きみに触れていたい




※エア新刊サンプルとして出したものなので、途中から始まって途中で終わります。
 眉毛猫アーサーが人間の菊に恋をして、魔法で人間になるお話。


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 にゃーう、と低めに鳴きながら、ロシア猫は路上に寝そべった。
「どうしてそんなに人間になりたがるのか、僕には理解ができないなぁ。人間なんて辛いだけじゃないの? 僕のおうちのひとだって毎日仕事に追われてるし……」
「それでも俺は人になりたい。ご飯貰って撫でられるだけじゃなくて……もっとちゃんと話がしたいし、もっと傍に行きたいんだ」
 自分より一回り大きいその猫を真っ直ぐ見据えてそう言い切る。
 だって、辛いじゃないか。
 目の前で大好きな人が落ち込んでいるのに、泣いているのに、慰めてもやれないなんて。
 自分の体では、決して高くないその頭を撫でてやれもしない。心配して寄り添えば「大丈夫ですよ」の一点張りの、つよがりで愛しい彼の頭を。
 見ているだけじゃなくて、もっと何かしてやりたい。
 大丈夫じゃないって知ってるんだぞって、それすらも伝えられやしない自分が、もうどうしようもなくもどかしくて、もどかしくて。
 ――そっちの方が俺には辛いんだ。
「だから魔法をかけてくれ」
 見据えた目が、一瞬だけ左右に逃げた。けれど次には見つめ返されていて。
 少し目を伏せ深く息をつき、かったるそうに口を開く。
「後悔しても知らないよ、イギリス猫」
 
 目を焼くような光に、思わずうめき声を上げて瞼を閉じた。
 次いで脳の真ん中のあたりがズキリと痛み、それがどんどん大きくなっていく。
 うそだ、焼けているのか? 皮膚がじりじりと疼き、酷く熱い。耳鳴りがして目が回って、地面に倒れ込んだ気がしたけれど、気のせいだったかもしれないと思うほど頭の方に気が行ってしまっていた。
 叫び声を上げる余裕すらないほどの激痛だ。ただただ奥歯を噛みしめることしかできない。
 鐘を鳴らすように規則的な頭痛に、うずくまって頭を抱え込んだ。早く終われと願いつつ、手の平に何か液体がじわりと浸みこむのを感じる。
(ちょっと待て……なんだこれ……)
 朦朧とする意識の中で、ひやっとした感触が酷く気にかかった。これはなんだろう。そう思ったのは一瞬で、すぐに奥底に眠った記憶が蘇る。

――今日は夏日ですね。桜が散ったからと、寂しがっている場合ではありません。気がつけばすぐ夏祭りですよ、イギリス猫くん。
――マーオ?(夏って?)
――イギリス猫くんは暑くないのですか? こんなに立派な毛皮を着て。ああ、そういえば猫は汗をかかないんでした。体温調節大変ですねぇ。
――(……あせ?)
――人間ってものは実に不便です。目に入ると痛いし。
――マーオ……(本田、首に水がついてるぞ)
――ひゃ、ちょっと! 汗を舐めちゃ駄目です! 塩分過多になりますよ!
 鮮やかなその記憶に、自分の事態を把握する。……そうか。多分これが「あせ」だ。本田が言っていたあの「汗」だ。
 ということはつまり、まさか、そんな、本当に?
 途端、すぅっと痛みが引いていく。脳天からつま先に向かって、波が引くようにあっさりと。
 この手に感じたそれが本物だったならば――
 おそるおそる瞼を持ち上げると、そこに見慣れた毛皮は存在していなかった。代わりに、つるりとした白い肌が目に入る。
 ひた、と頬に手をやってみた。するといつもと感触が全然違っていて、あまりにも何もないことに心底驚く。
 頭痛の余韻が残るまま、近くの水溜りまで這って行き、それをゆっくり覗きこんでみる。そして息を呑み、ごくりと喉を鳴らした。
――人間だ。人間がいる。緑色の目をした人間が、こっちを見てる。……うそ、ほんとに俺、人間になっちゃったんだ。
 そう認識したら堪らなく嬉しくなり、ぐっと足に力を込め立ちあがって、気がつけば跳ねるように路地を駆け抜けていた。
 四足じゃなくて、二足で走ってる。そんなことすら嬉しかった。

だってやっと、本田と同じになれたのだから。願いが叶ったのだから。喜ばずになんていられるわけがない。
 頭の隅でロシア猫にお礼を言うのを忘れたのに気がついたけれど、今更な距離まで離れてしまっていたためまた今度会ったらでいいかと思い直した。
 それよりも本田に会いたい。顔を合わせて抱きしめて、思っていたこと全部を話したい。伝えたいことが山積みだ。
 最初の言葉は何にしよう。好きだ、だと直球過ぎてあいつが困っちゃうだろうから、話したかった、とか?
 いつもありがとう、も言わなくちゃ。あと、寂しい時は寂しいって言えって、これも言ってやろう。
 言葉がぐるぐると渦巻いて、どうしようもなく苦しい。でも不快ではなかった。逸る気持ちが心臓を跳ね上げて、無性に叫び出したくなる。

 そうだ。そうだよ。これでやっと――


ーーーーーーーーーー



 差し出した番傘が、しとどにシャツを濡らす雨を遮る。
 俯いていた彼がそれに気がつくのに、そう時間はかからなかった。おそるおそるという風にゆっくりと顔を上げ、こちらを仰ぎ見る。
 公園のライトは、彼が座るベンチの側に一本だけ。だからはっきりと表情は見えなかった。しかし目元が赤い気がした。雨でぐっしょり濡れている為、頬を伝うのが涙なのかはわからない。
「……風邪、引きますよ」
 沈黙に耐えかねて口を割った。反応が無かったのでもう一度声をかけようと思ったところで、彼の手が、――アーサーの手が、所在なくふらついてから菊の着物の袖を握る。次いでするりと指先を捕まえて、自分のそれを遠慮がちに絡ませようとした。
 不思議とその手をはらおうという気にはなれなかった。それが同情から来るものなのか、それともすっかり薄れた警戒心から来たのかは定かではないが、とりあえず今はこの手を温めてやりたいと思った。
 手を取って、しゃがみこんで、はぁっと息を吹きかける。次いで番傘を肩にかけ、両手で彼の両頬を包み込むと、くしゃりとその顔が歪んだ。
「そんなに泣いたら水分がなくなりますよ」
「……雨が降ってるから平気だ」
「雨は体内に浸透しませんので駄目です。……随分痩せましたね。どこかでご飯を貰ったりしなかったんですか?」
「野良猫ならまだしも、野良人間にエサはやらねーだろ普通」
「……それもそうですね」
 ぎこちない会話に、気持ちが上手く乗らなくてもどかしい。伝えたいことがあったはずなのに、この声を聞いたらどうしてか忘れてしまった。気の効かない言葉なら、つらつら滑り出るというのに。
「どうして、家出なんてしたんです」
 ほらまた、そんな言い方になってしまう。自虐しながらも本心から尋ねたそれの答えが、すっかり俯いてしまった彼から発せられるのを待った。こういうときの待ち時間はなんとも長く感じるものだ――なんて、そんなことを思いながら。
「……どうして?」
 発せられたのは、質問に対する質問だった。弱々しい声で、やっと聞こえるくらいのそれに眉をひそめたら、ギリリと手を握られる。
「どうして、って……お前が訊くのかよ。散々拒否ったくせに。もう俺の顔なんか見たくないんだろ? なんで追いかけて来たんだよ」
「飼い猫が居なくなって平然としていられるほど腐ってはいないつもりです。飢えて亡くなってしまっていたら大変ですし、飼い主として当然のことをしたまでですよ」
 無愛想な返答に、まずった、と思っても遅かった。さっきまで力の籠っていた両手が、すうっと引いていく。それで傷つけてしまった事を悟る。
「飼い猫、ね」
 静かな口調でポツリと呟く。

「所詮はそうだよな。だって事実だし。……仕方ない、んだよな。知ってたけど……」
 続けた言葉は、尻窄みになって雨音に消えた。けど、の後は何が続くのか。そう尋ねようとして踏み止まった。――なんだかとても、聞いてはいけない気がして。
「アーサーさん」
 代わりに名前を呼ぶ。言いたい言葉がたくさんあって、けれどそのどれもが伝えてはいけないから言えなくて、だけど離したくないから何かで繋ぎ止めておきたかった。口にできるのがその単語しかないだなんて、随分語彙が貧弱になったものだけど。
「アーサーさん、帰りましょう。帰って、お風呂に入りましょう。体を温めて、そうすれば……」
「逃げるな」
 踵を返そうとしたその瞬間、アーサーの腕が腰へと回った。引き留められたその衝撃で番傘が手から零れ落ち、ざあっと頬に雨がかかる。
「は、離して下さい」
「やだ」
「外なんですよ。こ、公共の場で……」
「こんな雨の日に公園に来る馬鹿なんていねーよ」
 ならば自分はどうなのか。そんな文句すら出て来なかった。ただひたすら焦っていて、口が戦慄くだけ。
「なぁ、菊。俺ちゃんと伝えたよな?」
「え……?」
「好きだって、お前のことが好きなんだって、ちゃんと伝わってるよな……?」
 絞り出すようなその告白に、ひゅ、と喉が鳴るだけで返答が出来ない。
 容赦なく降り注ぐ雨と、気がつけば後ろから抱きしめる体勢になっている彼から浸みこむ水で冷たいのに、やけに頬が熱くてひりひりする。
 おまけに心臓の音がうるさくて、鼻がツンとして目眩がして。
「つ、伝わってます」
 やっとそう言った。みっともないことに声が震えて、恥ずかしさに下唇を噛んだ。
 しばし返答を待つけれど、聞こえたのはドクドクという心音と、地面を叩く雨粒の音――それだけ。
 あらわれた沈黙に首を傾げて、突然無口になってしまった彼を振り返る。
 そこにあったのは泣き顔だった。
「え? え? ど、どうしたんですか?」
 困惑して顔を覗き込むと、更にくしゃくしゃになってしまう。
「アーサーさ――」
「ううん、いいんだ。気にするな」
「気に、するなって……?」
「伝わってるならいいんだ」
 その言葉を反芻する。
 いい? 何が『いい』のか。意味が掴めなくて、何かを言いかけた口を閉じた。ふと見ると、彼の目元は雨ではなく涙でぐしゃぐしゃだ。気にかかり、そっと指で拭ってやる。慰めようと思ったわけではないけれど、何だか手持無沙汰だったから、つい。
「……お前は優しいな」
 驚きに目を丸くしてから、少し伏し目がちに彼はそう呟く。その表情が酷く悲しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「菊、これで最後にするから、ちょっとだけお願い」
 言って、アーサーは腕の中の菊を正面から向きあうような体勢にくるりと直す。虚をつかれて言葉もなく見上げると、額と額がこつんとぶつかった。
 至近距離で、翠眼がこちらを覗き込む。それが恥ずかしくて目を逸らそうとするけれど、両頬を包む手に制されてしまって叶わない。
「こんなこと言われてお前が困るのもわかってる。けど、言わせてくれ」
 一息ついた彼の睫毛が震えていた。多分緊張しているのだ。そう考えたらこっちにまで伝染してくるようだった。
「もう知ってると思うけど、こんな格好になったのはお前に言いたいことがあったからなんだ。好きだとか、もちろんそれもなんだけど、もっと色々あって……」
「色々?」

「うん、あのな。いつもご飯ありがとうってことと、仕事根詰め過ぎだってことと……」
「……はい」
「あとお前が探してる『お宝』はタンスの裏にあるってこと」
「お宝? なんですそれ」
「結構前に半泣きで探してただろ? なんかちょっとピンク色の薄っぺらい冊子みたいなやつ」
「あ。ああ、アレ……そうですか、それはどうも」
 アーサーが言っているのは多分、数ヶ月前に忽然と姿を消した菊の趣味の本のことだ。あの時はただの猫だからと愚痴っていたから、今更ながらに後悔する。人相手だったら、絶対にそんなことなど漏らしていない。
 完全にシリアスな雰囲気がぶち壊しになったところで、アーサーがふっと笑う。それが耳元だったから、くすぐったくて少し身を捩った。
「あとな、まだあるんだ。枕で涙を拭くと次の日目が腫れるから、拭うならタオルで押さえるだけで、擦らないようにした方がいい」
「な、涙なんて……」
「嘘ついたって無駄だぞ、知ってるんだから。大体、俺には嘘つかなくていいって」
「…………。……あとは、まだ、何か?」
 言葉の続きを促す。

なんだか心臓を引っ掴まれて、乱暴に捏ね繰り回されているような気分だ。胸が痛くて苦しくて、だけど嫌じゃない。
「あとは……そうだな、好きだ」
「それ、さっきも言ったじゃないですか」
「うん。だけど、好きだ」
「そんなに何回も言うと、安っぽく聞こえます」
「そうか? 俺は言った分だけお前に伝わればいいなって思うけど」
 恥ずかしさに、かあっと頭に血が上る。
 よくもそんな歯の浮くような台詞が言えますねと、そう茶化すつもりだった。けれどあくまで『つもり』であって、実際はそうではなく――
 唇を塞がれて、何も言えやしなかった。
 じわりと染み入るような口付けだ。一瞬思考が停止してしまうほど、甘くて、切なくて、苦しくて。
 重ね合わさったところから蕩けてしまいそうだと思った。欲しかったのだ。丁寧な口付けも、貪るようなキスも、落ちてくるこの人の唇ならばどれだって。いつも否定を続けてきたけれど、きっとそれが本心だった。
「菊」
 離れていった唇が、私の名前を呼ぶ。
「伝わるだけで、俺は充分なんだ。お前から見返りを貰わなくたって、俺がお前を好きでいられればそれでいい」
「だけ、って……」
「全部伝えられた。……だからもう、いいよな? お前に好きになって貰えないで苦しむのは、今日で終わりにしてもいいよな?」
 彼の口元が悲しげに弧を描く。
 好きになって貰えない? その意味がわからなくて首を傾げようと思ったら、またひとつ口付けが落ちてきた。
 名残惜しそうにゆっくりと離れて、愛おしそうに私の唇を指先で辿って、それから。
「ずっと好きだ。それだけ覚えててくれ――――さようなら」
 そんな言葉をひとつ。
 最後の単語の用途がわからなくなるほど、呆けてはいない。
 頬から離れようとする手を、必死で掴もうとした。けれど不思議なことに、自分の手の平が空を掻く。いるはずの彼に触れられない。何故、どうしてと疑問に思うよりも早く、焦燥感に駆り立てられた。
 目に映るのは、ひそめた眉と潤んだ翡翠。その深緑の奥が透けて見える。
 どうしてと、多分そう尋ねたと思う。けれどその答えは返ってこなかった。代わりにはっきり――微笑んで、唇だけを動かして、『愛してるよ』と、そうひとこと。
「待って――待って下さい! そんな、私はまだなにも――」
――なにもあなたにつたえてない!
 光が弾け飛んだ。その眩しさに、思わず目を瞑ってしまう。多分それがいけなかったのだ。
 その時確かに彼の呻き声が聞こえていたはずなのに――
 次に目を開けると、もうそこに彼はいなかった。

 代わりに、見慣れた、いやしばらく目にしていなかった眉毛猫が、うずくまって一匹。
「え……? アーサー……さん?」
 きょろと周りを見渡す。けれどやはり彼はいない。
「う、嘘でしょう?」
 耳殻に雪崩れ込むのは、高い空から落ちてくる雫が乱暴に肩を叩く音。
――嘘でしょう。いなくなるなんて、嘘でしょう? 私を一人にしないって、言ったのは誰ですか。
 頬を濡らすのは、吹き付ける雨粒か、それとも。
 どっと膝から崩れ落ちる。そしてうずくまるその猫の横で、ぬかるんだ地面を力いっぱい殴りつけた。
 次いで世界がぐにゃりと歪みだす。

 もっと素直になればよかった。
 人間だとか猫だとか、嘘だとか夢だとか、そんなしがらみに言い訳をつけて逃げるのではなくて、正面から向き合えればよかった。
 キスを拒むより、好意をねじ伏せるより、もっと簡単な事があったはずなのに。
 いつもそうだ。大切なものは、この手から零れ落ちて初めてその価値を知る。
 ぎゅっと瞑った瞼の裏に、宝石みたいな翠眼と、くしゃりと綻ぶ笑顔が映った。愛おしそうに触れる手も、赤らむ頬も、全部全部こんなに鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。なのに、どうして私は。
「私だって、好きです。好きです、アーサーさん」
 今更な言葉だ。目の前にはもう、彼はいない。
「あなたが好きなんです……!」
 自分が愛したのは目下にいるこの猫だっただろうか。「猫」を愛していたのか、それとも「アーサー=カークランド」という人格そのものに恋をしていたのか――。

 答えなど必要ないのではないか。

 雨音が言葉をかき消す。その度に叫んだ。どれほど言っても足りなくて、言葉なんかじゃ足りなくなって、もうどうしようもなく彼に触れたいと思った。

――『思うだけ』なら簡単だ。
 
 マーオ、と一声、猫が鳴く。
 


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