お味はいかが?



 俺と真ちゃんの喧嘩の理由なんて、それこそ世間一般からみたらくだらないって一蹴されちゃうようなものだっていう自覚はあるよ。
 きっかけが些細で、内容が幼稚で、だったらもう早く仲直りしろって、そういう話になるとは思う。

――思うんだけど、出来てたら今こうして一人で家には居ないわけですよ。言っとくけど別に同居してるわけじゃない。あと今日は緑間が授業で来れるはずもない。だから別に、そういうわけじゃないんです。出てったとか、そんな類の話じゃない。

 問題は俺。俺なわけです。実のところ今日は大学で待ってようと思ってたんですよ俺はね。でもちょっとなんていうのか、今回ばかりはね、ちょっと俺折れすぎなんじゃね、みたいな? 喧嘩する度こっちが折れてやってて、絶対あいつわかっててメールも電話もしねーんだろって思っちゃってね。いつも通りって言えばいつも通りなんだけど、なんかストレスでも溜まってんのかなオレ。なんなんだよって、なっちゃってさ。んで一人寂しく家にいるわけですよ。狭いアパートのキッチンで一人佇んでるわけですよ。…考えれば考えるほど何に怒ってるのかどうして今も怒っているのかわからなくなってくるけどもう今更だから大学行かないからねオレ。


 ひっ掴んだパスタの袋を、破ろうと手に力を入れる。腹が減っちゃ戦が出来ない、ってわけで、いや特にどこに戦に出るわけでもないけど、高尾はそれの口を開けた。そしてそこからおもむろに細長いパスタを引き出すと、IHの上で沸騰している鍋に放り入れる。それからタイマーのボタンを押した。

 それにしても音沙汰なさ過ぎじゃ無かろうか。連絡してないのはこっちだって一緒だけど、いつもの緑間ならこういう時、空気を読まずにいつも通りのメールなり電話なりを寄越してきて、それを高尾が一瞬舌打ちしてから許してやる。そんな流れなのに、喧嘩してからここ数日、本当に何もないのだ。許す機会もない――許す、というのは少し上から目線か。…仲直りするという機会が上手くつかめないのは、そういうわけであった。

 ポケットからケータイを取り出す。期待はしていなかったけれど、着信も受信もないのを確認する作業はやっぱりちょっと悲しいと言わざるを得ない。

 あ、塩入れてないや。そう思いソルトの瓶を片手に鍋を覗くと、どう見ても麺が多い。茹でたことによる膨張とかそういうレベルの話ではなかった。入れ間違えた。二人分。

 ため息をつきながら、タイマーを仰ぐ。あと2分。
 多いけれど、食べられないわけじゃないから。

 ソースも作っておかなくては。
 麺と同時に出来上がるのがベストなような気もするけど、ちょっとタイミング逃したからずれる。でも、別に気にするほどでもない。
 どぷ、と音を立て、オリーブオイルをフライパンに入れた。少し多かったかもしれないと思いつつも、多分二人前に絡めるなら丁度良い。
 次いでガーリックを入れて――と思ったらタイマーが鳴る。やっぱりちょっとタイミングが悪い。

 高尾は菜箸をスタンドから引き抜くと、鍋の中をくるりとかき混ぜた。そして手首を捻りそこから一本だけをすくい上げると、口まで持っていって数回吹き食感を確かめる。

(うーんと…アルデンテ?)

 テキトーなことを思って火を止める。

 高尾はよく友達や同級生に「ハイスペック」だと賞賛されるが、正直そんなに何でもかんでも出来るわけではない。スパゲッティだって、そりゃあ基礎知識はあって作れない訳じゃないけど、だからといって上手くはないと思う。
 人並み。秀でてるものなんて、一つくらいでいい。

 麺をザルにあけて、よしソースの続きを、と、思ったその時だった。

 ピンポン、と玄関の呼び鈴の音がする。

 高尾は鷹の爪をパラパラとフライパンの中に撒きながら、目を数回瞬いた。

 隣の音だっただろうか。そう思おうとしていると、もう一度鳴った。
 近い。やっぱりウチだ。

 そろり、と足を進めてみる。時刻は昼間とは言えないけれど、まだまだ明るい時間帯。勧誘やら押し売りやら何やらが来たっておかしくない。それだったら面倒だから、覗き穴で確認してから鍵を開けよう。
 そう思って覗き穴を覗こうとしたところで、もう一度呼び鈴が鳴る。一回、二回。短く三回。
 なんだようっせえな、と、苛立ち紛れに覗いて、高尾は目を丸くした。
 次いで間を空けず鍵を回し、それとほぼ同時にドアを開ける。

「……え…、なんで……」

 瞬きを、大きく二回。それが限界だった。
 まさか、いや、そんな。そればかりが頭を回って、上手く言葉が出てこない。

――なんでこんなところにいる?

 その人物は訪ねてきたくせに、特になにを言うでもなく開け放たれたドアの前で突っ立っていた。
 俯いたレンズの奥の顔はよく見えないけれど、インターホンを鳴らしたであろう人物はどこをどう見ても確かに彼だ。
 見間違いをするには、特徴的すぎる緑の髪。重そうな黒縁のアンダーリムグラス。一般社会においては何かと目立つ、そのすらりとした長身。

 高尾は片手でドアを開け放ったまま、そっとその顔を覗き込んだ。レンズの奥で伏せられた長い睫毛を見つめ、そうしてまた瞬きを数回。

 やっぱ、緑間だ。

「……学校は?」
 なんで、とかそういう言葉よりも先に、そんな質問が滑り出た。
 俯いたままの緑間が、左手でカチャリとメガネのずれを直す。

「…今日は3限までだったのだよ」
「あ、ああ…そう……」

 やっとのことで口を開いた緑間に、え? 3限? とは、聞き返さないことにした。

 3限ということは、きっと14時半頃に終わったのだろう。時計に目をやれば、現在時刻は15時10分。
 確か緑間の大学から自分の家までは、各停で50分、もしくは特急を乗り継いで30分だったはずだ。
 それならば。
(まっすぐ家に…? いやいやまさかね…)
 こんな行動、期待しない方がおかしい。けれどこの偏屈に輪をかけたような人物が、まさか。
 そう思ってしまう。どうしたって、長年の経験からいうと。

「な、なんか忘れものとかしてたっけ? 実験に使うものとか? 特に俺気がつかなかったけど……取りに来たの?」
「違う」
 間違っていたら嫌だな、なんて、そんな質問を投げる自分も大概臆病になったものだ。

「あー……んじゃまぁとりあえず、あがってく?」
 沈黙が降ってきたので思わずそう言った。
 目を逸らしながら、片手の親指を立てそれで家の奥を指す。
 するとやっと顔を上げた緑間が、頷きながら小さく答えた。
「……お邪魔するのだよ」
 おいおいいつもそんなこと言わないじゃねーか。なんて、また違和感が一つ。



「あ…そうだった。俺、料理してる途中だったんだ」
 テーブルの上に無造作に放置されたパスタの袋を見て思い出す。

 途端鳴り始めたタイマーの音(多分もう一回スタートボタンを押してしまっていたのだ)に、高尾はキッチンへと急ぎそれを止めた。
 後でフライパンで和えることを考え多少固めに茹でたものの、これをこのまま続行していいのかが迷いどころだ。
 せっかくの来客――特に、呼んでもいないのに緑間が家へ来たという奇跡――だというのに、一人でパスタを作るのはやはり頂けない。
 けれどこれをそのまま放置するのか?

 どうしたものかと下唇を噛んでいると、特に何でもないかのように緑間が声をかけてきた。
「構わないのだよ」
「………へっ?」
「何か作っていたのだろう。俺はここで待っているから、作ってくるといいのだよ」

 律儀にリビングに正座なんかした緑間が、俯きがちにそんなことを言う。
 思わず目を瞬く。どうした、今日ほんと、変だぜ真ちゃん。

「えー…っと、じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……?」
 やはりいつもと様子が違う緑間に、内心首を傾げながら踵を返す。
 待っている、ということはやはり用があるのだろう。
 用、といえば先日の一件以外にない。それ以外思いつかない。
 だったとしたら、それをどうする気なのか。

 謝りに来た? あの緑間が? いや、それは少々信じがたい。
 ではなんだろう。それの逆?
 
――逆? 逆ってなんだ。

「あ」
 ふと思いついた用事が先程の思考を遮って、高尾は冷蔵庫へと手を伸ばす。
 ストックを、たしか買ってあった筈だ。
 特に何か特別なことを考えたわけでもなく、待っているのは暇だろう、そう思ってヒヤリと冷たいそこに手を突っ込んだ。

「真ちゃん、ほい」
 冷蔵庫から取り出したそれを、テーブルでおとなしく待つ彼の前にコトリと置く。
 おしるこ缶のストックが常備されている冷蔵庫なんて、多分世界中を探してもほとんどないだろう。そんなことを思いながら。
「……ああ」
 お、やっといつもの緑間だ。
 顔には出さなかったけれど、内心少しほっとした。
 そうだ、それがお前だろ。素っ気なくて、感謝の言葉もないような感じ。ツンデレ女王様。

 プルタブを開ける音がして、よしよしと高尾はキッチンへと足を向けた。

 しかしそこでまた、問題が一つ。

 もしこれで自分が料理を終えて、完成したとする。
 それで、その後は? おしるこを片手にした緑間の前でそれを食べるのか? いやそれは流石に、気の知れた仲だと言っても非常識過ぎる。

 だったらどうする。冷蔵庫に入れるか。

 いや、でももう結構空腹が限界なのだ。きっと緑間とこの後、なんらかの話合いがなされるというのに、このままでは腹の虫が邪魔をすること確実だ。
 今食べないとやばい。つかちょっとくらっとするくらいには腹が減ってる。やばい。

 だったら、いや、でも、緑間だぞ?

「……ねえ真ちゃん」
「なんだ」
「真ちゃん、もうお昼は食べたよね?」
「いや、色々と立てこんでて食べ損ねたのだよ」
「あ…そうなの? じゃああのさ」
 食べてく? と、言いながらキッチンに目をやって、また思い当たる。

「…っていってもアレなんだけど。ペペロンチーノなんだけど……辛いから駄目だよね? ちっと待ってて。なんか違うのないか見てくるよ」

 そう言って冷蔵庫の隣にあるラックの中を漁るべくそちらへ向かう。後ろで緑間が何かを言おうとした気配があったような気がしたが、振り返らずに視ればその口はきっちりと閉ざされている。

 やはり気のせいか。高尾は気を取り直しラックの中を覗くが、しかし運悪く緑間の口に合いそうなものがない。

「あー…ミートソースとか丁度きらしちゃってるから、なんか和風スパ的なのなら出来るかも。真ちゃん醤油と卵いけるよね? ごめんそれでいい?」
 振り向かずにそう問うと、少し間をおいてから答えが返ってきた。
「……いいのだよ」
「りょーかい。きのことかもいけたっけ?」
「じゃなくて」
 言葉を遮ったそれに、中途半端に笑顔を作っていた口元がひきつる。
 聞き返そうと、そうする前に緑間がまた俯きながら口を開いた。
「ペペロンチーノでいいのだよ」

 …え。
 あれ、辛いのだめじゃなかったっけか。オレの勘違いだったっけか。
 そうは思うけれど、そんなわけない。だってオレ『辛いのだめなのだよ』とか言って人の皿にポイポイ食材投げ入れた真ちゃんに萌えた記憶あるもん。記憶違いじゃないはずだ。

 一瞬の沈黙の後、高尾はしばし唸り声にも似た声を上げ、それからやはり引かずに質問を投げた。

「いや、でも思ってるより結構辛いよ?」
「そこまで辛いのが苦手なわけじゃない」

 さらりと言ってのける。
 言っても聞かない、とかもはやそういうレベルじゃない。
 勘違いしてるのはオレじゃなくてこいつの方か?
 
 だってなんか、前にカレーの中辛かなんか食べながら、辛くてこれ以上は食べられないのだよ的なこと言ってませんでしたっけ緑間さん。
 それに某ファミレスのメニュー表見ながら、唐辛子マークは一つで限界っぽいこと愚痴ってませんでしたっけ。
 俺が作ろうとしてるペペロンチーノは、あのメニューでは唐辛子3つ表記ですよ。

「ほんとにいいの? 別に面倒じゃねーからいいよ和風スパでも」
「いい」
「辛いよ?」
「延びるぞ」

 しつこい、と目が言っている。
 分厚いレンズの奥からのその刺すような視線に抑されて、仕方なしに高尾は背を向けた。キッチンへと戻り、火を消していたコンロのスイッチを入れる。

 

     × × ×



「……からい、でしょ」
「…………」
 多分、無言は肯定を意味していた。
 顔が変形するほどに口の中にペペロンチーノを含んだ緑間が、咀嚼しようと努力するものの叶わない。高尾がそっと水を差し出すと、奪うようにグラスをかっさらって口に運ぶ。やはり相当からいのだろう。
 結構控えめに作ったつもりだったのだけれど。

 無理ならいいよ? なんか他の作るし、それはオレが食べるし。
 そう言ってみるものの、口をもごもごさせながらの緑間は首を横に振るだけで、頑なに「うん」とは言わなかった。
 困ったなぁ、と頬杖をつきながら、高尾は必死にペペロンチーノを頬張る緑間を見つめながら口を開く。

「……真ちゃん、今日は随分意地っ張りだね」

 話をするでもなく、昼飯を食べたいと思っていた高尾よりも真剣にパスタを口に押し込む緑間が、その言葉に咀嚼を止める。
 しかしながらそのままでは喋れないことに気がついたのかどうにかそれをゴクリと飲み込むと、グラスの水を煽って、それから若干ピンク色に染まった唇を薄く開いた。

「別に」

 ツン、と唇を尖らせて見せるが、高尾は尚も追求した。
 辛いの平気になったの? と訊くと、そんなわけがないだろう、と不機嫌そうな声が返ってくる。じゃあやっぱ意地っ張りで食べたの? と質問を重ねると、緑間はティッシュで口を吹きながら小さくため息をついた。

「…歩み寄りは、必要かもしれない。そう思っただけなのだよ」

 歩み寄り? と言葉を反芻して、その意味を掴みかね口を開く。

「ダメな物はダメなんだぜ? 無理しなくてもいーんだって、そういうの」
「お…俺はお前のことをダメだと思ったことなど一度も……!」
「へ? …え? ごめん何の話?」

 どう考えても噛み合っていない会話を中断させて、俯いてしまった緑間の顔色を窺おうと覗き込むが、メガネが蛍光灯を反射してよく見えない。

――歩み寄りが必要? …歩み寄り?

 ふと、頭の中で繰り返した言葉に覚えがあることを思い出す。

――もうちょっと真ちゃんはさぁ、オレに歩み寄ってくれてもいいんじゃないの? そうやって唯我独尊してるお前だって嫌いじゃないけど、さすがに頭にくるんだよ!

(…………あ…)

 まさに先日、自分が目の前のこの男に言い放った言葉だった。今考えてみればそこまでブチギレる必要はなかったような気がするけれども、頭に血が上ってついそんなことを怒鳴りちらした。

 降ってきたそれに、高尾は目を瞬く。
 緑間が敢えてその単語を口にした理由。今現在俯いて顔を見せようとしない理由。
 他人のご機嫌や人との関連なんて、気にしないようなこいつが高尾の家まで来た理由。
 って、もしかしなくてもさ?

「――真ちゃん……今日はさ、オレのところに仲直りしにきたの?」

 テーブルの上で行き場をなくした、緑間の右手にそっと触れる。
 びく、とその肩が跳ねるが、答えはなかった。

「違う? オレの勘違い?」

 そう追い打ちをかけて、するりと指を緑間のそれに絡める。緑間はそれを振り払うこともせず、ただ押し黙ったまま絡み合うその右手にじっと目を落としていた。

 壁に掛けられた時計がうるさいと思った。
 緑間の次の言葉を、じっと待つ。けれども待てども待てども開かない口に痺れを切らしそうになった、その瞬間だった。

「…………高尾」
 ぽつり。小さく――聞こえるか聞こえないか、それくらいで、緑間が名前を呼んだ。
 今まさに何かを言おうと唇を開きかけたところだったため、返答がおかしくなってしまう。「へぁ」とも「えぁ」ともつかないような声を出すと、特に気にかけていない様子の緑間が俯いたまま呟いた。

「……い」
「え?」
「……、やはりからいのだよ。…口の中がヒリヒリしてかなわん」

 やっとのことで顔をあげた緑間の頬が、その唇に似て桜色に染まっている。
 高尾はそれを見つめながら、やはりまた目を瞬いた。

 掴みかねる。そして思い当たる。それから逡巡する。
 自分の考えが間違っていたら嫌だ。

 しばし落ちてきた沈黙に、緑間が身じろぎをした。
 それが事の正解だと、高尾は理解した。たぶん、これで、間違ってない。

 最初は躊躇いがちに手を差し伸べるけれども、その指先が緑間の頬に到達したその瞬間、滑るようにその頬から顎にかけてのラインをなぞった。

「……だから言ったのに」

 そのまま顎をすくって、控えめに開いていた唇に自分のそれを重ねる。指先と一緒だ。一回目は躊躇いがちに、角度を変えた二回目はもう少し深く。
 緑間がキスの合間に息を継ぐ。その隙に舌を滑り込ませ、驚いて逃げようとした後頭部を反対の手で押さえつけた。
 絡めつけて、掻き混ぜて。舌の上で、緑間が先ほどまで食べていたペペロンチーノの味がした。
 舐め取るように貪る。耳には唾液の混ざり合う音が酷く卑猥に響いて、高尾はぶるりと背中を震わせた。

「…真ちゃん、……もう、からくない?」
 口を離し、互いの唇から糸引く透明なそれを舐め取りながらそう問う。対してべたべたの口元を手の甲で拭う緑間が、視線を逸らしながら。

「…………甘いものも食べさせろ」

「……っ、ふふ。…仰せのままに」



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