今日のノルマだった書類と伝票作成。それを終えた私は、ぐっと伸びをした。
降っていた雨はすっかり止んでいて、窓からは綺麗な青空が覗いている。
ふわふわと流れる雲を見ながら傍に置いていたマグカップに手を伸ばす。
…あんまり美味しくない。
熱々でいれたアールグレイは、時間が経ってぬるくなってしまった。
カップの中の残りを一気に喉へ流しこんでから、ぐるりと周囲を見渡した。
伊地知さん、まだ戻って来てないんだ。
時計を見ればそこそこ時間が経っていて「七海さんと悠仁くんは大丈夫かな」と、少し心配になった。
「戻りましたっス〜!」
「明ちゃん、お帰りなさい。」
「ただいまっス!名前さん、さっき家入さんに会ったんスけど、時間が出来たら医務室に来てくれって言ってたっス。」
「硝子ちゃんが?」
お昼に会ったばっかりなのに…どうしたんだろう。
「改造人間?七海さんと悠仁くんが戦った呪霊が?」
「ああ。身体の一部が人間と酷似しているのに七海が気付いた。回収した呪霊の死体を調べてみたら、呪術で体の形を無理矢理変えられた元人間だったよ。」
硝子ちゃんはそう言いながら、私にコーヒーの入ったカップを手渡した。
持っていたコーヒーを一口含んでから、硝子ちゃんは続ける。
「死因はザックリ言うと体を改造させられたことによるショック死。虎杖には、殺したのはお前じゃないからその辺り履き違えるな、とは伝えてある。」
呪霊は呪霊でも、元は人間。
心優しい悠仁くんは、罪の意識を感じて、自らの行為を悔いて、自分を責めているかもしれない。
悠仁くんの事を考えたら、たまらない気持ちになった。
「一応、名前にも話しておこうと思ってな。」
「…わかった。話してくれてありがとう。悠仁くんの事、気にして見とく。」
「名前。」
「ん?」
「私達が戦うのは呪霊だけじゃない。状況によっては、呪詛師…人を殺すことだってある。それが例え、かつての友人だったとしても。」
硝子ちゃんは、何かを思い出すように、ほんの少し自虐的に笑った。
「…怖いか?私達、呪術師が。」
一呼吸置いてから硝子ちゃんが私に問いかける。
自虐的な笑みは消え、淡々とした声、淡々とした表情だった。
「まさか。怖いなんて思わないよ。」
理由はどうあれ、人を殺した。それを殺人と世間は言うだろう。
でも、正義の形は色々ある。
それに…、
「人殺しなら、私も同じだもの。」
「…それ、どう言う意味だ。」
「そっか。硝子ちゃんには話してなかったよね。私の昔話にちょっとだけ付き合ってくれる?」
硝子ちゃんが頷いたのを確認してから、私は話を始めた。
「あのね、」
自分が稀血だと知って、わかった事がある。
遠くはなれた山の中で死体となって見つかった、私を虐めていた男の子。
あの男の子は、私の血を狙って襲ってきた呪霊に殺された。
私のせいであの子は殺された。
私が、殺した。
「それこそ殺したのはお前じゃないだろ。」
「殺したのは呪霊でも、私がいなければあの子は今も生きてた。だったら、私が殺したのと同じだよ。」
「名前…お前、大丈夫か?」
気づかわしげな硝子ちゃんの問いに、「大丈夫だよ」と微笑んだ。
何かの本で読んだ事がある。
人間には“三つの死”があって、一度目は心臓が止まった時、二度目は埋葬や火葬をされた時、三度目は人々がその人のことを忘れてしまった時らしい。
誰からも忘れられてしまったら、人は永遠に死ぬ。
”殺したあの子の分まで精一杯生きていく”
そんな台詞は言えないけれど、私は絶対にあの子を忘れないと決めた。それがせめてもの罪滅ぼし。
「ねえ硝子ちゃん。」
「なんだ?」
「私のこと、怖いと思う?」
「思うわけないだろ。」
「ありがとう!私も同じ。呪術師のこと、私の周りにいる皆のこと。ちっとも怖くないよ。」
顔を見合わせた私達は、どちらからともなく表情をゆるめた。
「やっば!もうこんな時間!悠仁くんの夕食作らなきゃだし、私そろそろ戻るね。コーヒーご馳走さま。」
「おー。…悪かったな。」
「全然!私こそ長話しちゃってごめん。また来るね!」
「ああ。待ってる。」
ばいばいと手をふってから医務室を出て、私は地下室へと向かった。
その日、任務から戻ってきた悠仁くんは、いつもと同じ笑顔だった。