飴細工の恋をして・前編 |
初夏は気温が読みにくい。特に今年は異常気象が著しく、こんな時期なのに雹が降ったり、ゲリラ豪雨に襲われたりする。少し前にも通学で利用している駅の周辺で集中的に雹が降ったのだが、あの日は特に酷かった。運悪くその中に居合わせたアーサー=カークランドは溶けだしたそれが生み出す大規模な水溜りに靴下だけでなくズボンをも濡らし、足を取られながらもやっとの思いで帰ったところで、弟のアルフレッドに見るなり笑われた。どうやらあんまりにも水を吸った その格好が、まるで漏らしでもしたように見えたらしい。 くだらない、と思いつつも笑って流せなくて、一発その頭を叩いてからこの異常なる気候の変化に文句をつけた。自然に何を言ったって意味のないことなんて、わかってはいるけれど。 そんなこんなで、今日もまた例の異常気象。天気予報では肌寒いと言っていたのに、と不満を零してみるが、はたしてこの襟首を濡らす汗は本当に気温だけのせいであるのか。 もしかしたら今、全力疾走で階段を駆け上がっているから、そのせいでもあるのではなかろうか。 「――ちょっと、本田先輩!」 屋上へと繋がるドアを手前に引くや否や、アーサーは苛立ちを込めた声をあげた。勿論それは独り言ではなく、その目の前に広がる青空の中、ポツンと眩しい白いシャツに向かって。 扉を開けたせいで、外からの風がこちらへと吹き込む。ぶわっと顔面に吹きつけるそれに目を細めると、少し離れたところにいるその人がゆっくりとこちらを振り返った。 「……おや? どうしたんです、こんな時間に」 「こんな時間だから、です! 早く下に来てくださいよ。集会終わっちゃうじゃないですか!」 「それがなにか?」 「集会に出ろって言ってるんです!」 歩みを進めながら憤ると、目の前の気だるそうな表情をした男――本田菊が、クッと口元に弧を描いた。 「厭ですねぇ。出て欲しいって言うのなら、もう少し頼み方があるんじゃないんですか?」 「頼み方?」 ちらと腕時計に目をやりながら訊き返す。11時45分。集会が終わるまであと15分しかない。とりあえず1分だけでもいいのだ。1分だけでもこの人を体育館に引っ張り出せたなら―― 「そうですね、とりあえず跪いてもらえます? それで土下座してください。あ、最近の流行りは土下寝ですっけ? まぁなんでもいいですけど。ついでに昼ご飯も宜しくお願いします」 「……は?」 ――引っ張り出せた、なら。 * * * * 「……あ。チャイム鳴ってますよ? 戻らなくていいんですか?」 「はい……もう、いいです。いいですよもうなんでも」 「なんです、随分とヤケになってますねぇ」 「先輩のせいでしょうが!」 クスクスと口元を隠して笑う本田に苛立ちの混じった声をあげるが、全く効果はない。反省している様子もないし、むしろ心底楽しそうに見えるから困ったものだ。 安っぽいチャイムの最後の音が、スピーカーから尾を引く。それを聞き終わってから、ため息をひとつついてその小刻みに震える肩へと目をやった。次いで真っ白で骨の浮いた首筋、肉の付いていない頬へ。 流れで目が合い、ぱっとその視線を逸らす。逸らした視線の外で、本田はまだ笑っているようだった。 先ほども言ったように、本田菊、というのがこの男の名前だ。その気品のあるファーストネームに見合う端正な顔立ちと清潔感のある身なり、上品な言動は女子の間でも人気が高く、耳を澄ませばどこかしらで彼の名前が聞こえてくるほどである。噂ではファンクラブもあるとかないとか。真偽のほどは定か ではないけれど。 おそらく少し不良っぽい一面もあるから、それがさらに人気に拍車をかけているのかもしれなかった。服装こそ着崩しはしないが、その態度はいつでも気分屋で、気が向かないと授業に出席などしない。さっきの集会など、彼の中では出るという選択肢すらないのだろう。要するになかなか面倒くさがり屋なのだ。 そこでひとつ疑問に思うことがあると思う。何故この俺がそんな集会中なんかにこの人のサボり現場まで足を運んで、集会に引っ張り出そうなんてことをしているのか。そのことだ。 一般的に答えるならこうだ。 自分、アーサー=カークランドはこの学校の生徒会長を務めており、学校の規律を守らないこの人に改心をしてもらうべく説得を試みている、と。 すべては学校の風紀のため。呼び出しても来ないのならば、こちらから出向いて直談判をするしかないだろう、と。 校内の誰かに訊かれたときは、いつもそう答えている。それが一般的で摸倣的な答えであるからだ。 けれど実際は、正直学校の規律だとか風紀だとか、そんなものに価値を見出してなどいない。残念ながら自分はそんなにお綺麗な心を持ち合わせてはいなかった。 自分が本田菊――『本田先輩』に執着する理由とは。 それはもっと汚くてどす黒い、粘つくような感情のせいだと、今はそれだけ言っておこう。全てを説明しようとするとかなり長くなると思うし、この感情を表す単語を知っていないわけではないけれど、それだと簡潔すぎて足りない。 だから今は、そうとだけ。 「昼、買ってきてくれないんですか」 さっきのチャイムで集会の終わりを知った本田が、うなだれたアーサーを横目で見やる。この場合の『買ってきてくれないんですか』は、もはや疑問形などではない。命令形だ。 「買ってきましたよ。どうせそう言われるんだろうと思って、朝にコンビニ寄ってきたんです」 「へぇ、随分と気が利くじゃないですか。パンですか? おにぎりですか?」 「塩鮭にぎりです」 教室に取りに行かねばと思い、よいしょとじじ臭い掛け声とともに立ちあがる。そこで本田の反応がないのが気になって振り返ると、一瞬見間違えたかと思うほど明るい表情の本田がいて驚いた。 「待ってますので、1分で帰ってきて下さいね」 惚れた弱みか。その笑顔に負けてしまうから、本当に情けない話だ。 * * * * 生徒会の仕事が終わったので、少し雲に赤みの残る空の下、帰路につくことにした。 こんな時間に帰るのは随分と久しぶりな気がする。いつも書類や行事準備に翻弄されているので、学校を出るときにはどっぷりと暗いのだ。夏が近づいているから、日が長くなってきたというのもあるかもしれないが。 校門を出て右へ折れ逆光に目を細めながら足を進めていると、ふいにぐうぅと腹が鳴った。思えば今日はちょうど昼に会議が入って、朝パンを食べたきりになっていたのだ。そりゃ空腹にもなる。 歩みは止めずにそのまま鞄の中を探る。たしか間食用に持ってきていたはずの飴があったはずなのだが――。 ごそごそと手を動かし見つけたその袋の中身は空っぽだった。アーサーはひとつ小さく息をつくと、目に入った学校付近のコンビニエンスストアへとそのまま足を運ぶことにする。明日のためにも、忘れないうちに買い足して補充しておいたほうがいいだろう。 いらっしゃいませ、と元気のよい店員より早く、目に入ったのはさらりと流れる黒髪だった。学校に近いところにあるのだから、その人が居たってなんら不思議なことはない。けれど不意打ちを食らったというのかなんというのか、アーサーは思わず驚きに声をあげてしまった。 「なんです? 人の顔見て悲鳴上げるとか、失礼にもほどがありますよ」 「い、いえ、別に悲鳴じゃないです。ただ、ちょっとびっくりして……」 「……。そうですか」 素っ気ない返事をして、本田は手に持っているものに目を落とす。一方のこちらはここを立ち去るべきかと少し迷うが、いかんせん自分の目的は飴だ。そして本田が立っているのはまさにキャンディー売り場。ただの偶然だとわかっていても、舞い上がってしまう自分が恥ずかしい。 「本田先輩も、飴……買いに来たんですか?」 とりあえず目に入った果汁100パーセントが謳われている飴を手に取り、なんでもない風に問いかけてみた。すると本田も同じようにパッケージを見つめながら、「ええ」と一言だけで頷く。 「本田先輩って飴とか食べるんですね。なんか意外」 「意外? どうしてです」 「だってなんか、そんなイメージじゃないでしょ。もっとなんていうのか、『口寂しいんだったら煙草でも吸えばいいでしょう』……みたいな感じで」 「今の、もしかして私の真似ですか? まぁなんでもいいですけど。飴くらい舐めますよ、普通に」 「へええ、知らなかった。タバコよりも飴のが好きなんですか?」 「好きというか……禁煙してるので、その代用品として食べているんです」 「禁煙? してるんですか? まぁでも確かにタバコって高いですもんね。学生の財布には結構厳しいというのか……」 話を合わせると、本田が口元を押さえてそっぽを向きながら吹き出した。何事かと眉をひそめたら、その答えが返ってくる。 「あなた、本当に生徒会長なんですか?」 「え?」 「煙草の話に普通に乗っかってくる会長ってどうなんですか。そこは注意するところでしょう」 言われて、今更ながら感嘆の声を上げた。そう言われてみればその通りだ。 「ふふ。おかしな人。それと、私が禁煙してる理由は、金銭的な物ではないですよ」 「へ、違うんですか? じゃあやっぱ健康とか?」 「じじ臭いこと云いますねぇ。それもありますけど、矢張り一番は『不味くなる』からでしょうね」 「まずくなる? なにがですか?」 「ん? あー……いえ、色々と」 首を傾げると、含んだ言い方で誤魔化されてしまった。不味い?何が不味くなるというのだろう。わからないのでしばし考えていると、今度は本田の方が口を開く。 「あなたは? 文化祭の買い出しか何かですか?」 「あ、いえ。今日は仕事あんまなかったんで、普通に買い物です」 「そうですか」 「本田先輩の方こそ、こんな時間に何やってるんですか。クラスの出し物の手伝いとか……」 「私がそんなのに付き合うように見えますか?」 屈んで青いパッケージの飴を手に取りながら、めんどくさそうにそう呟く。これもまた、質問などではない。 「でも先輩、準備って結構楽しいですよ。こう、終わった時の達成感というのか、努力した分が形になるのが嬉しいというのか」 「……はぁ」 「はぁ、じゃなくて! 参加したらどうかって言ってるんですよ」 本当に、この人はどこまで不精なのか。眉を寄せると、その視線から逃げるように顔を背けて本田が別の飴を手に取る。 「あなたは楽しいかもしれませんけどね、私は正直、どうでもいいです。自分の時間を割くほど魅力を感じません」 「やったことないからそんなこと言うんですよ。一回くらい手伝ってみたらいいじゃないですか」 「面倒です。大体において、残ったところで手伝えることがないでしょう。力仕事も出来ませんし」 「だったら装飾とかやったらいいんじゃないですか? 本田先輩、絵上手でしょ?」 「別にそれほどでは……というか、私の絵見たことあるんですか」 「ありますよ。よく表彰されて廊下に貼り出されてますよね」 「よくもまぁ……大した観察眼ですね」 「生徒会長ですからね。校内のことで知らないことがあっちゃいけないんです」 「そうですか」 「とにかく、手伝いに出てみてくださいね。俺、確認に行きますから」 「あなたも大概しつこいですね」 「生徒会長ですから。出てくれます?」 「あーもうわかりましたわかりました。一日だけですよ?」 面倒そうに手をひらひらさせながら、本田が渋々頷いた。 * * * * 「本田先輩? どうかしたんですか?」 話をしながらコンビニを出ようとしたところで、アーサーはくるりと振り返った。本田がついて来ないのだ。あと一歩で自動ドアを踏み越えるその位置で、じっと雑誌コーナーの方に目をやっている。 欲しい雑誌でもあったのか? そう思って口を開こうとしたところで、本田の見つめる方向から早足で来た男と肩がぶつかった。反射的に謝るが、向こうは返事の一つもしない。それどころか舌打ちをされた。 なんなのだと眉根を寄せたその瞬間、走り去ろうとした男の体が何かに釣られたように、ギツンと後ろへ鈍く弾んだ。状況が読みこめないままその男を観察すると、彼の襟首から白い腕が伸びている。 それが本田の手だと気がつくのに、そう時間はかからなかった。 「え? ちょ、先輩? なにを……」 「あなた、お会計は?」 驚いて声をかけるが、本田はアーサーの言葉を無視して淡々とその男へと尋ねる。しかし襟首を掴まれた男はそれどころではないのだろう。鋭い目線を本田へと向けて、必死にその手を振りほどこうとした。 「なんだよ。誰だお前!」 「おや、いいんですか? そのまま出たら警報機鳴りますよ?」 「う、うるせぇ! なんなんだよ! 離せ!」 男は力いっぱい引き離そうとするが、どういうわけか本田の拘束は外れない。焦った男がなにやら汚い言葉で彼を罵ったが、当の本人は聞いているのかいないのか、涼しい顔でアーサーにちらと視線をやり顎でレジをちょいと指した。 ――店員を、呼べということか。 しかしアーサーが動くより早く、カラフルな制服を着た店員が数名、こちらへと駆け寄ってきていた。どうなるのか、大丈夫なのかと心配したのは一瞬で、それから先は手際よく全てが流れていく。 本田と店員が暴れる男を押さえつけ、そのバッグに入っていた大量の支払いの済んでいない商品を確認し、またしばらくしてパトカーの耳障りな音が聞こえてきて、あっけなくその男は警察の元へと連行されたのである。 仏頂面で関節技を決めた本田を、アーサーはただぽかんと見つめてしまっていた。 勿論それは、ちょっとあり得ないくらいのヒーロー展開に頭がついていかなかったからというのもあるけれど、他にも色々……まさか本田先輩がそんなに積極的に行動することがあるなんて――だとか、そんなことを考えていたような気がする。言うなればギャップだ。ギャップに呆然としてしまったのだ。 「……なんですか。そんなに見られたら穴開くんですけど」 「あっ、いえ! ちょっとその、びっくりして」 「びっくり? ああ、まぁ最近こういうの少ないですから、遭遇するのって結構希少だったかもしれませんね。ちょっと刺激的でしたか?」 言って本田は、まだ付近で赤いランプを点滅させているそれに目を向けて、きもち蔑んでいるような視線を浴びせた。 「いえ、なんていうか、びっくりしたのはそっちじゃなくて、本田先輩に、です」 「……私?」 「はい。なんか、イメージと違うっていうか……やっぱ力とか、強いんですね。さっきのすごかった」 「そうでもないですよ。アレは要はテクニックですから。コツだけ覚えれば力などなくてもさらりと出来ますよ」 ま、あなたの性格じゃ体得は難しいかもしれないですけどね、と最後を茶化して、本田はするりとアーサーの横を抜ける。足の向かう方向的に、家へ帰るつもりだろう。本来ならばこの道を通らないどころか家が反対方向にあるアーサーだったが、ついついその後を追いかけてしまった。 「あなた、こっちの方角なんですか?」 「いや、えっと……本屋に寄ろっかな、とか」 「ああ、そうですか」 適当な言い訳に、本田は特に興味を示さない。大体これがデフォルトな彼なのでそれを気に留めることはないが、その無表情だけは少し困る。 嫌なのかそうじゃないのか、全くもって読めないから。 「本田先輩はやらないんですか?」 ふいに訪れた沈黙に耐えられず、アーサーは思いつきで口を割った。 「なにをです」 「万引きとか、そういうの」 「は? やりませんよ」 下衆な質問をしたのは自分だが、心底嫌そうな本田の顔に少しだけ怯む。 「やらないんですか? 不良なのに?」 「誰が不良ですか。私は単に人付き合いが嫌いなだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」 「だって、授業サボったりとか、ケンカもたまにしてるじゃないですか」 「それも面倒なだけです。あと喧嘩においては、云い分に筋が通ってない奴らを見ると虫酸が走って胸くそ悪いから視界から消したいだけですよ。誰が不良ですか全く」 だからそれを不良というのではないのか。そんな文句を言ったところで到底聞きやしないだろう。そう思ってそうですかと流そうとしたら、少し前を歩いていた本田がくるりとこちらを振り返った。 そしてその手が近づいてくる。 「――大体ねぇ」 触れた指先が、アーサーのこめかみの少し上を辿って。 「盗んで何になるって云うんです? 物を手に入れる時っていうのは、その物だけでなく払った対価にも意味があるものなんですよ。なんでもそうです。金でも、地位でも……」 はら、と本田の手が離れた。その手から何やら糸くずが風に乗って飛んで、その瞬間アーサーの頬がカッと熱くなる。 「――人の心、でも」 * * * * その日は酷く空が高かった。 あと数日もすれば文化祭ということもあり、放課後の校内はいつにも増して賑やかだ。一か月前にはバラバラだった吹奏楽部の合奏がひとつの音となって廊下に響き渡り、それにカンカンと釘を打つ音が重なっている。 生徒会室を出て目にする風景はかなり雑多としていた。比較的新しめの校舎がごちゃっとして見えるのは、人が多いせいだけではない。そこかしこに段ボールの切れ端やらマジックペンやら新聞紙やらが散乱しているのがいけないのだ。 いつもならば散ばすなと注意をするところだが、今日は仕方ない。そう自分に言い聞かせることにする。 途中何度か声をかけられ足止めを食らったアーサーが辿り着いた先は、ひとつ上の学年、三学年の教室だった。今日提出の企画案を出していないクラスがあってそれを回収に来たわけだが、やはり生徒会長といえども所詮は年下なわけで、気が引けないわけがない。 目的のクラスの前まで来たものの、踏み込めずに立ち止まっていたら、ふいに後ろから声をかけられた。 「おや、生徒会長じゃあないですか。どうしたんです?」 聞き覚えのある声に、まさかと思い振り向いて驚く。 「ほ、本田先輩! なんでここに!」 「……は? 自分のクラスにいるのに理由が必要なんですか?」 「いや、そうじゃなくて……!」 まさか文化祭の準備を手伝っているのか? 本田先輩に限って? それはないだろう。 そう思うけれど、彼の手に握られているのは金槌だ。しかもその首にはタオルがかかっていて、上はシャツをも脱いで黒い半袖シャツ一枚。首筋の汗が光って見えた。 「……で? なにか用があったんでしょう? 見つめられてもわかりませんよ」 「っ! うわ、すみません! じゃなくてえっと」 うっかり見つめてしまってたじろぐ。焦った頭を動かしてどうにか企画書の提出を求めると、本田がアーサーをひょいと越えて中に声をかけた。 「すみません、企画書をお持ちの方いらっしゃいますか?」 「ヴェッ、企画書? あ、もしかしてアレのこと〜? それなら俺が持ってるよ〜」 「すみませんがフェリシアーノ君、それ今日提出らしいですので記入を……」 フェリシアーノ、と呼ばれた男の方に目を向けると、彼は気の抜けた声とは裏腹に随分大掛かりな仕事をしていた。ドアでも作っているのか、厚い木の板を支えながらそれに釘を打ちつけている。 「ああ、忙しそうですね。私が代わりに書いておきましょうか。用紙はどこです?」 「えっ、いいの? 菊だって忙しいでしょ?」 「大丈夫ですよ。紙、これですね? では、そっちは任せました」 意外な行動に、思わず目を丸くする。 アーサーの知っている本田は、もっと怠惰で素っ気ない、他人に興味のないタイプの人間だったはずだ。少なくともこんな大勢の中で何か作業をするのは厭う性格であったし、頼まれずに進んで何かをやるところなんて見たことがない。 それに、「菊」だなんて。下の名前を呼ばせるほど仲がいいということか。ちらりと嫉妬心の端に火がついた。 「……意外です」 机を挟み本田とは反対側の椅子に腰かけながら、ぽつりとそう漏らす。 「なんか、先輩じゃないみたい」 「は? どういう意味です」 「いや……だって、俺の知ってる先輩と全然違うじゃないですか」 「別に、普段からこんな感じですよ」 「うそだ。だって先輩、まずこの場に残ってる時点で不自然じゃないですか。いきなりどうしたんです」 金槌の音に隠れて、思った事をそのまま口にした。すると机上でペンを滑らせていた本田が、手を止めて顔を上げる。 「……はあぁぁ…………」 「なっ、なんですかそのでっかい溜息!」 「いえ、本当にあなたっていう人は馬鹿だなぁとしみじみ」 「ばかってなんですかばかって!」 「そのままでしょう。……どうせ、覚えていないんでしょうから」 むしろこっちが馬鹿みたいですよ、だなんて、そんなことを言いながらまた顔を伏せた。 覚えてない? その言葉を反芻して、ひとつのことに思い当たる。 ――とにかく、手伝いに出てみてくださいね。俺、確認に行きますから。 ――あなたも大概しつこいですね。 ――生徒会長ですから。……出てくれます? ――あーもうわかりましたわかりました。一日だけですよ? (え……うそ……たったあれだけで……?) そうだ。そういえばそうだった。そんなことを言った覚えがある。 言った本人ですら忘れていたというのに、あんなにもさらりと流しておいてこの人は。 「……なんですか。見られてると書きづらいんですけど」 「い、いえ。別に何でもないです」 にやついてしまいそうになる。それをさりげなく頬杖をついて誤魔化したが、気づかれていないかどうかは怪しい。それくらい、酷く舞い上がっていた。 「ほら、書けましたよ。これでいいですか?」 そうこうしているうちに、本田は薄っぺらい紙をひらりと持ち上げこちらへと渡す。 「……え。あ、はい! じゃあ、もらっていきます!」 「あなた、疲れてるんじゃないですか? 最近呆けることが多いですよ」 「そ、そうですか? 別に普通ですよ。元気だし」 「じゃあ――」 机越しの本田が、少し身を乗り出してアーサーの目元へと手を滑らせる。 「――この大きなクマはなんですか。どうせあなたのことだから、必要ない心配ごとばかりしてろくに寝ていないんでしょう?」 心臓が、不整脈を刻んだ。ドックン、と一回跳ね上がり、次いで早鐘を打つ。 耐えがたくなって俯いて、下唇を噛んだ。すると本田の手がそっと離れて行く。 「生徒会長が倒れてしまっては元も子もないんですからね。せいぜい気をつけて下さいな」 「…………せんぱ……」 「大体あなたが倒れたら私の昼は誰が買いに行くんですか。そこのところの自覚はきちんと持って下さい」 その言葉に、腰を折られた。落胆よりも先に突っ込みを入れたくなるのが、己の悲しい性である。 「パシリ要員ですか!」 「おや、パシリなんて言葉どこで覚えてきたんです。坊っちゃんが使っていい言葉ではありませんよ」 「この前先輩が言ってたんでしょ! っていうか、坊っちゃんはやめて下さい! 先輩こそどこで習ったんですか!」 「いえ、フランシス先生がよくそう呼んでらっしゃるので、愛称かな、と」 あんの髭野郎。そう心の中で毒づく。 「菊〜! 終わったなら手伝ってぇ!」 「あ、はーい。……では」 先程の男に呼ばれ、本田は流し目でこちらを見て、頭も下げずに席を立つ。アーサーは軽く会釈をし、同じく椅子から立ちあがった。そして教室を出る刹那、金槌を片手に足でベニヤ板を押さえる彼の後姿を盗み見る。 その横顔が凛として綺麗で。 胸が、どうしようもなく苦しくなる。視線を逸らしても脳裏に焼き付いて、この胸のざわつきがなにから来るものなのか、その判断が上手く下せない。 顔を合わせればいつも通りで、でもときどき違くて、知らない一面を知ってしまったようでドキドキする。 けれどその態度に周りの人が疑問を一切持っていないということは、自分以外の人間は本田先輩のあんな一面を知ってたということで。 それが無性に気分が悪い。 胸の真ん中あたりがヒリヒリチリチリとして、落ち着かない。 多分、この感情の名前を自分はよく知っている。今まで何度も味わってきたのだ。 けれど言葉にはしないことにした。 * * * * 最後の追い込みというべきか。さすがは文化祭前日だ。その放課後というのもあって、校舎内はまるでいつもの学校ではないように感じられるほど派手な装飾が施されていた。 このクラスはお化け屋敷だろうか。黒い布でできた教室の入り口のすだれが、夕日に照らされて赤黒く光り不気味な色に見える。 その隣はアイス屋だろう。ポップな色合いの看板に、粘土でつくったであろう見本が壁一面に貼りつけられていて、実にユニークな装飾だ。 そうして校舎の戸締り点検のついでに色々な教室を見て回った。文化祭実行委員というものは実際忙しいものであるが、ことアーサーに関しては生徒会長であってもその委員会に所属しているわけではない。けれど各方面からの許可申請などに判子を押すのは自分の仕事であった。そのおかげで下手をしたら実行委員長よりも厳しいスケジュールだったかもしれないと、今更ながらに思う。 少なくとも校舎内で見かける段ボール造りの装飾品より、紙切れとにらめっこしていた時間の方が長い、そう感じるくらいには。 ふと窓の方に目をやると、反対側の校舎が見えた。あちら側は確かバザーに使われる以外何もなかったはずだ。おかげで人もいなくて電気も全て消えている。 と、窓から目を離そうとしたその時、ちらりとどこかで何かが光った。アーサーがもう一度窓に目をやると、反対側の校舎に反射する光がひとつ。少しの間のその光源の場所を目で探っていたが、考えればすぐわかる。こちら側の校舎の電気がついているのだ。 けれどもう時刻は完全下校時刻直前。しかもたった今アーサーが電気を消して回っているのだ。下の階の明かりなわけがない。 そうだ、方向的にも上の階の――そこまで考えて、思い当たる。 ここの真上の教室の電気がついているのだと。位置的にもぴったりだ。 その教室の装飾は、それは他の教室とは違い随分と簡素なものだった。 これは何をやるクラスだったか――看板を見て納得する。確か別館でお化け屋敷をやるクラスだ。しかもなにやら、結構大規模の。 相当数許可証が来ていたからよく覚えている。 だがしかし、だったとしたら。そこでふと思い出す。そして、少しだけ期待する。 (ここ、本田先輩のクラスじゃん……) 一歩を踏み出し、中を覗き込んだ。その目に飛び込んだ期待通りの人影を見て、アーサーの心臓は一瞬狂ったように脈を打つ。 (居るし! っていうか……え……寝てる……?) 風がカーテンを持ち上げた。その真下に、椅子に座り窓際の壁にもたれかかった彼がいる。どうやら目を瞑っているので居眠り中らしい。 居眠りならば、いつも屋上でしているはずなのに。こんな時間に、しかもこんな場所で寝てしまうだなんて一体どうしたのか。やはり慣れていない手伝いと人間関係に疲れが出てしまったのだろうか。 「……本田先輩?」 試しに呼びかけてみる。しかし反応はない。距離的に聞こえないはずがないから、やはり眠っているようだ。 そっと踏み込んでみると、教室内はやけに涼しい。おそらく随分と前から換気をしているのだろう。 風邪を引いてしまわないだろうか。 赤い夕陽に照らされた黒髪がさらりとなびいた。それをそっと撫でてみると、手の平が冷やりとする。起きる様子もないので今度はそのまま頬へと滑らせていくと、きめ細やかな肌がまさに見た目通り、陶器のように冷たかった。 特に何を考えたわけでもないけれど、自分の上着を脱いだ。大体にして6月の後半だ。夕方といえど学ランを羽織っているのはやはり暑いから――なんて、そんな言い訳を頭の中でした気がしないでもない。 そしてそれを、首を傾げて目を伏せる彼の上へとかけた。起きてしまわぬようゆっくりと、それでいてしっかり。 何の反応もなかった。彼はただ、その品の良い顔立ちに似合った綺麗な寝顔を保ち続ける。 伏せた睫毛が、なにかの芸術品のように繊細で。 窓から飛びこむ夕日が、彼の頬で乱反射して。 寝息を漏らすその薄い唇が、やけに艶めいて見えて―― 「…………ん……」 次いで、喉を鳴らしたのは本田だった。至近距離でそっと目を開けて、そしてそれを丸くする。 「……え? なに……、……なんですか……?」 「……………!」 自分のしたことをとんでもないことだと自覚するのに、そう時間はかからなかった。 我に返り、それからさあっと血が引いて、心臓がドクドクと音を立て始める。 (いま……いま、俺、なにした?) 唇に残るのは、柔らかな何かの記憶。それがなんであったのか。考えずともわかる。 「あの」 (キス、した) 「……会長?」 (うそだろ。俺、この人に、キス……した?) 呆然と佇むアーサーの顔を、本田が覗きこむ。その顔はいつものように無表情だけれど、微かに驚きが滲んでいた。 羞恥と後悔が、背後から波のごとく襲う。 「――……待って」 無言で走りだそうとしたアーサーの腕を、掴んだのはあの白い手だった。華奢に見えるのに、振り解こうにも解けない。逃げ出したい。今すぐにここから。なのに。 「は、離してください」 「……厭ですよ」 「い、いやってなんですか。離してください」 「あなた……人の寝込みを襲っておいて、その云い草はないんじゃないですか?」 ――やっぱり、ばれてる。その事実がアーサーに追い打ちをかけた。 「い、いやだ……離し……っ」 「こちらを向いて下さい」 背の方から、そんな声が聞こえてくる。そんなこと、到底出来やしない。それをわかっていての言葉なのか。 腕を後ろから引かれたまま、視線は合わせずに沈黙する。掴まれた腕から脈が伝わってしまわないか。そう思うほどに心臓がドクドクとうるさかった。 「…………ごめんな、さい」 ポツリと、そう漏らす。 「ごめんなさい」 弱々しい謝罪に、何を思ったか本田の手がするりと離れた。逃げるのも今更な気がして、そのままそこに立ちつくす。 なんだかもう少し、違うことが言いたいような、違うことを言わなければいけないような気がするのに、どうしてかそれしか浮かばない。ただひたすら謝った。どうして謝るんですかと、そう本田が訊いたが、それに被せてもう一度謝った。 「ごめんなさい……本当にごめんなさい」 「だから――」 「違うんです。こんなつもりじゃなかったんです。そうじゃなくて……あの、ほんとに」 ――ごめんなさい……! 言って、そのまま教室を飛び出した。本田の呼び止めも、ろくに聞こえてはいなかった。 頭の中がぐちゃぐちゃで、叫び出してしまいたくなるほどわけがわからない。そのくせ心臓だけが強烈に高鳴って、その音が鮮明にアーサーの脳内に響いていた。 どこへ走っているのか。本当に走っているのか。実は夢なのではないか。そうは思うけれど、頬をつねって確認するまでもなく、この胸が酷く痛い。 口を引き結べば、忘れられもしない、あの唇の感触が蘇る。 夕日が赤い。窓に、鏡に、差し込んで反射して。 それが突き刺ささるから涙が出るのだ。 乱暴にドアノブを回し、部屋の中へと駆けこんだ。 そこは自分の居場所。生徒会室。 追って来る足音はないが、背を扉にもたれて入らせまいとした。 何をしているのだ。何を。 自分の行動に嫌気がさしている。それなのに一瞬の唇の接触を嬉しがっている自分もいて。 それが酷く浅ましく思えた。 ゆらりと頭を揺らして、背後のドアにぶつけた。 一回。二回。もう一回。 それでも振り払えない。まとわりつく、黒い感情が。 この気持ちは伝えられない。でも伝えたくてたまらない。 そのジレンマに挟まれて、深みにはまって喘ぐ。 もがいた結果がこれか。 自ら関係を壊してしまった。 怒ってくれるのならまだいいだろう。 けれど絶対軽蔑される。 男同士でなんて、きっと気持ち悪いと一蹴されておしまいだ。 そう、おしまいなのだ。 終止符を打ったのは俺だ。 でも、ああ――浅ましいな。 それでも先輩が好きだなんて。 (後編へ続く) |
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