飴細工の恋をして・後編 ※



――惹かれていた。
目を引くようなブロンドの髪に、それから覗く宝石のような翠眼。よく通るその声も、生徒会長という肩書も、物事に対する姿勢も、その全てが自分とはかけ離れていて。
惹かれていた。彼の気持ちを確かめる余裕がないくらい、それはそれは強烈に。

「……え? なに……、……なんですか……?」
 放課後の校舎内。つい惰眠を貪ってしまっていたわけだが――目を開けると、赤い世界の中に彼がいた。
 しかも信じられないくらいの至近距離である。おまけに、唇の感触が、おかしい。
 困惑して間抜けな声をあげた。わけのわからないまま見つめ返すと、彼の顔がぱっと遠のく。
 夕陽のせいで見た目上は赤い。けれどその表情は、どちらかといえば「青」かった。
(今のって……)
 キス、だったと思う。――違っただろうか。気のせいか?
「あの、会長……」
 確かめたくて声をかけた。するとその刹那、彼は踵を返し走り去ろうと足を踏み込む。
――なにを思ったのか、手を伸ばした。その腕を掴んでしまった。
 アーサーの体が少し弾んで、いつぞやの万引き犯のごとくその手から逃れようともがいた。しかしその力は容易くねじ伏せられるほどに弱い。逃げる気がないのか。それとも。

「――待ってください」
 状況と態度で、寝惚けた自分が見た夢ではないようだと思った。
 キスされた。この人が、私にキスをした。けれど、なぜ。どうして、そんなことを?
「は、離してください」
「……厭ですよ」
「い、いやってなんですか。離してください」
「あなた……人の寝込みを襲っておいて、その云い草はないんじゃないですか?」
 びくりと掴んだ手首が強張った。向こうを向いているため表情は見えなかったが、その反応で、「もしかして」が確信に変わる。

「…………ごめんな、さい」
 長い長い沈黙の後、やってきたのはそんな謝罪だった。
「ごめんなさい」
 どうして謝るのか。そう尋ねたが、答えは返ってこなかった。彼はただ、うわごとのようにその6文字を繰り返すだけ。絞り出すような、小さな声で、何度も何度も。
「こんなつもりじゃなかったんです……」
 ごめんなさい、ともう一度――今度は強く言い放って、彼は走り去って行った。
 逃げるその手を、いつの間にか放していたことに気がつく。けれどもう遅かった。背後から舞い込む風に目を眇めたと同時、彼の足音を遠くに聞く。
 動くことも、呼び止めることもできなかった。
 四肢が痺れたかのように云うことを聞かなくて、言葉を忘れた口が半開きになって留まる。そのまま開け続けていたら荒れ狂う心臓が飛び出してきそうで、かといって口を引き結ぶと、なにやら生々しい感覚が唇の上を走る。
 柔らかくて染み入るようで――……少し、甘い。
 もたれた壁がひんやりと冷たくて、けれど首から上がぼうっと熱かった。



* * * * 



「本田先輩の好みって変わってますよね」
 そう云えばいつだったか、屋上でそんなことを云われた。なんのことだと眉をひそめると、アーサーは本田のカバンの横に転がっている飴の包装紙を指差す。
「それとか。べっ甲飴でしょ? 普通あんまり高校生でべっ甲飴好きっていませんよ」
「別に……人の好みなんてどうでもいいでしょう。個人の自由なんですから」
「でももうちょい、他のも試してみたらどうですか? いつもそれじゃないですか。同じものを食べ続けるのって、意外と体に悪いものなんですよ」
「いつもべっ甲飴じゃありません。たまに塩飴とか梅飴とかも買ってます」
「なんでそんな爺くさいのばっかなんですか! もっとなんかあるでしょ! チュッ●チャプスとか、こう、若者向きなものが!」
「面倒な人ですね。……大体、私ああいう飴って嫌いなんです」
「『ああいう』? どういうですか」
「だから、人工甘味料とか香料とかを使ってたりする飴ですよ。 なんか安っぽいし、嘘くさくて厭なんです」
 うそくさい? とオウム返しをした彼が首を傾げてくる。その仕草がやけに子供っぽく見えた。
「作りものっぽいんですよ。本当は甘くもないし香りもしないのに、人がそう感じてるってところが」
 へぇ、そうなんですか。と彼は相槌を打つ。話をしたらべっ甲飴が食べたくなって、おもむろにカバンの中に手を突っ込んだ。しかしタイミングが悪いことに、パッケージの中身が見事にからっぽだ。

「あー……切れました。ちょっとあなた、買ってきてくれません?」
「へ? なにをですか」
「べっ甲飴を」
「べっ甲飴? って売店で売ってるんですか? っていうか不良なら普通そこは、あんパンとかメロンパンとか牛乳とか買ってこいって言いませんか?」
「だから不良じゃないですし……大体どこの絶滅危惧種ですか。……というか、パシられることに対する疑問とかはないんですね」
「え? 全く」
「ああそうですか……」
 きょとんとする場面ではないだろう。しかしこの口寂しさを如何にして誤魔化すべきだろうか。とりあえず当面は禁煙をしているので、煙草は避けたいのだが。
 そんなことを考えていると、アーサーが「あっそうだ」と弾かれたように立ち上がった。そして自分のカバンの中に手を差し入れて、何やら四角い箱を取り出す。
「あ。じゃあ、これ、なめててください。先輩の言う人工甘味料とか、多分そんなに気にならないと思うんで」
「……なんですこれ」
「え! チェルシーですよ! 知らないんですか?」
「ちぇる……?」
 首を傾げると、心底驚いた顔をした彼がそのまま眉間に皺を寄せる。
「もしかして食べたことないとか? うわー、人生絶対損してますって。あ、もしよかったらあと二つくらい」
「え。いいですよ。お気になさらず……我慢しますので」
 そう断りを入れるが、アーサーはちっとも聞かなかった。受け取ろうとしない本田に痺れを切らせたのか、半ば無理矢理手に握らせ、それでも遠慮をしたのだが、最終的にはポケットの中へ幾つか押し込まれてしまった。
 流石にそれを返すのは子供っぽく思い、仕方なしに受け取ることにした。包装紙からして学生には贅沢なようなデザインだったが、その味は如何なものだろうか。
 少し考えて、けれど『バタースコッチ』という味の表記を見て想像するのを止めた。

 飴にバターを入れるとは何事か。

 そんなことを思ったりした。



* * * * 



「え? いないんですか?」
 文化祭当日、散々悩んだ挙句朝一で本田が訪れた場所は他でもない、生徒会室だった。
 意を決してやってきたというのに、拍子抜けだ。どうやら我らが生徒会長様はお出かけ中らしい。忙しいのだからそんなこともあるだろう。文化祭なのだ。むしろ捕まる方が奇跡といってもおかしくない。
 そんな云い訳を自分にしながら踵を返そうとしたところで、生徒会役員のひとりがおずおずと本田を呼びとめた。
「あの……よかったら連絡してみますか? 電話とか」
「ああ、いえ。急ぎではないので」
「じゃあ伝言とかあったら伝えておきますけど……」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。そのうち会えるでしょうし」
 何の用かなんて、まさか云えるはずもない。昨日実は生徒会長が私にキスをしてきたので、その真偽と理由を窺おうかと思って――そんなことを云ったら、きょとんとされること間違いなしだ。
 尤も、楽しむ輩もいないとは云い切れないが。

 軽く会釈をして、今度こそ生徒会室を出る。すると出てすぐのところになにやら掲示板めいたものがあり、ご親切にもそこに今日のスケジュールが書き連ねてあった。
 近づいて目を凝らして、枠の中を見る。随分と神経質そうな字だ。なんだか書き手の性格が見て取れる。
それが云うには、今日は朝7時から体育館で開会セレモニーの最終チェックが行われているらしい。
 リハーサルならば、居ないわけがないだろう。そう思って会場へと足を進めた。

 しかしながら流石は年内イチ皆が楽しみにする行事だけある。まだ朝の7時後半だというのに、どこもかしこも人だらけ。トイレや更衣室から何やら化粧品の匂いが漂って、いつもとは少し違う雰囲気に顔をしかめる。特別な日だからと、皆着飾っているのだろう。
 男にそんなことは無縁だ。こと自分に関しては特に。着飾ることに興味がない。

 そうこうしているうちに、体育館へと辿り着いた。雨を防ぐためだけにある、申し訳程度のトタン屋根がトントンと軽快なリズムを奏でている。どうやら知らぬうちに雨が降り始めたらしい。
 入口が開いていたのでひょいと顔を出すと、中は照明が落ちて薄暗かった。ステージ上にいるのは、何年の生徒だろうか。ギターを持ってマイクセットをしているところから察するに軽音楽部なのだろうが、全くもって見覚えのない顔だ。

「あれ? 菊ちゃんじゃん」
 ドアに半身を隠しながらアーサーの姿を探していると、不意に後ろから声を掛けられた。
 振り返らなくとも、聞き慣れた声だ。誰だかはすぐわかる。
「――フランシス先生。どうしたんです?」
「どうしたって、そりゃこっちのセリフだよ。なにしてんのこんなところで」
「いえ、ちょっと人探しを」
 歯切れ悪くそう云うと、先生は口元を歪めてニタリと笑った。
「ははーん? 恋人?」
「違いますよ」
「いつの間にそんな奴できてたわけ? 最近保健室に来ないと思ったら、そういう訳だったのかぁ」
「……違うって云っているでしょう。先生はどうしてそう、物事を全部そっち系に持って行こうとするんですか」
「えー? それはね、世の中は愛で出来ているからだよ。君と俺がここでこうして出会えたのも……」
「あーはいはい。わかりましたわかりました」
 するりとかわすと、フランシス先生は子供のように口先を尖らせて拗ねた。

―― フランシス・ボヌフォワ。この学校の保健医である。保健室を頻繁に利用する本田にとっては担任よりも親しい存在であり、またこの軽い性格であるから打ち解けるのも早かった。カウンセリングこそしないが、本田がサボりに来たとて文句は云わない。そこが本田は気に入っている。
 しかしながら最近確かにあまり顔を出していなかったなと、今更になって思う。何故だろう。そう考えて、あの小煩い生徒会長のせいだと思い当たった。最近いつも、どこにいてもあの人が追いかけてくるから、保健室でサボるなんてことは到底出来やしなかったのだ。
 そう、追いかけて来ていたから。

「……なーんか暗いね。なにかあった?」
 図星を指されたかのようなその言葉に、思わずびくりと反応してしまう。取り繕おうと言葉を並べるが、どれも説得力に欠けて、先生の追及に拍車をかけただけだった。
「言いたくないってんなら別にいいけどさ。お兄さん、菊ちゃんのその顔見てるとほっとけなくなっちゃうから」
「顔? どんな顔だって云うんです」
「うん? ……そうだな、『寂しいです』って云う顔」
「は?」
 心外な言葉に、思わず間抜けな声が出る。
「そう思ってるでしょ?」
「思ってないです」
「隠したって駄目駄目。ダテに保健の先生やってないからね、後ろ姿でわかるよ。それで? 誰を探してたのかな?」
「…………!」
 数歩でこちらに寄って来た先生が、きょろと体育館内を見渡す。答えずにそのまま黙りこんでいると、じっと顔を見つめられる。

 この人の、ここが苦手だ。心の中を覗くように、じっくりと観察をして――
「坊っちゃんなら、多分正門だよ。アーチの装飾の指揮取ってるんじゃないかな」
――痛いところばかり突いてくる。


* * * * 


……云われるがまま足を進める自分は何なのだろう。
 事実確認をして、そのあとどうしたいのか。実のところそこがよくわからない。
 会って、何を云うつもりだ。あの時私にキスをしたのか。何故キスをしたのか。
 それを訊いてどうするというのだ。

「――いない?」
「うん。さっきまで居たんだけどね。困ったよ。全くアーサーの奴、一体どこに行ったんだか。作業が全然進まないじゃないか」
 眼鏡の男が、そう憎まれ口を叩いた。ここにも、いないようだ。
「どこか、心当たりとかってあります?」
「えーどうかなぁ。体育館とか?」
「そこには居ませんでした」
「そうなのかい? んじゃあ校内でも回ってるのかもしれないね。見つけたら早く持ち場に帰ってきてくれって伝言頼むよ」
「……わかりました。どうもありがとうございます」
 そう云って、踵を返す。仕事があるというのに、どこをふらふらしているのだろうか。

 その後校舎内を一通り回ってみた。気がつけば文化祭のセレモニーもとっくに始まっている時間になっていたが、それでも彼の姿はどこにもなかった。
 目撃情報はあるもののそれはいつでも一足遅く、捕まらない。
 まるで追いかけっこでもしているかのようだ。逃げられているようで。
――逃げられている?
 そんな言葉が降ってきて足を止めた。

 逃げているのか。あの人は。
 そういえばこの前も、私の腕を振り切って必死で逃げて行ったのだった。

 何故逃げる。
 自分はこうして、あなたを追いかけているというのに。

 けれど追いかけて何になるというのだろう。
 逃げるなと引きとめて、その後は。

 気がつけば自分の教室の前――昨日、彼とああなったあの教室の前にいた、
 本田は人気のないそこの中へふらりと足を踏み入れると、昨日まさに自分が座っていた、窓際のその椅子に腰をかけた。
 視線を落とす。すると茶色の床の上に、自分の影が落ちていた。
 その輪郭が酷く曖昧で、意味もなく目で辿って、何だか虚しくなる。
 
(どこに行ったんですか。いきなり顔を見せなくなるなんて、そんなのは無しでしょう)

 廊下に響き渡るのは、準備にいそしむ生徒たちのざわめき。
 それが壁を隔てたように少し遠くて。
 そのくせ彼の声だけが脳裏に焼き付いて離れない。

 ため息をつき壁にもたれかかると、ズボンのポケットに違和感を感じた。
 気になって手を突っ込むと、酷くタイミングの悪い物が姿をあらわす。
 
 彼に貰ったあの飴だ。

 ポケットに入れたまま、食べずに放置していたのだった。
 彼の持っていたこの飴の箱の原材料を盗み見て、躊躇ってしまい食べれなかった。
 
 けれど包み紙を開けた。
 そして一息にほおばり、ころりと口の中で回す。

(…………甘い)

 予想していた通り、それは本田の舌には甘すぎた。
 粘っこくてしつこくて、色々なものが混ざり合っている。

 でも、この味だ。

 これは彼の味だ。

 それは、酷く……酷く甘いキスだった。砂糖で作る琥珀色の飴よりも、ずっと。

 バターの味がした。濃厚さにくらくらした。
 私はこの味から逃れられない。

 この感情を世間一般ではなんと呼ぶのか。
 寂しさか、苛立ちか、それとも――

 髪をかきあげて、それを乱暴に掻き回した。
 脳が痒い。頭の中を、疼くように波が行き来する。
 
 考えることを拒否するように、ノイズが邪魔をして。
 もうわけがわからない。

 それでも、ひとつだけ確かな感情があった。

 掻き抱きたいのだ。彼を。それはもうどうしようもなく。

 手を引いて、捕まえて、それから。
 


* * * * 



 準備期間ならば賑わっているだろう生徒会室も、文化祭当日となれば存外閑静なものである。いつもならば五分と開けずに来訪者があるのだが、いまはどんなに待てどそのドアを叩く者はいない。
 というのはおそらく、まさに中夜祭のセレモニーの最中だからだろう。セレモニーだからといって強制参加ではないのだが、ファッションショーなどの目を引く催し物が多いため、ほとんどの生徒が参加をしている。
 生徒会長という立場を考えるのであれば、出席をするべきなのかもしれない。けれど実行委員は別にいるし、何より行ったところで楽しめる気がしない。

――こんな気分では。

 とりあえずやることもないし、文化祭実施後に行うアンケート調査の用紙でも用意しようと思いつく。手持ち無沙汰だと思考が捗ってしまっていけない。
 文書のデータはどこにやったのだったか。USBメモリを探してきょろと首を振ると、室内の長机の角に刷られたそれがちょこんと乗っている。誰かが既にやったのか。随分と仕事が早い。
 本来ならばこういった仕事は書記にやらせているアーサーだったが、今日だけは特別だ。というか、むしろ仕事があることに感謝しているくらいで。

「……ひとクラス大体40人くらいだよな?」
 静まり返った生徒会室に、ぼそりしたとそれが響く。

 立ったままの作業はつらいからと、椅子に腰をかけた。生徒会長専用の少し大きめな椅子だ。座り心地も他の椅子とは比べ物にならないくらい快適で、多分結構値が張る。
 その包み込むような座り心地とここ数日の疲れが相まって、アーサーの瞼を重くした。おまけに延々と数を数えているのだ。羊効果も上乗せだろう。
 最初は瞬きが長くなって、段々と目が開かなくなる。そしてそう間を開けずに、アーサーはふっと意識を手放した。


 次に意識が戻ってきたのは、気分的にはその直後。しかしおそらく、時間的にはもう少し経っていたと思う。自然に目覚めたというよりは、何か空気の流れを感じて目が覚めたという方が正しい。
 瞼を持ち上げると、なにやら周りが暗かった。まさかそんな時間まで寝こけてしまったのか。そう思い目を瞬かせた。すると、はっきりとしてきた視界に、とんでもないものが映る。

「――――……!」
「おや、お目覚めですか?」
 まさか、と思ってもう一度瞬きをした。寝惚けているのか。まだ自分は夢の中なのか。けれど何度瞬きを繰り返しても、眼前に迫った本田は消えない。
「ほんだ、せんぱ……? え……?」
 早まる鼓動が頭にガンガンと響いて、辺りが一瞬ぐらりと歪んだ。その視界の中で、薄い唇が弧を描き――そして。
――それが近づいて重なる。
「ん、……んん!」
 触れあった唇が、角度を変えて二度三度。次いで後頭部を押さえられて深くなる。少し体温の低い本田の口付けは酷くゆったりとしていて、アーサーの思考回路を鈍くした。
「なん……っ、なにを……」
「……少し……」
 黙って下さい、と伏し目がちにそんなことを言う。この光景は一体何なのだ。わけがわからない。
 そっと近づいてきた顔をもう一度観察する。しかしやはりそれは紛れもなく本田菊、その人だ。パニックに陥ったアーサーは、その両肩を思い切り突き飛ばしてしまった。

 ドンと鈍い音がして、本田の体が後ろへよろめく。怯んだ本田の呻き声を横目に、椅子から立ちあがりドアの方へと駆けて行った。混乱した頭がなにやら危険信号を出していて、逃げ出さずにはいられない。
 ドアノブを掴み、手前に引く。その瞬間、後ろから伸びてきた白い腕が開こうとする扉を制した。
「――逃げないでくださいよ」
 若干手前に開いていたそれが、叩きつけられて閉じ、酷くうるさい音を立てる。その余韻が一瞬だけ室内に響いていたが、次には耳がキンとするような沈黙が待っていた。
「て、手を……どけてくれませんか」
「厭です」
「出して、くださいっ」
 押さえられていては開かないことなどわかってはいるけれど、ガチャガチャとドアノブを引く。背を丸めて下を向くアーサーの真後ろから、本田が覆いかぶさるようにドアに手をついていた。その影が木製の扉に落ちるだけで、本田の表情など到底わからない。
「どうしてあなたはいつも、そうやって逃げるばかりなんです」
 ぼそり。耳の後ろでそんな呟きを落とされて、背筋をなにかひやりとした感覚が這い上がる。
「逃げるって……別に俺は、そんな」
「あなた――私のこと、どう思ってるんですか?」
「……!」
 突然の問いかけに、過剰な反応をしてしまう。そんなことを尋ねるということは、多少なりとも確信があるということだろう。
 ばれている。自分の気持ちが。確かにあんなことまでしておいて本田に気づかれないわけがないのだ。わかっていたけれど、実際に確認を取られるのは苦痛だった。
 答えを探ろうと、本田がもう一度同じことを繰り返す。それにまたぎくりとし、微かに首を横に振った。

「そ、それは、あの……ごめんなさい」
「……謝るんですか? 何故?」
「いや……だからその、ごめんなさい。俺……」
「あなた、この前から謝ってばっかりですね。何をそんなに謝りたいんです?」
 はっきり云ってくれませんか。そう云って、本田がアーサーの手を取った。目を見開くよりも速くその腕を引かれ、くるりと体勢を変えられる。木で出来ているはずのその扉が、背に当たって少し冷たい。
「なっ……」
 驚きに見上げると、眉をひそめた、いかにも不機嫌な本田の顔が目に入った。その表情に委縮すると、それで? と言葉を促される。
「謝っている理由をお聞かせ願えますか?」
 余分なくらい丁寧な口調に怯んだ。正直、言いたいはずがない。けれど。
「いえ……、悪いなって……そう思って……」
 歯切れの悪い返事をする。
「私にキスをしたことを?」
 落ちた視線に、屈んだ本田が映り込む。下から覗きこんで、まるで小さな子供に尋ねるような訊き方。だからなのか。酷く自分の心が幼くなったような感覚だ。俯くだけで、今にも泣き出してしまいたくなる。
 ぎゅっと目を瞑って、首を緩く横へと振った。
 そして戦慄く口を開く。
「……違います。き、キスしたことも……悪いと思ってますけど、そうじゃなくて、ちがくて」
――本田先輩を、変な目で見て……俺……

 言いきるかどうかのところで、ドアに持たれていた背中がずるりと滑り、そのまま崩れるように座り込んだ。足腰に、うまく力が入らない。視界が透明な膜で覆われていて、どうにも見晴らしが悪かった。
「あんなことするつもりじゃなかったんです。あんな……キスとかじゃなくて、ただ……」
「知ってますよ。わかってます。……おかげで風邪を引かなくて済みました」
 その優しい言葉に、じわりとまた目尻に何かが滲む。
 音が床に落ちてしまったかのように、酷く静かになった。おかげで聞こえるのは自分の心音だけ。耳の奥がキンと鳴って、そして。

「――さっきは、唐突にすみませんでした。私もそれは謝っておきます」
「……え?」
「寝込みを襲って悪かったです。でも、意趣返しとか、そういうんじゃないですよ。ただの仕返しです」
 別に恨みつらみとか、そういうのは無いですので。別にキスされたことも、特別怒ってはいませんし。
 そう謝られて、思わず呆けた。何故このタイミングで謝ることができるのか。自分ならば絶対に言えない。
 そこまで考えて、自分の汚さに心底嫌気がさす。

――卑怯な手を使った、と、思う。それはちょっとした出来心が突き動かした感情だったかもしれない。けれど自分の根本にあったのは、ちょっと試してみようとか、どんな反応するのかが見たいだけとか、そんな幼稚な感情なんかじゃなかった。
 触れたい。この手で、口で。本田先輩の全てに。
 触れたくて触れたくて――いつだってそう思っていた。不意のことなんかではないのだ。だからその分罪悪感が募る。自制がきかなかった自分を恨み、ぎこちないこの空気に心底頭を抱える。
 だってそうだ。俺は本田先輩が――
「――好きなら好きと、そう云えばいいんじゃないんですか?」
 沈黙を破ったその言葉に、アーサーの心臓は跳ね上がった。まるで見透かされたようなそれに、鼓動で息が酷く苦しくなる。おかげで喉が閉まって言葉が出てこない。
 何と返すべきか。頭が真っ白になって何も言えないでいると、本田もその場にしゃがみ込んだ。そしてそっとアーサーの髪に触れる。
 困惑した頭でも、その手つきがやけに優しいことくらいは感じることができた。

「保険をかけてばかりですね、あなたは」
「…………ほけん?」
 声がくぐもらないように、ちょっとだけ顔を持ち上げる。するとさっきとは打って変わったように穏やかな顔をした本田が、伏し目がちに続けた。
「いつだって私がどう出るのかを窺ってる。私がどうするのか、どう思ってるのか見極めてから、それを逆撫でしないように動く。……違いますか?」
 確かにその通りだ。アーサーは無言で頷いた。
「変なところだけ日本人に感化されてますよね、あなた。そうやって自らは動かずに、予防線を張ってばかりいる――そういうの、私すごく苛々するんです」
「…………す、すみません……」
 またしても謝ると、そうじゃなくて、と本田が首を振った。
「説教したいんじゃないんです。――……あのですね。したいようにして下さいよ。じゃないと……その……」
 言葉尻を濁すせいで、気まずそうに顔を背けた本田が何と言ったのか聞き取れない。アーサーは首を傾げた。
「え、なんて?」
「いえ……」
 言って、本田はまた緩く首を振る。そして少し躊躇った素振りを見せた後、頭を撫でていたその手を下へと滑らせて、そっとアーサーの手の上へと重ねた。どういうつもりなのか――そんなことを考えられるほど余裕ではない。目を見開くだけで精一杯だった。
 触れた瞬間、じわりとした体温が浸みこむ。その感覚に微かに背筋を震わせた。触ったことがないわけでもないのだが、まさか手をつないだりしたわけではない。何か物を手渡す時に触れてしまった程度の接触だけだ。だからこんなに長く手が合わさるのは酷く心臓に悪くて――

「……顔、赤いですね」
「へっ、あっ! いや!」
 紅潮した頬をじっくりと見つめながらの指摘に、アーサーのそれは更に染め上がった。否定はするけれど、自分でもわかる程に顔が熱い。その反応を見て、本田は面白そうに肩を震わせた。
「……知ってます? あなた、ちょっと手が触れるだけで耳まで真っ赤になるんですよ」
「――……っ!」
 知ってるも何も、もちろん自覚している。耳までとは言わず、正直首も熱い。
「――赤い」
 何か物思いに耽るようなぼんやりした言い方で、本田がじっとこちらを見やる。その視線が耐えがたくて顔を背けると、手の上に乗っていたその手がまたするりと移動して、アーサーの胸の上に止まった。
「せ、せんぱ……? なにを……」
「酷いですね、心臓」
 体が跳ねあがってしまうほどの心音は、少し服の上から触れただけの本田の指先にまで到達したらしい。恥ずかしさにかぶりを振った。
「これは……! その、せ、先輩がいきなり触ったりとか……するからですっ」
「へぇ。あなた、人に触れられるたびに鼓動が速くなるんですか?」
「違いますよ! 先輩だからに決まってるじゃないですか!」
「……そうなんですか?」
「…………!」
 しまった、と思ったがもう遅い。正直自分が何を言っているのかすら怪しいのだ。墓穴を掘るのは当然といえば当然で。それほどに緊張していた。
「そろそろ、勘付いてくれてもいいんじゃないですか? ……あなた本当に、鈍感ってレベルじゃないですよ」
 黙り込んだら、そんな言葉が落ちてきた。なんのことだと顔を上げると、おまけにもう一言。
「焦れったい」
 言って、行きどころをなくしていたアーサーの手を引っ張る。何事かと目を瞠ると、そのまま手の平を本田の胸へと招き入れられた。

 手首を掴まれて、その鼓動を感じる。驚いたことに、そのリズムは酷く速かった。表情は至っていつも通りツンとしているというのに。本当に、顔だけでは感情の読めない人だ。
「先輩、あの……」
「どうですか?」
「どうって……えと、はやい、です」
 混乱した頭で率直な意見を述べると、本田が短くクッと笑った。
「ええ、そうですね。……本当に、あなたって人は」
「な、なんですか」
「無自覚だから余計に困る。焦らしてる自覚も、どうせないんでしょう? 私そろそろ頭がおかしくなりそうなんです」
「なに言って……」
「あなたを好きになり過ぎておかしくなりそうだと云ったんです」
 正面から見据えて、本田ははっきりとそう告げた。アーサーはその言葉を数回頭の中で反芻して、しかしその意味が掴めずに黙りこむ。ぽかんと口を開けていると、少し呆れたように苦笑する彼が目に入った。

「会長? 人の話聞いてます?」
「えっ、あ、はい! もちろん!」
「呆けないで下さいよ。ちゃんと意味、わかってますか?」
「い、意味って……?」
「私の告白の意味です」
 人間として、とか、そういう意味じゃありませんよ。もっとちゃんと――ちゃんと恋愛感情で好きなんです。
 顔をそむけて、わかってるんなら相応の反応をしてください、なんて子供っぽいことを言うものだから、アーサーはますます困惑した。
 こんな本田先輩、今まで見たことがない。
 いつだって超然としていて動じない、あの彼がこんな顔をするだなんて。

――好き? 本田先輩が? 俺を? 恋愛感情で?
 嘘だ。そんな夢のようなことがあってたまるか。信じられない。
 だけど信じたい。だって、ずっと願ってやまなかったことなのだ。
 振り向いてくれたら。こっちを見てもらえたら。
 俺がこの人の全部になれたらいいのに、なんて――本気で考えていたものだから。

 目をあげると、かちりと視線が絡む。咄嗟に逸らそうと思ったけれど、出来なかった。
「私にここまで云わせておいて、言葉の一つもないだなんて許しませんよ」
 伏し目がちに頬を染めるその表情に、酷く胸が痛くなる。

――言葉。言葉を。思っていることを。伝えたいことを。
 考えれば考えるほど、頭から文章が逃げて行ってしまう。なんと言えばいいのか。何が言いたいのか。
 俺は……――

 気がつけば、勝手に体が動いていた。覗き込む本田に顔を寄せて、触れるだけのキスをした。その唇を感じるほど長いものではなかったけれど、温度を感じるのには十分な時間で。
 そっと顔を離すと、きもち複雑な面持ちの本田が口を割る。
「……言葉を下さいと云ったはずですが」
 その口元が不満そうに歪んでいた。
「あ、えと……。お、俺は口下手なので、伝わらないと思うんです。だから、こっちの方がいいかなって、思って」
「口下手? ――御冗談を。いつも壇上でつらつらと喋っておられるじゃないですか」
「あれは原稿があるから……本田先輩の前だと、俺いつも上手く喋れてないです」
「一対一だからですか?」
「違います。本田先輩だからです」
 この際、もう隠したって何の意味もないのだ。唐突にそんなことを思った。
 赤面したまま告げたそれは、本田のいつもの「そうですか」に流されてしまった。いや、正確には完全に流されてはいない。その口元がなにやら戦慄いて見えた。
 そうですか――でも、と本田が続ける。

「一つくらい下さいよ。私ばっかりは、やはり不平等な気がしてならない」
 不満そうなそれに、応えなければと、そう思った。
 ひとつ。言葉を。
 気の効いた言葉なんて、出てくるはずもなかった。ありきたりでもなんでも、これしか思いつかない。

「――すき……です」

 たった4文字――これだけなのに、酷く恥ずかしい。けれど一度口にしてしまえば、それが呼び水となったかのように後から後から溢れてくる。
「すきです。好きです、先輩。好き。俺もう、ほんとずっと……好きで、先輩が……!」
 ぽろぽろと零れるように、「すき」を幾度も繰り返した。言葉にするたびに押さえていた気持ちがとめどもなく膨らむようで、胸が詰まって苦しくて、でもどんどん溢れていく。
 止まらなくて止まらなくて、繰り返すうち、いつしかそれは鼻声になった。
 箍が外れたみたいに、癇癪を起したみたいに泣きだして、でも全然言い足りない。
 そうしてしゃくりあげながらの告白に、終止符を打ったのは本田の優しい手だった。頭頂部を掠めた体温が染み入るようにあったかくて、涙で物が言える状態ではなくなってしまう。目の前が霞んで、それでも本田の存在だけが、浮き彫りになったようにそこにあって。

 馬鹿ですね、そういうことは一度でいいんですよ。そう言った本田の顔が、くしゃりと綻んだ。




* * * * 




 夏だな、と思った。
 火照った体が思考回路を遅くする。こめかみから汗が伝って、それが床に落ちるのを霞んだ目で見つめていた。
 けれど知っている。気温のせいではないのだ。この体が熱いのは。

「……崩れてはいけませんよ。きちんと立っていて下さい」
 耳元で、そんな声がする。それに重なって聞こえるのは、下方からする水音と、まとわりつくような吐息。
「せんぱ……も、ぅ……無理、です……」
「無理? なにが無理なんですか? 我慢が出来ない?」
 意地悪な囁きに、アーサーの中心が浅ましいほどに反応した。あろうことか本田の手の中に握りこまれているそれは、ゆるゆると擦られて過剰に跳ね上がる。

――気持ちを伝えて、感情が高ぶったまま本田の胸に飛び込んだ。
 そしてキスをして、またキスをして、深いキスが欲しくなって。
 堪らなくなってついには自ら舌を伸ばした。すると本田もそれに応え、繰り返すキスがより一層濃厚なものになる。
 かき混ぜて、吸って、絡めて。
 その後に。

「ァ、や……やです……! 先、ぱい……そこは」
「先の方がお好きなんですか?」
「ち……っ、違う……!」
「おや、お厭なんですか? ではどこがいいのです、云って御覧なさい」
 お望み通りにして差し上げます。その甘い響きに、腰が震えた。既にこれ以上ないくらい張りつめたそれに指を絡められるだけでも堪らなく苦しいのに、巧みな動きで攻め立てられたら叶わない。
 両手を生徒会室のドアについて、後ろから抱きつくような体勢の本田に翻弄される。
 人が来る。事の始まりの時にそう制したけれど、本田の手は止まらなかった。急いたようにネクタイを引き抜き、シャツを脱がし、ついでというようにドアのカギを閉めた。
 少し余裕がないように見えた。それが酷く嬉しくて。

 変な声が上がりそうになる。右手三本で的確に感じるところを攻められれば、せり上がってくる快感が止まらない。
 下唇を噛んで、濡れる吐息を零すまいとした。
「声」
「ふ……ぅんっ! あっ、な……なに……っ」
「声を聞かせて下さいよ。折角可愛いんですから」
 そう言って本田は、左手をするりとアーサーの口へと滑り込ませる。そしてそのまま上顎をなぞり、わざとらしく指で唾液をかき混ぜた。
 上からも下からも、水音がする。ぐちゅぐちゅと、粘性の高い気泡が潰れるような音。それが堪らなく卑猥に耳に届いて、背中をぞくぞくとした何かが這い上がった。
「ふぁ……もっ、だ……だめ……出……」
「我慢なさらなくていいんですよ。……そう、力を抜いて」
 膝がガクガクと痙攣する。冷たいような熱いような、よくわからないけれど確かな快感がアーサーの理性を凌駕した。
 おまけに半開きになった口からは自分のものとは思えないくらい艶めいた嬌声が溢れ出てくるのだ。

「ぁ、う……もう……も……――ああ……っ!」
 攻め立てに熱を込められて、アーサーはあっさり達した。とんでもなく深い絶頂感に戸惑ってかぶりを振ったが、意思とは関係なく跳ねる下半身を止めるとこはできない。
 荒れた息をまき散らしながら、視線を下へと落とす。するとそこには粘ついた白い液にまみれた本田の手があった。
「あ、ご……ごめんなさ……」
「――……ちょっとだけ、我慢してください」
 はっとして謝ると、それとはてんでかみ合わない、そんな言葉が降ってくる。何を我慢するのかと聞き返そうとしたら、そのぬめった指先が足の間へと滑りこんだ。
「え、え! ちょっ……先輩! なにを……」
「駄目ですか?」
 指を突き立てられる。その違和感に下唇を噛んだ。
「だめ、っていうか……」
 何をしようとしているのか。それがわかるから恥ずかしい。今更だけれど、やはりそういうことなのかと。
「すみません。駄目ってあなたが幾ら云っても、自制できる自信がないんです」
 差し込んだ指を緩く蠢かしながら、本田がぽつりと零す。

「後でいくら殴ってもらっても構いませんから」
 返事をしようとして、けれど叶わなかった。入り込んできたその細い指がゆったりとそこをかき回し、奥のほうを掠めて、声も出ないほどの快感に襲われる。
 その過剰な反応に満足そうな吐息を洩らしながら、本田は容赦なく指を動かした。合間合間に躊躇いがちらついてはいたが、アーサーが堪え切れなくなって声を上げると必ず、もっと奥へと入ろうとする。
 蕩けそうによかった。
 腰が勝手に揺らめいて、頭の中がぐしゃぐしゃになる。
「せんぱ……もうそれ、いやです……」
 気がつけば3本も入っていた。それを目で見て驚きながらも、回らない頭で言葉を紡ぐ。
「――ください」
「え……」
「ください……いいから」
 好きにしてください。

 目を見開いた本田の理性が、ぷつりと音を立てて切れたのが見えた。
 その刹那、ふわりと体が浮いて背に冷たいものを感じる。一瞬天井が見えたが、すぐに熱っぽいまなざしをした本田の顔で見えなくなった。
「――そうやってあなたはいつも……」
言葉の最後まで聞こえなかった。ただ恥ずかしいほど広げられた足の間に生々しい、けれど硬い肉のようなものが口付けて、それに怯んだ次の瞬間、それがじっくりと押し入ってくる。
 焼いた鉄の塊だ。最初はただそう思った。けれど本田がゆっくりと腰を揺さぶるにつれて、段々と感覚が鈍ってくる。痛みよりも痺れるような悦楽が上をいく。
 気持ちよすぎて、怖かった。本田が腰を送りこむたびに意識が酷く曖昧になって、けれど体中を駆け抜けるその感覚に、神経が鋭敏になって。
「ァ、やだ……せんぱ、やだっ……怖い……!」
「……堪らないですね。あなたのその顔」
「…………っ!」
 指摘され、勢いよく腕で顔を隠した。余裕がなくて全く気付いていなかった。自分は今、どんなに酷い顔をしているだろう。
「邪魔ですよ、手をどかして下さい」
「ゃ……み、見ないでください……!」
「どうして? 何を今更恥じることがあるんですか」
「だって、俺、絶対ヘンな顔して……」
「……それが見たいんですよ」

 ぐっと奥へ押し込まれ、悲鳴に似た声を上げた。その隙に本田がアーサーの手首を捕らえて、床へと縫いつけてしまう。
「全部見せて下さい。それで、もっとしがみついて。求めて下さいよ、私だけを」
 伏せた睫毛を微かに震わせながら、本田がそんなことを言う。
――言われなくとも、もうとっくだというのに。
 手を伸ばした。そのまま本田のシャツを握りこみ、こちらへと引く。そして洗剤の香りのするシャツの胸元に噛みついた。
 本田の目が一瞬驚きに見開かれたが、次にはきつく閉じられてしまった。薄く開かれている上品な唇から熱い吐息が漏れていて、無性にそれが胸を掻き回す。

 くぐもった喘ぎが、そこかしこに反響して。体が揺れるたびに淫靡な水音がそれに混ざる。
恥ずかしい。だけど繋がっていたい。触れられたところから溶けてしまいそうだ。
 熱に浮かされたように目を上げると、かちりと視線が絡む。
 あの涼しい顔が、紅潮して歪んでいた。それだけで堰き止めていた何かが外れたように彼が愛おしくなって、抱きついて唇をせがんだ。
 くちゅ、とわざとらしく音を立てて、本田のキスが離れて行く。

「ああ、やはり甘いですねぇ」
「え……?」
 独り言のようなそれに首を傾げると、緩く口元に弧を描いた本田が、そっと口を開いた。
「あなたのコレのことです」
 ゆっくりと、それでいて丁寧に、アーサーの唇をその細い指でなぞって。
「あの飴の味がします。甘ったるくて無駄に濃厚で、――でも……なんでしょうね」
――癖になる。
 言いきらないうちに、またひとつキスが落ちてきた。

「……ねぇ会長、私のキスは不味いですか?」
「え、え? い、いや……」
「そう? ならよかった。禁煙した甲斐がありました」
「禁煙……?」
「ええ。だから云ったでしょう? 煙草吸ってるとキスが不味くなるんですよ」
 あれはそういうことだったのか。アーサーがそう感心するよりも先に、照れ隠しのような口付けが落ちてきた。角度を変えて啄ばんで、それから舌が絡む。
(……あれ?)
 気のせいだろうか。そのキスの中に知っている味を見つけた気がして。

「先輩、もしかして……飴、食べました?」
「え……」
「味がする。……なめたんですか? あんまり好きじゃないみたいなこと言ってたのに?」
「……煩いですよ」
 言って、本田はふいと顔を背けた。そして少し何かを考えたような素振りを見せて、それからもう一度、アーサーの舌を吸う。やはりその上にほんのりとした甘さが残っていた。
「ねぇ、どうしてですか?」
「あなた少し、黙ったらどうです」
尋ねたら、そう誤魔化された。追求しようと口を開こうとしたところで、顎をすくわれる。
 音もなく降ってくる。何かを味わうような、そんな口付けだった。
 思い出したかのように本田が腰を振った。最初よりもはるかに蕩けたそこはその衝撃をあっさりと包み込み、どころか飲み込んだ本田自身を物欲しげに締め付ける。

「あっ、ぁ……! 先輩、せんぱ……」
 揺さぶられて、宙に浮いた足先が空を掻く。その不安定さにしがみついた。
 手を背中にまわすと、本田が満足そうに笑った。それだけで胸がいっぱいになって、声を上げて泣きたくなってしまう。
「――……っ……ねぇ、云ってくださいよ」
「は……ぁ……っ! なっ、なにを、です……」
「『好き』だと云ってください」
「ぅ、す……すき……」
「もっと」
「好きです……!」
 攻めたてを休めずに、本田がぎゅっとアーサーの体を掻き抱く。
 気のせいだろうか。汗と涙でぐしゃぐしゃになった視界の中で、切なげに眉をひそめる本田の涙を見たような気がした。



* * * * 



「今日は、もってないんですか?」
 文化祭も無事終わり皆が散り散りに帰路につく中、二人はその騒がしさから逃れるように屋上へと足を運んだ。
 ドアを開けて正面の、柵手前の段差に腰をかけて、そしてその第一声が本田のそれだった。
「なにをです?」
「飴ですよ。飴。なんか外国かぶれたような名前の」
 ひょいと箱を取り出す。
「これ? チェルシーですか? 外国かぶれってなんです外国かぶれって」
「だってそうでしょう。あれ日本の企業が生産してるんですよ」
「いや、まぁそうですけどね……」
 眉根を寄せながら、本田の掌に小振りで四角いそれを落とす。

「でも、俺はこの名前好きですけど。『チェルシー』」
「へぇ。なにか思い入れでも?」
「そうなんです。この『チェルシー』ってね、イギリスの地区の名前から取ったらしいんですよ。” Royal Borough of Kensington and Chelsea”って、英語ではそう呼ぶんですけど。だから俺、この飴が一番好きなんです」
 へぇなるほどそうだったんですか、などと、本田はさほど関心を持たないような相槌を打つ。そしてそれから手の中のものをカバンの中へと放り投げた。

 今すぐ食べるんじゃなかったのか。そう思って尋ねると、「まさか」と首を振って、本田は口の端を持ち上げた。
「こんなの毎日食べてたら、糖尿病になりますよあなた」
「べっ甲飴だの塩飴だのを食べてる先輩の言えたことですか!」
「私はどうでもいいんです。大体ね、濃いんですよ。味が。バターとかで深みを出してるんでしょうけど、私の口には合いませんね」
「だったらなんで欲しいとか言うんですか。嫌いなら俺も押しつけませんって」
 好きなものを悪く言われてそうふてくされたら、クスリと笑った本田が続ける。
「どんなに好みとかけ離れた味だって、無性に舐めたくなる時があるんですよ」
「……たとえばどんな時ですか?」
「そうですね。あなたとのキスを思い出したい、そんな時です」
 真顔でそんなことを言われ、アーサーの顔は一瞬にして染めあがった。それを見た本田が噴き出して肩を震わせ、更にこう続ける。
「なんならあなたにも差し上げましょう。持ってないでしょう? べっ甲飴」
「え? あ、はい。いいんですか? 先輩の好物なんでしょ?」
「等価交換、です」
 ほら、と寄こしたその飴が、夕日を受けて乱反射する。琥珀色で直方体とも三角錐とも取れない形をしているそれがなにやらガラス細工のように繊細で綺麗で、思わず見とれた。

「あんまり見たことなかったんですけど、綺麗な飴ですね。先輩によく似合う」
「どういう意味です?」
「いや、なんかほら、雰囲気似てるじゃないですか。どの辺がっていわれると、イメージでしかないんですけど……」
 自分でも言っていることがわからなくなりそう口ごもると、いつになく楽しげな本田が口を開いた。
「そうですか。まぁ喜ばしいことですね。私、その上品な色や形も好きなんです。気に入ってもらえたなら何よりです」
 嬉しそうなその顔につられて微笑み、飴を受け取ろうとそっと手を伸ばした。包み紙の端を摘まんだその刹那、本田がくすりと笑い声を立てる。
「――これを舐めて、私とのキスを思い出して下さいね」
「…………!」
 頬が下のほうからせり上がるように紅潮した。夕日とは少し違う色が、アーサーの顔を染め上げていく。
 なんてことを言うんだこの人は。
 こちらへと引き寄せようとしても一向に飴を離そうとしない本田に目を向けると、それはそれは心底楽しそうで。
 けれどなんだか少し、その視線が熱っぽいように思えた。真っ直ぐで、そのくせ甘くて。混じり気のない夜のような瞳。
 それがどこかくすぐったくて、なんだか涙が出そうになった。

「――さて。今日はこれで帰るとしますかね。皆さん打ち上げに行ったみたいですよ。会長はいいんですか?」
「え、あーはい。俺は別に」
 それよりも、このまま一緒にいたいだなんて、そんなことを言ったら先輩は困ってしまうだろうか。そんなことを思っていたら、不意に手を握られた。
「コンビニ寄ろうと思ってたんです。付き合ってくれますよね?」
 疑問ではない疑問を口にしながら、本田が握った手を遠慮がちに引く。

 その耳が赤くなっている気がした。

「先輩、耳赤い」
「……夕陽のせいじゃないですか」

 言葉と同時に、繋いでいた手にぎゅっと力がこもる。

 そうですね、とそう言って、そっと手を握り返した。



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