殆どの船員が寝静まったような真夜中。翌日の仕込みを終わらせ、暗い、閑散とした食堂で煙草を咥える。先端に灯った僅かな火が、俺の動きに合わせて蛍のように暗闇を舞った。 吸い込む度に咥内を浸蝕する独特の苦みが、舌を麻痺させ、イカれさせる。だから基本、煙草は料理人にとっちゃあまり褒められたもんじゃない。頭の中で「不味い料理を他人様に食わせるな」と口を酸っぱくして怒鳴る見習い時代の料理長が再生されるが、努めて無視した。所詮手慰みのようなもので数は少ないし、こうして吸うようになっても、大して旨いと感じないのだからと言い訳して。 言うなれば、眠気覚まし。 ゆるゆると訪れる睡魔は、舌先から伝わる独特の苦味に圧されて鳴りを潜める。 「………」 ポケットから、調理時間を計る為に持っている懐中時計を取り出して、開く。長年愛用しているそれは既に金属としての輝きを失いくすんではいるが、相変わらず長針と短針は正確な時間――真夜中を随分と過ぎた頃、を指し示している。 ――ぱちり。 蓋を閉めた音だけが、広い食堂の空気を震わせた。 (…来る訳ねぇか) 聞いた予定を思い出して、溜息を吐く。全く、俺は何やってんだか。帰ってくるのは、明日。日付を超えた今からでも、何時間も先の話だ。 いつの間にか長くなった灰を落として、再び咥えたその苦さに眉根が寄った。 「不味ぃ…」 「じゃあ吸うなよい」 「っお、」 ふと漏らした、食堂に空しく響くだけだと思っていた独り言に、返事が返って来て驚いた。振り返った先には、この薄闇の中でも分かりやすい独特のシルエット。 「…なんだ、マルコか」 入口近くの壁にもたれるようにして、腕を組んだマルコがこちらを見ていた。 「こんな時間までどうした」 「そりゃこっちの台詞だよい。仕事の合間にコーヒーを飲みに来たらアンタが居たんだろい」 「そうかい。なら起きてるついでに淹れてやるから座っとけ」 「元からそのつもりだよい」 至極当然のように、図々しくもそう言ってカウンター近くの椅子にマルコが腰を下ろす。俺は煙草を灰皿に置いて、濃いめのコーヒーを淹れてやるためにキッチンに入る。湯を沸かしている間に見たマルコは肩を回したり眉間を揉んだりと、あの様子じゃどうせ徹夜コースだろう。ご苦労なことだ。 疲れたような溜息が耳に入る。 「あんま根詰めんじゃねぇぞ」 一言、そう言えばマルコは動きを止めてこちらを見た。そうしてすぐに、カウンター越しの憎ったらしい笑みを返してくる。 「分かってるよい。そっちこそ、こんな時間まで起きてて体力は持つのかい?」 と、せっかく人が心配してやったってぇのに可愛くねぇ。腹の立つ顔にはっきりと浮かんでいるのは、若さに対する優越感。自分も世間一般から見りゃおっさんと呼ばれる歳だというのに、相変わらず人の神経逆撫でするのに余念が無い奴だ。 「舐めんな。伊達にお前らの飯を毎日作ってねぇよ」 「年寄りのくせしてよく言うねい。ぶっ倒れても知らねぇぞ」 「…お前それ今度オヤジ殿に言ってみ。あいつ年寄り扱いしたらキレるから」 飯と酒について常日頃から怒鳴り合いを繰り返しているこの船の主を思い浮かべて、今度は俺が疲れた溜息を吐き出した。 「ほんとアイツはどうにかしろ。お前息子だろうが」 「何言ってんだい。オヤジはあれで良いんだよい」 「このファザコン」 「何とでも言ってろい」 加えてマルコの言葉に余計疲れが増した気がするも、手は止めずにサイフォンへと湯を注ぐ。少しして、下から上った湯が挽いた豆に到達して濃い茶に染まる。キッチンに、コーヒーの僅かな苦味を含んだ豊かな香りが広がった。 ああ、上出来だ。 当てていた火を止め、コーヒーが下に溜まるのを見届けてから、棚からカップを取り出して砂糖1杯にミルクを少し垂らす。そこまでやったところで、マルコが口を挟んだ。 「おい、甘くすんなよい」 「甘党のガキが生意気言ってんじゃねえよ」 「ガキじゃねぇ」 「一回り違ぇなら十分ガキだっつの」 文句を一蹴つつ甘い香りも加わったコーヒーを差し出せば、不機嫌な顔をしつつも手はしっかりカップを受け取る。思わず噴き出しちまったのは仕方ないだろう。睨まれたが、カフェオレ片手じゃ恐くもない。 「コーヒーは味わうもんだ。眠気覚ましに飲むもんじゃねえよ」 自分用に注いだカップに口をつけ旨いだろ?と続けた言葉に、大変厭そうなしかめっ面を頂いた。 旨かったよーで何より。 「それ飲んだら少しは寝ろよ。お前が隈抱えてちゃあ、あいつが心配する」 「へいへい」 残ったカフェオレを一息に片付けて、生返事と共にマルコが席を立った。そして、俺が置いておいた煙草に手を伸ばす。 「おい、煙草が吸いてぇなら自分のでやれ」 「いいだろい。アンタじゃ煙草が勿体ねぇよい」 「あぁ?」 何言ってんだこいつは。 分かってないのが顔に出ていたのか、短くなった煙草をくわえたマルコがこれみよがしに煙を吐いて、一言。 「煙草は楽しむもんだろい?眠気覚ましに吸うもんじゃねぇ」 「…………ぁー、」 「明日はアイツが帰ってくるんだ、せいぜいぶっ倒れねぇように早く寝ろよい」 「…へいよ。分かった分かった」 使ったカップやらなんやら片付けて、マルコと肩を並べて食堂を後にする。 「なあマルコ」 「なんだよい」 「明日何が食いてぇ?」 「言ってアンタは明日作ってくれんのかい?」 「選択肢にゃ入れといてやるよ」 漏れた笑い声はほぼ同時だ。 そうしてマルコから告げられた料理に、さらに笑った。 「お前ほんとにそれで良いのか?」 「ああ」 夜も深い真夜中に、野郎二人でげらげらげらげら。寝てる奴にゃ悪いが、明日の飯は豪華にするから許してくれ。 どうせ、明日は宴だからな。 帰ってくるまで、 起きてるからね (親バカと兄バカが、お前の帰りを待ってるぞ) [戻る] |