37℃のコイビト |
忙しい忙しいと思うけれど、これはきっと相対的な忙しさだ。 いつもと同じ量の仕事、いつもと同じペース。それが酷く多く遅く感じるのは、時間がないからであって。 早くしないと明日に持ち越しになってしまう。その気持ちが一層焦る気持ちを煽る。 そんなことを考えている暇があるのなら、手と目を動かせアーサー・カークランド。 そう自分に叱咤して、目の前の書類に手をかけた。 絶対に今日中に終わらせなければならない。何故なら夕方には本田が家へとやってくるのだ。仕事が入ったといって約束がキャンセルになることなど確かにしょっちゅうあるが、実は今回、その事態の3回目に差し掛かろうとしているところなのである。 先月に二回、同じような状態になって約束を取りやめた。そのうちの一回は自分、残り一回は本田の都合によるものであったが、そんなことは実際どうだっていい。会えない期間に変わりはないのだから。 だから今度こそだ。正直これ以上は耐えられないと思う。考えると前回の時よりも仕事の量が多い気がするが、この際それは気にしないことにした。多分、いや、絶対に終わらせる。 「アーサー様」 「うっせえ、話しかけんな」 「で、ですが……お電話が入っておりまして」 「は? あー、じゃあ繋げて」 「かしこまりました」 「はやくしろよ」 部下にイライラをぶつけたところでどうなるというわけではないのだ。わかってはいても、そうせずにはいられない。アーサーは机上の受話器を乱暴に掻っ攫うと、めんどくさそうに耳へと押し付けた。 「はい、こちらカークランド。時間がないから用は手短に頼む」 『あ、もしもし。お忙しいところ大変失礼いたします。私、本田と申します』 「は……え、ほっ本田!?」 聞こえてきたその声に、思いっきり声が裏返る。そのまませき込むと、本田が慌てた声をあげた。 『だ、大丈夫ですかアーサーさん』 「悪りぃ、ちょっとびっくりして……」 『いえ、本当にお忙しいのに申し訳ありません』 「あーいやいや別に全然。それで、どした? なんかあったのか?」 よもやあちらがギブアップか。襲い来るデジャヴに苦笑いを零すと、それに前回とは違う回答が返ってくる。 『あの、実はそちらへ向かう時間が少し遅くなってしまいそうでして……』 「遅くなるって、どれくらい?」 『おそらく2時間程度です』 ほっとする。なんだそれくらいなら全然大丈夫だよと、軽く笑って返した。正直本田といる時間は一分一秒でも長いほうがいい。それはそうなのだが、約束自体が反故になるよりかは大分ましだ。 『大変申し訳ございません。それでですね、アーサーさんが空港へ向かいに来て下さる予定だったでしょう?』 「ん? ああ、そうだな」 『なにやら天候も悪いようですし……何時に着くのか見当がつかないので、私が直接アーサーさんのお宅へ向かおうと思うのですが』 「え、いいって。待ってるよ」 『いいえ。アーサーさんのお手を煩わせるわけにはいきませんので』 「や、別に暇だから何時間でも待ってるけど……」 こちらの様子を悟られまいと、そう軽く嘘をついた。すると電話口の本田はまたしても「いいえ」を繰り返す。 『家で待っていて下さい。何度も訪ねているのですから、道を間違えたりしませんよ』 そう言われて、むっと考え込む。 それはそうかもしれないけど。別に迷子の心配をしているわけじゃない。どこの国だってそうだが、今の時代だって外国人はやはり奇異な目で見られるのが常だ。本田に一人でロンドンの道を歩かせるのは、やはりまずいのではなかろうか。 そんなことを考えて黙っていると、本田がくすりと笑う。 『どうしたんです? そんなに心配ですか? 大丈夫ですよ。私だって男なんですからね。たとえアーサーさんに襲われたって、投げ飛ばして逃げるくらいどうってことないです』 「俺に襲われんのイヤなのかよ」 『そっちに反応しますか。――そうは云っていません。ただそんなに心配しなくてもと云いたいだけで』 眉を寄せるが、電話越しの本田の沈黙の意味を考えると、おそらく言う通りにして欲しいということなのだろう。 アーサーは小さくため息をつくと、仕方なく頷いた。 「わかった。んじゃあせめて、迎えをよこす。空港からは結構遠いしな」 『そうですか? お気遣いありがとうございます』 「べ、別にお前のためじゃないからな。ただ、そっちの方がやっぱ俺の都合的にいいからであって……」 『ふふ、わかってますよ。――それでは、後ほど』 短い返事をして、受話器を置いた。 耳にくすぐったいような本田の声が残っていて少しの間アーサーの意識は宙に浮いていたが、すぐにはっと我に返る。 終わらせなければ。数時間後には、本田がやってくる。仕事だけが終わればいいというわけではない。多忙だったアーサーの部屋は、目も当てられないほどに散らかっている。男同士だというのを差し引いても本田に見せてはいけないものも散乱していたはずだ。 そっちの掃除も含めたとして、あと何時間で終わるのか。 * * * * * * * * * 「アーサーさん、お久しぶりです」 「ああ、久しぶり。よく来たな」 本田が家へと到着したのは、彼が予告していた時間きっかりだった。 「やはり到着が遅れてしまって申し訳ありませんでした。雨は降ってないんですけど、上空は結構荒れていて」 「へえ。今日は別に雨の予報じゃなかったはずだけどな。まぁいいや、今日はどうする? せっかく日中に来たことだし、一息ついてからイギリス観光でもしてくか?」 ティーセットを用意しようと立ちあがりながらそう訊くと、本田の目がぱぁっと輝く。 「いいんですか? では、是非」 「どこ行きたい?」 「どこでも。アーサーさんのおすすめを教えて頂けませんか」 「観光名所か? でも結構行ったよな。ブリティッシュミュージアムとかバッキンガム・パレスもこの前案内しちまったし……」 「名所でなくとも、普通のお店とかでも結構ですよ。久しぶりに一緒に買い物とかしたいですし」 「そうか? んじゃあショッピングモール連れてってやるよ。……紅茶は? どれがいい?」 「ありがとうございます。そうですね、アールグレイを」 「珍しいな」 「そういう気分なんです」 ワインレッドに金飾を施したソファ。そこにちょこんと腰かけた本田が、控えめに微笑む。 本当に久しぶりの安息だ。やはり本田の隣は、息がしやすい。 疲労なんて吹き飛ぶ。この上品な姿や立ち振る舞いを見ていれば全て。 「ほら。冷めないうちに飲めよ」 「ありがとうございます」 おや新しいティーカップですねと、その口元が嬉しそうに弧を描いて、それにそっと口付けた。音もなくティーカップがゆっくりと傾くのを見守っていたら、かちりと視線が絡む。 「どうしました? そんなに見つめないでくださいよ」 「いや、別に」 「ふふ。紅茶、冷めますよ」 カチャリとカップを下ろしたその繊細そうな指先を目で辿る。視線に困ったように笑った本田のその手に、そっと手を伸ばした。 そしてその甲に口付ける。 白い手の、甲に、指先に、平に、手首に。 徐々に心臓に近づくキスを、本田は制することなく受け入れた。それが嬉しくて、そっと彼の髪を梳いてから、吸いつくように唇を奪う。 「……冷めないうちに飲むのでは?」 離れた唇から、そんな言葉が零れ出した。 角度を変えて啄ばむ。それがなにを意味するのか、わからないほどこいつは鈍感じゃない。 アーサーはキスの名残のある口元をふんわりと歪めて、本田の胸元に顔をうずめ呟いた。 「――あとで入れ直す」 * * * * * * * * * ウェストフィールドは今日も賑やかだった。 ガラス張りのモール内にはショッピングを楽しむ人々が闊歩しており、けれど広大な敷地のおかげでぎゅうぎゅう詰めという印象はない。 英国最大規模のショッピングモールだ。アーサー自身も写真で見たくらいで中を回ったことはなく、観光地を回るよりもずっと新鮮な気分になる。 何を目当てにしていたわけでもないけれど、とりあえず色々なところを見て回った。 いつもは静かな面持ちで物事を遠巻きに見ていることの多い本田だが、こういうときだけはやはり違うなと思う。 まさに観光客というのか。カメラを持たせたらもっと酷かっただろう。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。この人ごみの中ではぐれないようにするのに神経を使う。 まぁなんにせよ、本田が喜んでいるなら連れて来てよかった。隙を見て、誕生日プレゼント候補でも選んでおくとするか。 興奮気味に前を歩く本田の背中を見つめながら、そんなことを考える。 食品、時計、アンティーク雑貨。 色々見て回る本田がちょこちょことリスのようにウィンドウを覗きこむ。 引っ込み思案というわけではないけれど、気になる店があっても一人でふらりと入っては行かないのだ。多分こちらに気を使っているのだろう。ちらりと一回アーサーを振り返って、アイコンタクトを求めてくる。 それが本当に小動物のそれそのままで、今日になって何回吹き出したかわからないくらいだ。 ――ユニオンジャック柄って、少ないんですね。 雑貨屋でマグカップをしげしげと眺めていた本田がそんなことを零した。 なんでも日本では雑貨屋にいけば小さい店でも最低3つはユニオンジャック柄の何かがあるそうなのだ。そう言われてみれば、アーサーが来日した時も妙にユニオンジャックが目についた気がしないでもない。外国の店とは、案外そんなものなのかもしれなかった。 けれどここはイギリスだ。日本に日の丸ものがあまり置いてないのと同じくして、ユニオンジャックは少ない。 そう説明してやると本田は、ああそうか、そうですね。腑に落ちました、とだけ言って、また白いカップに目を投げた。 日本国内の情勢が本田自身とリンクしているのは確かだろう。けれどその内部全てが本田と繋がっているのかまでは不明だ。 つまりはあの国におけるイギリス流行りが本田の心を映しているのか――はたまたそれとは解離した国民の意思であるのか――そこまではわからない。 ただ、前者であればいいと、思ったりはする。 * * * * * * * * * 「お? 今日はアールグレイ流行りじゃなかったのか?」 コトリと本田の目の前に置かれたティーカップから香るのは、柑橘系のベルガモットのそれではない。ダージリンティーの、甘いマスカテルフレーバーだ。 頬杖をついたアーサーがそう揶揄すると、本田が口の端を持ち上げてこう返す。 「あいにく気分屋でしてね。今はこっちが飲みたくなりました」 「ふーん。まぁ、いいよな、ダージリン。俺もすき」 「ふふ。そういえばアーサーさんはあまり紅茶の好みが偏っていませんね。いつも色々な茶葉をお飲みになってらっしゃる」 「俺だって気分屋なんだよ。お前と同じだ」 そうですかと笑った本田が、右手でティーカップを持ち上げる。そしてその上品な口元がカップの縁に口付けて、こくりとひとくち飲みこんだ。 日の光に当たってもなお黒さを保ち続けるその髪がさらりと風にほどける。 その一部始終を見守ってから、アーサーは自分の前に置かれたカップの持ち手に指を絡めた。 まばゆいその姿から、そっと目を離して。 綺麗だよと言ってやろうか。 思った通りに率直に。 それが出来たならどんなにいいだろう。 時折無性に自分の捻くれた性格が恨めしくなるのだ。 綺麗な物を綺麗と言えない、開けば皮肉ばかりのこの口が恨めしい。 例えばこうやって二人きりでいるときに、素面でその形の良い耳に愛を囁けたらどんなに――。 「あ、そうだ」 ふと思いついてアーサーはカップを静かにソーサーに戻し、口を開く。 「お前この前スーツ新調したいって言ってただろ。こっからちょっと行ったところに……本田?」 テラスを挟んで反対側の通りの店を目で指したのだが、本田の反応がない。気になって視線を戻してみると、本田は俯いたままカップの中を見つめている。 その中身は空に見えるのだけれど。 「本田、どうした?」 黒い前髪が簾のように本田の顔を隠してしまっていて、うまく表情が窺えない。 心配にそっと手を伸ばしたら、彼の手の中でぐらりとカップが傾き、次いで床に垂直に落ちて乾いた音を立て割れた。 その様子にアーサーは目を剥く。 「ちょ、本田! 大丈夫か!? ケガは……」 駆け寄って本田の手を取った。それでも本田は言葉のひとつも発しない。 どういうことなのかと顔を覗きこもうとしたら、その頭がぐらりと揺れてちょうどアーサーの腹のところへと落ちてきた。 いつもだったら舞い上がるようなシチュエーションだが、こんなときにそんな考えに至れるほどおめでたい脳は持ち合わせていない。 声をかけた。それはもう何度も。けれど彼の反応はやはり無い。 頬を叩いても目を開けない。 気を失っている。原因が何なのかまではわかりはしなかったが、とにかく救急車を呼ばねばならないことだけは確かだった。 「おい、お前! 救急車を呼べ!」 近くまで様子を見に来た店員にそう叫ぶ。しかし本田と話していた時の癖で日本語で喋ってしまったせいか、首を傾げられてしまった。 "Call ambulance!(救急車を呼べ!)" 言い直す。しかしそれでももたついている店員に腹が立って、店の中だということも忘れて怒鳴り散らした。 "It's emergency!(はやくしろよ!)" 店員が持った携帯電話を乱暴にひったくる。そして「999」の番号を連打。 こちらにもたれかかった本田はやはりピクリとも動かない。 電話が繋がった後、はたして要件を全て伝えきれたのか、その記憶は酷く曖昧で。 とにかく本田になにかあったらどうしようという不安だけが頭の中をぐるぐると渦巻いていた。 わめき散らしてしまった。――紳士が聞いて呆れる。 * * * * * * * * 「アーサーさん……?」 静まり返った寝室で、蚊の鳴くような本田の声がぽつりと聞こえた。 ベッドの横で船をこいでいたアーサーがそれを聞き逃すことはなく、おまけに眠気はどこかへと吹き飛んでしまう。 「き、菊! 気がついたか!」 「あ……すみません、私……」 「いいから寝てろって。無理すんなよ、お前倒れたんだぞ?」 ――病院に運びこんで診てもらったところ、過労による貧血だと診断された。 わかってはいたが、やはりこいつも仕事を詰めていたのだ。あんなに根を詰めるなといったのに――そう思うと同時に自分に会いに来るためにこんなになるまで頑張っていたのかと、そんな考えが浮かんできて、胸がぎゅっとなったというのは否めない事実。 最後のところだけを省略して本田にそう伝えると、彼は存外平気そうな顔をして、けれど困ったように眉を寄せ「申し訳ありません」とひとことだけ謝った。 「御迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。折角のお買い物も中断になってしまいましたし……なんとお詫びを申し上げればよろしいのか……」 「んなこといいって」 「でも、アーサーさんだって何か買うものがあったでしょう? それなのに私……」 「あーもう!」 口の減らない本田に向かって手を伸ばす。そしてそのまま抱きしめた。 デートの中断が残念じゃないかと訊かれたなら、もちろん「ノー」とは言えやしない。 けれど今は、そんなことよりも本田の体の方が心配で大切に決まってる。 「アーサーさん、苦しいですよ」 「うるさい。話を聞かない悪いやつにはおしおきだ」 「ふふ。それ、アルフレッドさんに云ってらしたんですか? 本当に面倒見のいいお兄さんですね」 アルフレッドの名を耳にして赤面する。別に変な意味ではなくて、無意識に出てしまった昔の口癖が妙に恥ずかしくなっただけの話なのだが、それにしても今の態度は我ながら痛い。 「あー……まぁな……でも昔の話だし。最近あいつのところ行って看病とかしねーし」 「その前にお風邪を召されることが無いような気がしますね」 「まぁ、そうだな……」 くすりと笑った本田の額に手をやってみると、やはりそこは人肌にしては熱を持ちすぎていた。顔色は悪くはないけれど、やはり卒倒した手前、安静にするのがいいだろう。 どうすれば眠ってくれるだろうかとしばし考えつつ、そのままその滑らかな黒髪を数回梳いていると、本田がそっと目を閉じた。 作りこまれたように繊細で綿密な睫毛を伏せて。 「……でもお前の方が全然楽だ。アルなら寝ろっつっても絶対寝ねぇもん」 思い立ったことを口にすると、闇のように深い色合いの黒眼が、そっと瞼の間から覗いた。 「厭ですねぇ。こんな年寄りと一緒にされたら、お若いアルフレッドさんが泣きますよ。というか、子供じゃないんですから」 「はっ。それもそうだな」 そろっともう一度だけ頭を撫でて、立ちあがる。時間的にまだ明るいせいで、外から入りこむ光がカーテンを通して柔らかく室内を照らし、それが本田の黒髪を一層美しく引き立てているような気がした。 気のせいといえば気のせいかもしれない。だっていつだって本田は綺麗で、美しくて――口付けてしまいたくなる。 奪って、ひん剥いて、触れて、そして。 (けど、病人にそれはマズイよな) 理性を保つ意味などとうの昔に捨てたけれど、今日ばかりはそうはいかない。 懐かしい感覚だ。何年前かまで味わっていたこの、身を焦がすような情欲。 美しいものを美しいと愛で、欲しいものは力づくでも奪ってきた大英帝国の成れの果てが、どうしても強引に掻っ攫うことが出来なかった相手。 それがこいつだ。 「じゃあ俺は隣の部屋行ってるから、電気消して寝るんだぞ」 理性を打ちのめすのなんか簡単だ。少し前までずっとそうやってきたのだから。 アーサーは自分に添う言い聞かせ、そっと踵を返す。 「……お仕事をなさるつもりで?」 ぎくりとした。実際その通りだが、これはただの質問ではない。 少し口調が強い。 「あー……いや……」 「こっち、来て下さい」 本田のことだから、『仕事のし過ぎです』というのが次の言葉だと思っていたのに。意表を突かれた。 けれどやはり少し怒っているような気がしなくもない。いや、これは熱があるからちょっといつもと違うだけなのか―― ぐるぐると回る思考回路は、回るだけで意味をなしてはいなかった。 困惑の表情を浮かべながらベッドに向かって再び足を進めたアーサーの、その手をそっと本田が握る。 思わずびくりとした。 「……お厭ですか?」 「ち、違……っ。ちょっとびっくりしただけだ」 「そうですか。それならいいのですけれど。……あの。私が眠るまで、手でも繋いでいて下さいませんか。寝てしまったら離していいですので」 一瞬、耳を疑った。 ――あの本田が甘えている? 「いいけど……どうしたんだよ。急に」 「さぁ……動機なんて何でもいいじゃないですか。年寄りだってたまには甘えたくなるものなんです、よ、っと」 「! ぅわっ」 語尾と同時に腕を引かれ、勢い余ってベッドの上へと雪崩れ込んだ。 文句を云いながら起き上がろうとすると、本田の両手がアーサーの両手首をしっかりと掴んで、逃せまいとする。 「ちょ、なにす……」 「ねつ」 「は?」 「熱、あるでしょう。ほら」 左手首を掴んでいた手が、そっと首筋から顎のラインを滑り、アーサーの体温を探ろうと額へと辿り着いた。 微かに本田の体温を感じるが、あまり変わらない気もする。 変わらないのが問題だ。 「き、気のせいだろ」 「いいえ。いくら爺とはいえ、そこまで鈍麻していないつもりです。観念して今日だけはお休みになって下さいな」 ゆったりとした口調と優しい視線にそう諭される。 けれども本田の具合を考えるとやはり、一人で寝かせた方がいいのではなかろうか。 そんなことを考えて、風邪をうつしたら悪いだの全然平気だのとあれこれ言い訳をしてみたが、それも全てかわされてしまった。 挙句の果てには「私と添い寝するのはお厭ですか?」などという誘い文句を繰り出してくるもんだから叶わない。 嫌なわけなかろう。むしろ四六時中こうしていたい。無理だと知っているから尚のこと。 そっと布団をめくる本田の隣に滑り込む。高めの体温でぬくもりが心地よくて、寝不足の体に染み入るようだ。このまま睡魔に委ねたっていいが、それもまた勿体ない。 「――……何もしないでこうして隣で寝る機会って結構少ないので新鮮ですね」 ぽつりと腕の中の本田が零す。 「んだよ。ヤってばかりみたいに言うな」 「ふふ。でも、あながち間違ってないでしょう?」 「そーだけど……」 けれど別に、そういうわけじゃない。いや、厳密にいえばそういうわけでないわけでもない。 言い訳をしようとしてこんがらがっていると、本田がくすりと笑った。 「何を拗ねてるんです」 「別に拗ねてねーよ」 「ならこっちを向いて下さい。違いますよ、そういう意味じゃなくて。ただこういうのもいいなと思っただけです」 アーサーの衣服の胸元を掴んでいた本田の指に、僅かだが力が籠ったのが見えた。 「お互い忙しくて、全然会えないし。だから会ったら会ったで求めてしまうんですよ」 「え……」 驚いた。本田がそんなことを考えていただなんて。 この黒い瞳の奥にそんな感情が隠されていたのか? いまこうして見つめても、その深さに吸い込まれそうになるだけで何も感じ取れやしないのに。 ――いや、感じ取れないわけではないか。 「……アーサーさん」 見えたのは情欲。近づいてきた唇が、遠慮がちにアーサーのそれと触れ合う。 口付けというには、それは酷く稚拙で。まるで慣れていない色仕掛けだけれど、それで十分。アーサーの理性を溶かすことが可能なのは、世界で唯一この唇だけだ。 触れるだけで熱い。胸の奥深くにしまいこんでいる大切な何かが、暴れ出そうと熱を持つ。 躊躇いがちなキスを深くしたのは、勿論アーサーの方だった。何度も押しつけて、その度に深みを増す。 息を継ごうと微かに開かれた狭間に舌をねじ込んで、掻き回す。 上顎をくすぐって、絡め取って。弄んでいるのか弄ばれているのか。それすらもわからなくなる。 水気の混ざった音を立てて離れていった唇が、苦しそうな息を吐きながら恥ずかしそうに歪んだ。 「……っ……長い、ですよ」 「お前が誘ったんだろ?」 「ち、違いますよ」 「違わねーじゃん」 「ちが……違いません、けど……その、熱の、せいです」 そうかと納得するには、説得力に欠ける答えだ。アーサーは小さく吹き出すと、その腕の中でもぞもぞと顔を隠そうとする本田の顎をすくい上げた。 陶器のように肌理の細かい頬が赤く染まっている。これも熱のせいであるというのか。 発熱はしている。本来ならば、何と言ったか――本田の家で風邪を引いてしまった時に彼が用意してくれた氷の入った袋を用意すべきなのだろうが、残念ながらうちにそんなものはない。あったとしてもせいぜい冷凍グリンピースの袋くらいだ。 汗で額にくっついた黒髪にしても、上昇した体温のせいで荒い吐息にしても、風邪の症状によるものなのだとわかっているのにそれが綺麗だなんて思ってしまうからどうしようもない。そんな場面ではないというのに。 でも、綺麗だ。本当に美しい。 無い物強請りなのかもしれない。 俺は持っていない。寝返りを打つたびにさらさらと流れるその濡れ羽色の髪も、瞬きをする度に見入ってしまうその憂いを帯びた漆黒の瞳も、舌を喜ばせるような料理を作るその繊細な指も―― 俺は持っていない。全て、なにひとつ。 「――綺麗だな」 するりと言葉が滑り出て、驚いたのは言われた本人よりも言った張本人の方だった。 無意識というには意識があったが、けれどいつもはこんなこと口になんてしないのに。 「なんですか、唐突に……」 一息置いてから、本田がそう零す。口調だけだったら呆れているように聞こえたが、その耳はこれ以上ないくらい真っ赤だ。 それを目にしたら、もう一度同じ言葉が転げ出た。いや、一度といわず、二度三度。 ――綺麗。綺麗だ。 単純で簡潔だけれど何よりも適切であるその日本語を、ひたすら繰り返す。 幾度も繰り返すうち、耐えられなくなったのか本田が「もう!」とかぶりを振った。その仕草すら可愛くてまた笑うと、頬を染め上げた本田の黒い瞳が下方からこちらを睨めつける。 「もう黙って下さい。なんなんです、その突然のデレ期は」 「デレ……? なに?」 「いつも皮肉ばっかりおっしゃっている癖に。そういう口説き文句はフランシスさんの担当でしょう。それに、男に綺麗という形容はどうかと思いますがね。可愛いと云われるよりは良いですが、それでもそれは女性に対する賛美の言葉なのではないかと個人的には考えますが……」 照れた時の本田は本当によく喋る。本人は意識していないようだけれど、いつもの3倍くらいは舌が回っている気がする。 つらつらと流れる照れ隠しは、アーサーが落とした額へのキスで途切れた。 顔を覗き込むと、視線を彷徨わせた本田がそっと口を開く。 「からかわないで下さい」 「からかってねぇよ」 「じゃあなんです今のは」 「ん? 綺麗だったから、したくなっただけ」 「ほらまた! もう。熱のせいですか?」 「……そうだな。そういうことにしておく」 実際そうかもしれないと思う。頭がぼーっとするのも確かで、口の滑りがいいのも確かだ。 いつもこうだったらいいのに。ふとそんなことを思ったら、口から漏れてしまったらしい。本田が困惑した顔をした。 「それは、どういう意味で?」 「へ……」 「私が、積極的になればいいのですか? アーサーさん、やはり奥手はお嫌いで?」 「あーいや、えっと、違う。それはそれで嬉しいけど、そうじゃなくてさ……」 「?」 「皮肉、ばっかなんだろ。お前から見たって」 少し卑屈な言い方になってしまった気がする。視線を逸らして口を噤むと、つられたように本田も静かになった。黙り込んだ本田が何を思っているのか。心配になって何か言おうとしたが、先に口を開いたのは本田の方だった。 「……嫌いじゃないですよ」 「え……」 「嫌いじゃないです。だって、皮肉あってこそのあなたでしょう?」 まっすぐな瞳がこちらを射抜いた。 国民性は反映される。それが自分の全てではないけれど、やはり捨てきれない構成要素というものがある。『皮肉』は英国にとってそういうものだ。 けれど―― 「ならば、塞いでしまいましょう」 するり。本田の細い指先が、アーサーの唇の輪郭を辿る。 「え?」 「皮肉ばかりがお厭なら、塞いでしまえばよいのですよ」 指が離れて、代わりにキスがひとつ。 皮肉ばかりで恨めしいその口が、ゆっくりと蕩けそうになって。 「……これなら何も云えない」 そう言って本田の口元が優しく弧を描いた。 胸が熱く苦しいのは、風邪のせいではないだろう? アーサーはそっと目を瞬かせ、そしてゆったりとした口付けを返す。 確かにこうしていれば皮肉の一つも言わずに済む。 けれど塞ぐだけじゃ駄目なのだ。何故ならば、 「――好きだ、菊」 伝えたい言葉が伝えられなくなるから。 「どうしたんです。本当に今日はデレが満載ですね」 身を捩った本田の口から、照れ隠しの饒舌が滑り出た。 お前だってそうだろ、と揶揄するアーサーの言葉にくすぐったそうな笑いを浮かべ、次いで意地悪な一言を。 「熱のせい、でしょう?」 そう言って、頬を紅潮させた彼がふんわりと微笑む。 (お前はそうかもしれないけど……) ――本当は、知っているのだ。 こんな微熱なのだから、風邪っぴきのうわ言だと誤魔化すには無理があることくらい。 |
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