだった。ボールから目を離してしまったその一瞬、耳を貫いたのは叫ぶような、焦りの乗った高尾の声。次いでやってきたのは痛みだった。目の痛みなんかよりももっと衝撃の強い――そう、高尾の正確で直線的なパスが、本来ならば受け取っているだろう腰のあたりに遠慮なくぶち当たったのだ。 そんなくらいでよろめく緑間ではないはずだ。けれどその一瞬――オレンジ色のボールを視認したその一瞬に、視界がぐにゃりと世界を歪めたから。 「――緑間!」 「真ちゃん!」 二人分の声とスキール音が、少し遠くで重なるのが聞こえた。 キュッキュッ、と忙しなく近づいてくるその音で、他にも数人こちらに駆け寄ってくるのがわかる。 おいどうした大丈夫かと、頭上から降ってくるこの声は宮地のものだ。目を押さえて膝をつく緑間はその姿を確認できはしなかったが、その声には不安げな色が滲んでいるように思えた。 「真ちゃん! ごめん! 大丈夫!? 思いっきりいったよね!? 怪我!? 目!? 目ぶつけたの!?」 次いでやってきたのは必死な高尾の声だ。しゃがみこむ緑間の前に同じ態勢でその顔を覗き込もうとしてくる。 ちょっと見せて、と手首を掴んで引き剥がそうとするものだから、首を横に振りながらその手をやんわりとほどいた。 「目にはぶつかっていないのだよ」 「でも……!」 「気にするな。少し立ちくらみがしただけだ」 と、思う。語尾だけ飲み込んでそう言ったけれど、そんな答えで高尾が満足するはずもなく。 「立ちくらみ? ならなおさらあぶねーっしょ? 保健室行った方がいいって。んで診てもらお? …あの、大坪さん、俺連れて行きます」 やはりそれか。別に必要ないと口を開きかけたところで、大きく頷いたらしい大坪の声が降ってきた。 「そうだな、頼んでいいか? その調子だと一人で行かせるのも危険な気もするしな」 「了解です。ほら、真ちゃん立てる? ゆっくりでいいからさ」 「必要ないのだよ。大した事はない」 そう遮られてしまった先を告げた。それに、高尾の肩など借りずとも平気だ。 そうして立ち上がろうと薄目を開けたその刹那、またしても襲い来る世界の歪みに、情けないほど足元がふらついた。 「ちょ、真ちゃん! だーもう、こういうときにまで変な意地張ってんなよ!」 倒れこむ直前で長身の緑間を支えた高尾の、両腕が細かに痙攣している。それもそうだ。自分よりもはるかに身長のある相手の体重を支えることは容易ではない。 痛む頭を押さえながら、緑間は足に力を込めた。 「立ちくらみっつーとやっぱ貧血かな? 真ちゃん今朝具合悪かったりした?」 「いや、至って普通だった。……登校する時までは」 「登校?」 「リヤカーに乗ったところまでは何事もなかった。だがその後に目が痛くなっただろう」 口早に説明すると、高尾はきょろと目を彷徨わせしばし考え込んでから、「ああ」と声をあげた。 「目にゴミ入ったって言ってたやつ?」 「そうだ。最初はゴミだと思ったのだが、どうも痛みが取れなくてな。そうしたら立ちくらみがして、こうなった」 目を瞑り眉間を指で摘み、出来るだけ目に光が入らないようにしながらの説明に、身長のあまり変わらない宮地が覗き込んでくる。 「眼精疲労か? どーせ夜遅くまでなんかやってたんだろ?」 「いえ、俺は就寝時間きっかりに寝ました。生活リズムを崩してなどいません」 緑間に限ってそんなことはないと分かっている分、宮地も他のメンバーもそうかと眉を寄せた。 すると口元に手を当ててうんうんと唸り声を上げていた高尾が、首をゆっくりと傾げながら。 「うーん…。まだくらくらとかする? 頭痛いとか。したら風邪かもだけど」 「頭痛はない。立ちくらみの方も――」 語尾を言いきらないまま、緑間は薄目を開けていた左目を徐々に開いていく。 異常はない。気分の悪さもなければ、視界の歪みもない。 しかしそれにつられて見開く、瞑りっぱなしだった右目が。 「――…………」 右目が。 黙り込んだ緑間に、一同はそれを症状のせいだと理解したようだった。 いいから行って来いと、大坪と宮地がちょうど同じタイミングで、しかしハモらずバラバラに言い放つ。 無理っしょ? と視線の下の方にいる高尾も困ったようにはにかんだ。 沈黙は症状に対する肯定の意味だけを表していると理解された。 実のところその沈黙に込められていたのは、それだけではないのだ。 驚き――という単語だけでは酷くチープで、もっと頭をガツンと殴られたような、冷水を顔面にぶちまけられたような、そんな動揺。 なんで、よりも先に、なんだろう、と考えた。 これはなんだろう。この感覚は、この視覚は、風景は、世界は。 ――視界が二つ? ―――――――――― 「うーん。異常という異常はないみたいですけどね…」 目の前の白衣の男が、片手に持った紙をじいっと見つめながら困ったように呟いた。 もう片方の手で安物めいたボールペンを持ち、そのペン先で紙の至る所にトントンと印を打っている。 「眼科の検査でも出なかったんだから、一時的なものだと思われますね。部活は何を?」 「バスケットボールです」 「なるほど。それで朝練、か」 トン、と紙面を指したそれが、くるりと円を描く。 「……うん、季節も季節ですし。急に運動して、体が驚いてしまったのではないですかね。とりあえず風邪の症状ではないようですし、栄養失調でも寝不足でもなさそうだ。時間をおいて、様子を見てみましょうか」 様子を見てみましょうか、というのが、症状を確認できない患者に対する医者の常套句であることを緑間は知っていた。 あくまで検査機では見つけられない、ということになる。 最初に眼科で話をしたら、左右の視力に差が出ているのではないかと指摘された。けれど実際に測ってみるとその両目はきっかりと言っていいほど同じ視力で――とはいえどちらも小数点第二位の数字が目を見張るほど小さいものであったが――異常なしと判断された。 ついでにメガネの調整をしてきたらどうだと言われたくらいだ。それが大事ではないと判断したことを物語っている。 正直な話、体育館を出てタクシーで病院に向かっている間に、緑間の目はすっかり治ってしまっていた。 だから検査で何も出ないのも頷ける。 けれどあの時、確かに自分の目はおかしな動きをしていたのだ。 何でもないというには、不可思議すぎるほどに。 科学では証明できないことが起きていたとでも言うのか? まさか。 そんな夢物語があってたまるか。 けれどやはり、そう言いきれない自分がいて。 なんなのだ一体。一体、俺の身に何が起こっているというのか。 ―――――――――― 「え……」 診察がものの数分で終わったため、もちろん緑間は学校へと戻った。教室に入ると丁度休み時間だったようで担任はおらず、仕方ない、と踵を返そうとしたその時、そんな驚いたような声がした。 それを振り返ると、目を丸くして口をぽかんと開けたままの高尾がこちらをじいっと見つめている。緑間が視線を返すが、何を喋るでもなく彼はそこでただ立ち尽くしていた。 「高尾?」 名前を呼ぶと、はっと我に返ったように肩が跳ねる。そしてやっと時間が流れ出したかのように、薄い唇が小さく戦慄いた。 「目、なんだって?」 その声に明らかに不安の色が滲んでいる。 「……ああ、別に。何ともないのだよ」 刺さる視線から目を背けながら、メガネの真ん中をカチャリと押し上げた。 「何ともない? ほんとに? 医者は何て」 「特に異常はないと言っていたのだよ」 「ほ、ほんと!?」 よかった、と、高尾が一歩踏み出した。 パタ、と乾いた上履きの音が一回。 それを合図にしたように、ツキリと目の奥に痛みが突き刺さる。 「……っ!」 目を瞬こうとして、痛みにそれは叶わなかった。 どうしたというのか。先ほどまでは何事もなかったというのに。そう思いながら思わず目を眇めた。 「えっ、真ちゃん!? やっぱ痛いんじゃん!」 駆け寄ってくる高尾の足音がする。 痛みは継続するが、こいつにあまり心配をかけさせると面倒なことになるのは百も承知だ。 「いや…気のせいだ」 「気のせい? じゃあなんで眼帯なんかしてるの」 眉をひそめながら首を振ったところで、そんな至極まっとうな質問が投げつけられる。 白い眼帯をしている人間の、どこが異常がないというのか。そう思うのは当然に決まっていた。 「これは…少し、見えにくいからなのだよ」 「見えにくい?」 「ああ。眼科で点眼してもらった薬が瞳孔拡張作用があってな。今こっちの目のピントが合いにくくなっているのだよ」 「……どうこうかくちょう? なんだそれ。 つか眼帯したら見えにくいもなんも何も見えねーじゃん」 「…………」 そういうこっちゃないのだよ。緑間はその台詞を言いかけて飲み込む。 つか本当に大丈夫なのかよ? 無理そうだったらすぐ言えよな。バスケに支障きたしたら元も子もねーんだから強がんなよ? とりあえず今日は部活できねーから俺が送ってくし、などと捲し立てる高尾に、いつものように対応する余裕は残っていなかった。 ただ首を縦に振る。それくらいしか出来なくて。 「次の授業さ、美術なんだわ。移動教室じゃん? 早めに出て、ゆっくりいこうぜ?」 ―――――――――― 美術室へ続く廊下は、いつものことながら酷く静かだった。 というのも、この廊下で連絡しているのは美術室、美術準備室、音楽室、音楽準備室くらいなので、音楽の授業がない時間など特に過疎状態になっている。 高尾は無言で前を歩いていた。 正直緑間にとっては最善の対応だったように思う。片目で歩くということはなかなかに困難なのだ。 「あ、真ちゃんそっちだめ。柱あるから」 高尾に言われて、ハッとする。右の方にあった白い柱が完全に視界に入っていなかった。 もー、メガネ外した時よりもタチ悪りーや、とだけ高尾は笑って、二人分の教科書を抱えたままくるりと踵を返す。 (手を、引いてくれると助かるのだが) ふとそんなことが思い浮かぶ。けれどすぐに否定した。 ここは学校だ。いくら自分が怪我人扱いされているからとはいえ、それはさすがにまずいだろう。 そんな考えが緑間の口を塞ぐ。 そもそもここが学校でなくとも、言えるような性格は持ち合わせていないけれど。 「ねー真ちゃん」 不意を突かれ、余分なくらいに驚いてしまう。 くるりと振り向いた高尾の顔には、なにか企んでいる時の笑顔が見て取れた。 「手、出して?」 「手?」 「いいから、ほら」 すい、と筋張った手が差しのべられる。その意図が汲み取れないほど鈍感ではないが、しかしそれを躊躇いなく取れるような性格ではないから。 「…なんなのだよ」 「いや? 手、繋ごうと思って?」 そっちの方が真ちゃんも楽じゃないの、なんて、まさに頭の中を覗いたようなことを言う。 頭の中を覗いたような、という形容を高尾にすることは多い。 視界が広いからか。高尾は周りによく気がつく。気も使えるし相手の意図を汲み取るのも異常に上手い。 緑間の思っていることを言い当てるのも得意だ。この仏頂面から感情が漏れ出ているわけがないと緑間は考えているので、もうもはや本当に頭を覗かれているという以外では説明のできないとも思ってしまう。 そう、まるで――いつか読んだあの小説に出てくる、エスパーのように。 しかしながらまさか、高尾がエスパーだなんて、そんな阿呆なことを本気で思ってなどいない。 けれど時々そうであったらどうしよう、そうであったらいいのにと考えることがあるのだ。 たとえば今。 (お前がエスパーなら――超能力者であったなら、わかるのか?) この不可解な現象を。 「どこだと思ってる。学校だぞ」 「知ってるよー。でもここはほとんど人こないし。ね、ほら、逃げないの!」 緑間の手を追いかけるその手を振り払おうとするが、片目の視力では防御力も半減だ。次の瞬間には手首を握りこまれ、「よし」という掛け声とともに腕を引っ張られていく。 「おい!」 「おっきい声だすなよなー。大体高尾ちゃんのエスコートないと危なっかしーじゃん?」 「いらん、歩ける。離せ」 「なーんて。うそうそ。ほんとはおれが繋ぎたいだけですよ」 ごめんねちょっとだけね。大丈夫だよ、誰もいないから。 前半の言葉に息を詰まらせ、それから後に続いた言葉に首を傾げた。 何故そう言い切れるのか――質問を投げようと思ったがその口を噤む。 そうか、目だ。目を使って見ているのだ。その、異常なくらい視野の広い目を使って。 二人分の靴の音が反響する。観念した緑間は、目を閉じて、それに耳を澄ませて。 (もし――もし俺が変な力を手に入れてしまったらしいと言ったなら、お前はそれを信じてくれるか) 変なことを考えている自覚はある。酷く滑稽だ。高校生の考えることではないとは思う。 けれど事実なのだから。 実のところ、そこには医者にも先生にも、誰にも話していないことがあった。 別に隠しておきたいというわけではなくただ、言ったところで何になる、と。 きっとこんなこと誰も信じないだろうと思ったから。 そっと左目を開けてみる。 つま先を見つめて。右足、左足。そして右足、左足。 それから少し目をあげると、黒髪の後頭部が見える。 上下に。リズミカルに。少しだけ、意気揚々、と。 次いで右目だ。開くとともに、緑間は高尾の手首を強く握り返していた。 驚いた高尾が振り返ったが、何でもないと言った。 強烈な目眩がする。 状況を説明するのはなかなかに難しい。それを事細かに説明しろと言うならば。 けれどざっくりとなら説明できる。 信じてもらえなくて結構。 俺の右目は、高尾の右目の視界を映しだしているようなのだ。 正直自分でも最初は信じられなかった。 気がついたのは、朝練の、目眩がして、それから高尾に支えられた、その直後。 右目と左目が、全く違う映像を映し出していることに気がついたのだ。 左目は覗きこんできた宮地が映っていた。しかし右目の方はと言うと。 緑間を斜め下から覗きこんでいたのだ。 まさか自分の目で自分を斜め下から見ること出来やしない。 どういうことだと視線を彷徨わせてみたら、そこには高尾がいた。 靴の音が耳に響く。教室はすぐそこだ。 緑間は右目に意識を傾けた。確かめたい気持ちが半分、そして好奇心が半分。 確かに自分の右目は高尾の右目と同調しているようだ。 けれどおかしいなと思った。 視界がやけに狭い。お前はバスケットコート全体を見渡せるほどの視野の持ち主ではなかったのか? それなのに何故。 右目には緑間の姿だけが映っていた。 ―――――――――― ぐるぐると、右目が勝手に暴走を始める。 持ち主ではないのだから、とやかく言う権利はないわけだけれど。 見えているのはただの教室の風景だ。 けれどこの目が映し出しているものは常人の見えているそれだけではない。 机上の消しゴムから始まって、次はライトアンバーの床。白っぽさの残る深緑の黒板。 視線が駆け巡るように移動する。 かと思えばゆるりとブレーキをかけて、上空から教卓の上の日誌を。 ○月×日△曜日。晴れ。遅刻、高尾和成、緑間真太郎。 「緑間真太郎」――その文字列をするりと撫でて、今度はゆっくりとズームアウト。 前から三列目までの全員の頭頂部が見える。そして四、五列目。最後に六列目。 まるで落ち着きのない子供のように世界がくるくると回っていた。 顔を向けずとも窓の外の木が見える。葉が落ちて枝ばかりが目立つのも、今まさに落葉しそうなそれがヒラヒラと風の中を泳いでいるのも、その色も、形も、全てはっきり。 見えるのだ。見えすぎると感じるくらいに。 ふらりと視線が教室内に戻ってきた。 担任が明日の予定をつらつらと喋っていたが、もちろん全然と言っていいほど耳に入ってこない。 ドラマで見るアングルだ。窓の外から高尾自身が見え、それから姿勢正しくその後ろに座る緑間が見える。 と、思ったら寄ってくる。少しずつ、少しずつ。しかも高尾の姿は徐々に視線から外れ――緑間の姿を視線の中心に。 周りの風景がぼやけた。代わりに緑間にピントが合っていて。 最初は耳が見えた。そして眼鏡のツルとフレームを辿って、横から前へ。眼鏡の下の白い眼帯へ。 じっ、と。留まった視線が、何か言いたげにして。 思わず目を瞑ってしまった。 両目を伏せて、それから左の瞼だけをそっと持ち上げてみる。 見えた前の席の高尾はやっぱり普通で、頬杖をついて机に体を預けているその姿は見飽きたほどにいつも通りだ。 学ランを着た黒い背中が語るものは何もない。 けれど右目を開ければ、その無表情の背中に隠された中身が見えて。 近い。近い。とてつもなく。 正面からそれくらいの距離で見つめられたことなどいくらでもある。 最近はそれにもすっかり慣れて、そこまで気にならなくなっていたというのに、これは。 直で見つめられるよりも視線が熱くて耐えられない。 早くホームルームが終わってくれればいいと思った。 そうしたら高尾はきっとくるりとこちらを振り返って、「真ちゃん帰ろー」などと言う。それから自転車置き場に辿り着くまでに、くだらない話のひとつやふたつを笑いながら披露するのだ。 相槌を打てば嬉しそうに目を細め、止まらない口で帰路をそのまま、ずっとずっと。 目を瞑っているのに、視線を感じる。 どういうことだ自分は本当に変な能力を手に入れてしまったのか。 そんなふざけた考えすら肯定せざるを得ない。 頬がヒリヒリと熱くなる。高尾がきっと視線で焼いているのだ。 熱い。そんなに見ないでくれ。そうは思うのに、どこか違う感情も潜んでいて。 それを何というのか、緑間は知っていた。 正確には高尾が教えてくれたわけだけれど。 ―――――――――― 道の凹凸に合わせてリヤカーは細かく上下に揺れ、坂道に差し掛かったせいか少しペースが落ちた。 立ち漕ぎでペダルを踏む高尾は相も変わらずつらつらと自分にはわからない言葉を喋っている。 昨日の音楽番組に出ていた何々がどうだとか。あの芸能人がだれそれと結婚することになったんだとか。 その全てに気のない返事をしながら、緑間は風に吹かれて捲り上がる文庫本のページを、テーピングの巻かれたその指でそっと押さえつけていた。 左目で文字列を追って。夕日に照らされたそれを読む。 けれど全然頭に入ってこないのだ。平仮名や漢字の輪郭を、撫でるようになぞるだけで――それ以上は何も。 ここまではまぁ、いつものこと。 ふと、思いついたように視界を入れ替えてみる。 左目から右目へ。 見えたのは、リヤカーに乗った自分の姿。 いつもの視界の広さはどこへ行ってしまったのか。高尾の目には過ぎ去っていく並木の銀杏も、不格好な乗り物を冷やかす通行人も、どこまでも無機質なアスファルトさえ、見えてはいなかった。 ただそこには、世界から切り取られたみたいに緑間だけが存在していた。 冬なのだ。もう冬なのに。 緑間の頬はぼうっと熱を持っていた。 「……高尾」 ぼそりと呼びかけると、またぐっと視野が狭くなる。今度は緑間の、無表情な後頭部にピントが合って。 「なぁに? 真ちゃん。どしたの?」 あっけらかんと返してみせる。 左目で自転車に乗る高尾を仰ぐ。相変わらず語らないはずの黒い背中が、何かの錯覚か、酷く雄弁に思えてきて。 「あまり、見るな」 「え?」 「視線が刺さる」 堪え切れずにそう呟いた。それからしまったと思った。 高尾は緑間の目について何も知らないのに。 「あ、えと、うん…?」 けれどもつっこまれるかと思いきや、拍子の抜けたそんな声が返ってきた。 それもそうか。こんなこと、普通思いつきもしないだろう。 「ごめんね、つい」 正面を向いて自転車の小さなペダルを漕ぐ高尾が、そんなことを言ってから黙り込む。 それも当然だ。高尾には見えているわけがないのだから。いや、見えていないのが当然の事柄なのだから。訝しがるはずだろう。 そのまま右目を開け続ける。するとその目に映る自分のものではない視界が、ふらりふらりと揺らめいた。 そしてゆっくりと、周りの風景を取り込んでいく。緑間に焦点が当てられていたそれがリヤカーのタイヤに引っかかって、次に白線の引かれたアスファルトを撫で、そして葉を落とした街路樹まで辿りついた。 そうして車輪の音が、乾燥した冬の空にカラカラと浮かんで。 「……あのさ」 キィ。ペダルを踏み込むと同時に高尾が白い息を吐く。 「真ちゃんの目が早く治るように、おまじないしていい?」 唐突な質問に緑間は目を丸くした。 「おまじない?」 「うん、そう。すぐ終わるから」 キイキイと音を立て続けていた車輪が、ピタリと鳴き止んだ。 ふと周りを見渡す。 公園か。少し遠くに噴水があるけれど、そこに水の気配はない。冬場だからか、それとも平日だからか。人っ子一人おらず、ただ静けさだけがそこに存在していた。 「おまじないとはなんだ?」 よいしょ、と自転車から飛び降りる高尾に尋ねてみる。すると彼はなにやらいたずらを思いついた小学生のような笑顔を浮かべながら、リヤカーの後ろへ回りその荷台に足をかけた。 「何……」 「んなびびんなって。ちょちょいってするだけだから」 「だから何を…というかその前にいいとは一言も――」 「はい目ぇ瞑って!」 緑間を遮り、楽しそうにリヤカーの荷台に乗り上げる。 男子高校生2人を乗せるには貧弱なそれがギシリと悲鳴をあげたようだったが、高尾はそれを気にも留めずに緑間のメガネを外しにかかった。 「…返せ」 「いいから」 「一体なんなのだよ」 「おまじないするだけだってば」 おどけて見せる高尾の姿は、ぼやけてしまってよく見えない。 大体にしてその『おまじない』というものがなんであるのか、この状況からなんとなく推測はできた。 ふう、と一つ溜息をつき、そっと目を閉じる。 いや厳密には両目を閉じたわけではなかった。 右目だけ――そうほんの少し好奇心が働いて――少しだけ開けておいたのだ。 うっすら、ぼんやりと映る程度に。 「じゃー、えっと。おまじない、します」 「手短に済ますのだよ。帰りが遅くなる」 「だーもう。わかったわかった、すみませんねっ」 そう言って、高尾の視界が外に広がる。 波紋のようにサァっと、駆け抜けるように早く。 それから広げた布を早急に摘みあげるように――視線が緑間まで戻って。 ふらり、ふらりと視界が揺れる。それが何を意味するのか。 それから何も見えなくなった。 おそらく高尾も目を瞑ってしまったのだろう。ただ右目は暗闇を映すばかりで。 どうしたのかと訝しがろうとしたその時、頬に柔らかな感覚が走った。 冬の風に晒されて冷えた、そこに温かな口付けがひとつ。 思わず目を開けてしまった。というのは、別にその行為自体に驚いたわけではなく。 おまじないの正体など今までの経験からすぐに割り出せていた。そうではなくて、驚いたのだ。 高尾の唇の温かさに。 「…どう?」 離れて行った唇が、少しはにかみながらおずおずと開く。 「…特に何もないが」 「えー効かない?」 「ああ」 「速効性じゃないだけかも」 「じゃあそういうことにしといてやるのだよ」 しといてやるってなんだよ。そう言って噴き出した高尾の耳が酷く赤かったように思う。 「ちぇー。なんだよ王子様のキスは有効じゃないのかよ」 「あれは眠りから覚ます効果しかないのではないか?」 「そういうもんなの? つか真ちゃん眠り姫知ってんの?」 高尾の片眉があがる。 「馬鹿にするな。幼少の頃大抵の童話は制覇した」 「えっじゃあ人魚姫とか白雪姫とかも?」 「ラプンツェルなんかも読んだのだよ」 「まじか意外!」 意外でもないか、と高尾は声を抑え、顔を伏せて心底面白そうに笑っていた。最初のうちは気分悪くむくれていた緑間だったが、延々と笑い続ける高尾に腹が立ち、むんずとその頭を掴んだ。 「笑いすぎだバカ尾」 「えー? うはは、ひー…あーもうだめ…くるし…お前どんだけ? 電波だけじゃなくて不思議ちゃんも入ってんの? 可愛すぎだろ」 「可愛いとはなんなのだよ」 「いや、だから、可愛い」 「誰が」 「お前が」 「俺が?」 「真ちゃんが!」 心の底から意味がわからないという顔をしたら、高尾がまた笑いだした。 こやつは笑い袋か。埒が明かないと呆れて顔を背けたところで、緑間を呼ぶ声がする。 「ねー真ちゃん」 「なんだ。もう用がないならさっさと…」 視線を戻した先に、待ちかねたようなキスがあった。 緑間の生意気な言葉など、それの前ではいつも有耶無耶になってしまう。 唇と唇が一回、触れ合うだけ。 ぱちりと目を瞬くと、そっと瞼を撫でられる。 次いでもう一回。今度はゆっくりと、馴染ませるように。 角度を変えて三回目。そしてもっと深く四回目。 ピンと張った糸のように揺らがない冬の空気に、二人分の吐息が溶ける。 そうして何度もキスをした。 目を瞑ってしまっているので高尾の動向はわからない。今何を見ているか。その視界は今どこを見ているのか。 けれどそれが、あの自分だけにスポットライトが当たるような、あの酷く狭い緑間だけのそれになっていたならと願う。閉じ込められたような、切り取ったような、あの雄弁なそれに。 するりと高尾の手が顎を伝う。それを咎めようとその手を掴んだ。 けれど忍び込んできた舌に気を取られてしまって、結局袖を握りしめることしか叶わなくて。 顎の次は後頭部。さらりと髪を梳いて、何度も何度も口付ける。 そうされる度にふつふつと緑間の胸の中で湧き上がる何かがあった。 高尾の背中に腕を回し、制服の布地を握りしめても尚、振りほどけない思いが。 (くるしい) 伝わるか高尾――お前が本当にエスパーだったらよかったのに。 そうしたらこの狂おしさも愛おしさも、そっくりそのままお前に伝えることができるのに。 けれど実際、高尾は神でもエスパーでもないから。 だから俺は自分の不器用さを呪うのだ。 この溢れ出さんばかりの熱い感情の名を的確に表現する言葉を、俺は知っている。胸の奥底で突然暴れだす酷く甘くて拙いこの気持ちを。 言葉に出せば三文字だ。それを今ここで口に出せたならどんなに良かっただろう。 それが出来ないのはもちろん己の不器用さと頑固さのせいもあるけれど、それだけではない。 俺はその三つの文字列に乗った気持ちの重さを知っている。ひらがな三文字に込められた、ねっとりと纏わりつく恋情を。 だから俺の口は頑なにその言葉を零したがらない。 プライドか羞恥か。両方正解で、けれどどちらも間違いだ。 葉を落とした木々の間が鮮やかなゼニスブルーで塗りつぶされ、キン、と耳鳴りがしそうなほどに世界は静まり返っていた。風は息をひそめたようにひっそりとしていて、唯一聞こえる音と言えば、どちらのものかわからない心音、ただそれだけ。 四角い箱に――絵画で壁をあしらった、四角く広い空間に、二人だけが存在している。 そんな錯覚を起こしそうになる。 このまま世界が終ればいい、だなんて、小説の中だけのセリフだと思っていた。 キスで溶けて混ざり合ってしまいたいだなんて、そんな歯の浮くようなセリフも。 降ってきたキスに、そっとまた瞼をおろした。 頭の芯がじんと痺れるようで、目頭が少し熱くなる。 「……好きだよ、真ちゃん」 白い息に乗ったそれが、ふわりと青色に溶けるのを見た。 目をあげた先に見えたのは、少し困ったような、けれどどこか熱のこもった笑顔。 世界がちかちかと瞬いたように見えた。それから視界の下のほうから薄い膜がせりあがって。 (伝わるか高尾) 背中にまわした手に一層の力を込める。 伝わればいいと思う。せめて早鐘を打つこの音だけでも。 でも出来ることなら、臆病で引っ込み思案な俺の、拙い恋心の全てが。 (すきだ) 心で呟くだけ。 それから抱き合った体にしがみつくように。 何かを祈るようにきつく目を閉じて。 (好きだ、高尾) ――好き、だ。 薄い唇の挟間から滑り出たそれは、音にならずに空気に溶けてしまった。 またかこの意気地なしめ。――そう毒づいたのは一瞬だけ。 「嬉しいよ」 降ってきたそんな言葉に、心底驚く。やはりこいつはエスパーなのではないかと、馬鹿なことを考えてしまう。 だって何も言っていないのに。言葉にしていないのに。 困惑する緑間に、高尾はまた唇を落とした。 言葉も紡がず、静かに静かに。 きつく抱きしめられたその後に、どこからか高尾の「好きだよ」という声がしたような気がして。 ああついに俺までエスパーになってしまったのか。 ぼうっとした頭でそんなことを思う。 ああでも――それも悪くないな。 ―――――――――― 結論を言うと、それは神の気まぐれだったというか、悪戯だったというか。 特に俺は宗教家でもないからどこぞの神かは知らないわけだが、表現するならそれが一番しっくりくるよう思う。 俺の目はその日のうちに治ってしまったのだ。 俺の右目は、元のド近眼な、普遍的な目へと戻ってしまった。 一体なんだったのか、だと? そんなもの、俺が聞きたいくらいだ。 その不思議な体験をしてからもう数週間が経とうとしている。 世界の見え方だとか、実際の視野の広さだとか、そのあたりの記憶が欠落し始めるくらいには日が経ってしまったと思う。 けれどどうしたって忘れられないことだってあるのだ。 例えば鼓動が聞こえてきそうな、あの狭まった小さな世界とか―― そうして感じた、愛おしさとか。 |
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