事務室に入ってきた伊地知さんが、はーっと胸を撫で下ろす。
「伊地知さん?」
「苗字さん。すいません、少し緊張して…。」
「緊張、ですか?」
「はい。今、京都校の楽巌寺学長の案内を…。」
「あれ…京都校の学長、いらっしゃってるんですか?夜蛾学長、まだ戻ってませんよね?」
「あ、…ど…どどどどど…どうでしょう…」
ギギギ…と、壊れかけのゼンマイ人形のように伊地知さんは顔を背けた。
怪しい。ものすごーく怪しい。
「……………伊地知さん?どういうことですか?」
「…………じっ、…実は……、」
来客用の高級玉露を淹れて、溢さないように気を付けながら廊下をズンズンと進む。
走りたいけど、走れないから…早歩きと言うよりは競歩だ。
私、今なら競歩の大会とか出れちゃう気がする…!
伊地知さんを問いただすと、五条に脅されて夜蛾学長に嘘のスケジュールを渡し、楽巌寺学長を待たせていると言っていた。
五条の事だから、単純な嫌がらせにプラスして何かあるんだろうけど……来客、しかも京都校の学長にお茶も出さずに放置は大変マズイ。
「失礼します!」
伊地知さんに聞いた部屋の扉を開ければ、ソファーに座る老人が一人と、壁際に女の子が一人立っている。
「お茶をお出しするのが遅くなってしまい申し訳ありません。どうぞ。」
膝を曲げて腰を屈めてから、湯気の立つお茶をローテーブルに置く。良かった。溢れずに持ってこれた。
「お前が………苗字名前か?」
「え?…はい。私が苗字名前ですが…。」
お茶を出し終わって、身体を起こそうとした時に突然声を掛けられた。
京都校の学長が私の名前を知っている事に驚く。
「お前の血が、あの呪霊共に力を与える事が出来ると聞いておる。」
「………。」
「ホレ、もっと近う寄って顔を見せなさい。」
ああ。そっか。私が稀血だから知ってるのか。
楽巌寺学長が、私に向かって皺だらけの手を伸ばす。
─────ガラッ
「僕の名前に手出すのやめてくんない?夜蛾学長ならしばらく来ないよ。」
あと数センチで私の頬に手が届く、その瞬間、勢い良く扉を開けて入って来たのは五条だった。
五条は私の腕を引いて無理矢理ソファーに座らせ、自分も隣に座った。
「嘘の予定を(伊地知を脅して)伝えてあるからね。
その説はどーも。」
「はて、その節とは。」
「とぼけるなよジジィ。虎杖悠仁のことだ。
保守派筆頭のアンタも一枚噛んでんだろ。」
「やれやれ最近の若者は…敬語もろくに使えんのか。」
驚きで立ち上がるのが遅れた。
五条と楽巌寺学長のピリピリとした雰囲気と、始まってしまった会話。
仕方ない…このまま黙って座っていた方が良さそうだ。
「ハナから使う気がねーんだよ。最近の老人は主語がデカくて参るよホント。」
「ちょっと、」
敬語も使わず、煽るような態度で話す五条。
そこへ今まで黙っていた女の子が割って入った。
「これは問題行動ですよ。然るべき所に報告されてもらいますからね。」
さっき悠仁くんの名前が出たから、きっとそれに対して五条は怒ってる。
もしかして、1年生の悠仁君達が特級案件に関わったのって…。
でもこの子から見れば、こちらがお茶も出さずに京都校の学長を放置して、挙げ句の果てに煽るような態度を五条が取ってるんだもんね。そう言われても仕方ない。
「ご自由に。こっちも長話する気はないよ。」
女の子にそう返して、五条は話を続ける。
「昨晩、未登録の特級呪霊2体に襲われた。」
「!…それは災難じゃったの。」
「勘違いすんなよ。僕は町でアンケート取らされた位のハプニングさ。」
何それ。私、五条が襲われたなんて聞いてない。
昨日、夜蛾学長との会食から帰ってきた五条は、いつも通りの五条だった。
会食に行く前に襲われたの?それともその後?
特級呪霊2体って、普通に考えたら大変な事じゃないの?怪我は?
五条が話をしてくれなかった事が、何故か無性にイラついた。
「牙を剥くのが五条悟だけだと思ってんなら…痛い目見るよ、おじいちゃん!!」
「少しお喋りが過ぎるの…!」
「おー怖!!言いたいこと言ったから退散しよーっと。」
楽巌寺学長の低い声に、ハッと意識が戻る。
隣の五条を見れば、テーブルへ手を伸ばして湯呑みを掴んでいた。
え、待ってそれ楽巌寺学長に淹れたお茶…!
私が止める間もなく、五条は一気にお茶を飲み干してしまった。
「名前、行くよ。」
「ちょっと五条!?
も、申し訳ありません失礼致しますっ…!」
空の湯呑みをテーブルに戻した五条は、腕を引いて私を立ち上がらせると、そのまま出口に向かって行く。
「あ、夜蛾学長は2時間位でくるよー」
去り際に軽く爆弾を落として、じゃーねーと手を振りながら五条は部屋を出た。
2時間!?夜蛾学長にバレたら絶対怒られるよ!?
「ねぇ!あのまま放置してて良いの!?
それに…悠仁くんの事に楽巌寺学長が一枚噛んでるって何!?特級の呪霊に襲われたなんて、私、一言も聞いてないんだけど!!」
「…うるせぇなぁ、」
五条は空き教室の前で立ち止まると、扉を開けて私を押し込んだ。
「何すんの、……っ…!」
目隠しを外した五条と目が合った瞬間、両手を掴まれ、そのまま壁に押し付けられた。
いつもの五条と様子が違う。逃げられない。
「名前こそ…何触らせようとしてんの?」
ゾッとするほど低い、押し籠った声。
五条の綺麗な目に射ぬかれて、思わず一歩後退りする。パンプスが壁にコツンと当たった音がして、それ以上は下がれない。
「ご…じょ、」
「あ"ー…すげームカつく。」
五条はそう言って、両手の拘束はそのままに、私の肩に頭を預けて来た。
近い距離が更に近くなる。私の心臓の音、五条に絶対聞こえてる。
暫くしてから私の両腕の拘束が解かれて、やっと解放されたと思った矢先、今度は強く抱き締められる。
「…五条?」
私が名前を呼ぶと、五条が顔を上げる。そのままジリジリと近づく距離。
「あっれー!?何処行ったんだろ。確かこっち行ったよね?」
「…っ!わ、私、伊地知さん待ってるから先行く…!」
外から聞こえて来たのは、楽巌寺学長と一緒にいた女の子の声。
その声に気を取られて身体が離れた瞬間、私はそこから飛び出した。
今、あの子の声が聞こえなかったら……もう少しで…触れてた…よね。
…っ…心臓痛い。
あーもう考えるなっ…!!!
「うわっ…!びっくりした…!あれって…さっき五条悟の隣に座ってた人、だよね?」
名前が飛び出した後、目隠しを元に戻して外に出た。廊下には先ほど声が聞こえた京都校の生徒が立っている。
「あーーー!いた!五条悟!すいません!!私と写真撮って貰って良いですか!?」
「写真?モチロンいいよ。」
快く写真に応じると、彼女はスマホのインカメラで何度か撮影をした。
撮影した写真をその子が確認している間、名前の事を考える。
あの様子だと、今日は口聞いてくれないだろうなあ。いや、無理矢理距離詰めて反応見るのもいっか。真っ赤な顔してんの可愛いし、何より僕が楽しい。
それにしても…あの顔で見上げて来るのはズルいでしょ。
悠仁の事も、名前に触れようとしてた事も。
あのクソジジイにすげームカついてたのに、あの顔見たら何もかも吹っ飛んだ。
この子の邪魔が入らなかったら…あのまま奪ってたんだけどなぁ。ちょっと残念。
「ありがとうございます!」
「どーいたしまして。」
「あの〜…さっき一緒にいた人って、彼女サン…とか?」
確認が終わったのか、彼女はスマホをポケットにしまった。
チラチラとこっちを見てくるので何か聞きたいことでもあるのかと待っていたら、名前は彼女なのかと問われる。
「彼女…。いや、未来の奥さん…かな?
今はまだ…僕の本気の片思い。これ、ナイショね?」
「は、はいっ…!!!(ヤッベーーー!!五条悟ヤッベーーー!!!!)」
人差し指を唇に当てて、「しーっ。」というジェスチャーをすれば、京都校の生徒は首が取れそうな勢いで何度も頷いた。