『事前告知の無い帳が、吉野順平が在学する里桜高校付近に降りた』
窓から通報が入ったのは、数日後の事だった。
「わかりました。そちらの対応は全て私が引き受けます。伊地知さんもお気をつけて。」
『……………。』
「どうかされました?」
『……私は…私はまた虎杖くんを止められなかった…本当にダメな大人ですね…。』
「伊地知さん…。」
『っ、すみません。こんな話をしている場合ではありませんでした。では苗字さん、宜しくお願いします。』
焦ったように電話が切られた。
子供を守ることは、大人の役目。
少年院の事があったし…伊地知さんが悠仁くんを止めたかった気持ちは理解できる。
傷付いて欲しくない。
悲しんで欲しくない。
死んで欲しくない。
でも…悠仁くんが自分で考えて、自分で決めて、行動した。
だから…
悠仁くんを信じて、待ってるよ。
静かに階段を降りてくる足音が聞こえて、読んでいた文庫本から顔をあげた。
スマホの画面を見ると、硝子ちゃんから連絡を貰ってから数時間が経っている。
運ばれてきた悠仁くんは、身体が穴だらけになって、大量に出血していたらしい。
話を聞いた時、本当はすぐにでも駆けつけたかった。でも私が行っても硝子ちゃんの邪魔になるだけ。
ぐっと耐えて、少しでも気が紛れるように活字を追っていた。…内容は全く頭に入って来なかったけど。
「おかえり悠仁くん。」
「…………ただいま。」
左頬に大きな絆創膏を貼った悠仁くんと目が合う。無理に笑い顔を作ってたけど、それは泣き顔に見えた。
…これは1人にしてあげた方が良いかな。
本を閉じて立ち上がろうとすると、「名前さん、帰んの…?」と声がかかった。
「うん。お鍋の中にスープが作ってあるから…食べられそうだったら食べてね。」
「…………。」
悠仁くんが唇をわずかに動かして答えようとするけど、それは言葉にならなかった。
私を見下ろす不安そうな瞳。まるで、迷子になった子供みたい。
立ち上がるのをやめて「座る?」と聞くと、悠仁くんはコクンと頷いてから隣に腰を下ろした。
虚空を見つめ、今にも消えてしまいそうな悠仁くんの頭を胸に抱き寄せる。あやすように背中をさすると、悠仁くんは一瞬だけ身を強張らせてから、徐々に緊張を解いていった。
「………名前さん。」
「なぁに?」
「…………なんも聞かねえの?」
「悠仁くんは聞いて欲しい?」
「……………。」
「大丈夫。聞かないよ。」
「…っ……。」
悠仁くんの肩が震える。
今回の事件は、間違いなく悠仁くんの心に深く傷をつけた。
心を閉じてしまったらどうしよう
そんな考えが一瞬だけ頭を過る。
でも、子供は大人が思ってるほど、子供じゃない。
その”時”を自分で見つけたら、ちゃんと立ち上がる。
1人で立ち上がる方法を教えるのは、たぶん五条の役目。
私の役目は、ひたすらに信じて見守ること。
黙って見守ることはとても忍耐力が必要だし、もどかしい。だからと言って、こっちで勝手に「今がそのタイミング」って行動を起こしても、それは何の意味もない。
「手を貸して欲しい」「背中を押して欲しい」そう言うサインを出してきた時だけ、手伝ってあげればいいのかなって私は思う。
そう考えると私が出来る事って本当に少ないなぁ…。
ダメな大人は私かも。教師の立場にある五条が少し羨ましいや。
思い通りに出来なくて、
苦しくて、嘆く日があっても、
永遠に同じ日が繰り返される訳じゃない。
大丈夫。
誰よりも優しくて強い君だから、また前を向いて、走り出せるようになる。
だから、今だけは…
肩の荷を降ろして、少し休憩しよう?
静寂の中で、悠仁くんの鼻をすする音がかすかに聞こえた。