3回目
汗の臭いが棗の高い鼻を衝く。溢れ出る人の渦は、骨と皮で出来た彼の体を巻き込むと右へ左へその数を振り回していく。
彼の胃はその度軽いジェットコースターに揺られているかのように動き回ると、酸性の液を出し、彼をえずかせた。
「棗っ」
不意に伸びてきた腕が彼の腰を掴む。横に引っ張られるその力は、渦の中にいる何よりも力強い。声は渦の中に消えてしまったが、棗は体をそれに預けると安心した様子で倒れ込んだ。
「深羽……」人影からすくい上げられると、棗はぐったりとした様子でその平らな胸に寄りかかる。
「大丈夫か? 棗」
汗の伝っている額と首筋に掛かる、小豆色の小ざっぱりとした短髪。吊り上った眉と爽やかな笑顔。棗が想像した通り、それは間違いなく堺深羽と言うクラスメイトだった。
「酔っただけ」
「そうか。なら良かった、ほら飲み物やるから元気出せよ」
手渡しされたペットボトルは、棗が教室に置いて来たものだ。棗は飲み口に唇をあてがい、横目で深羽を見つめると「あざす……」と呟いた。
横目で見た深羽は、今日も水色の指定されたスカートを身に着け、何食わぬ顔で堂々と校則違反の黒スパッツを覗かせている。はみ出した筋肉質の太ももと、筋の入っているふくらはぎは、どこからどう見ても男の脚のようだったが、やはり上を見ればスカートを履いているので何個も疑いたい所はあるが、"男らしい女"だ。
棗は未だに幾度となく心の中で「これ、女だよな」と唱えると「勿体ねえ」とペットボトルを握り締めた。
「どうしたんだよ、棗」
彼女は心配そうに顔を覗き込むと、彼のペットボトルを奪い取る。
「もう飲まねーなら、貰って良いか?」
「おう」
飛んだペットボトルはベコッと音を鳴らすと深羽の手の中に落ちる。どうやら中身は空だったらしい。
「テメ! ざっけんなよ、なくなってんなら言えよ」
下がり眉になった彼女は、溜息をつきながら比較的すいているゴミ箱にそれを投げると、近くの椅子に腰を下ろした。
「なあ、今日なんでこんなに混んでるか知ってる? 午前終わりだから?」
「さあ?」
「お前、理由もわからずあの群れに突っ込んだのかよ……」
「おう」
棗はそう言って深羽の横に腰掛ける。
よく見ると、人間はどこを見ても言うまでもなく同じ学校の生徒だ。いつもなら、女子ばかりいるクラスに居づらい男子生徒がフラフラとやって来ては、弁当やら購買のパンやら麺類やらを買って食べているのだが、今日は男子生徒の姿が見えない程に女子が多い。
「なんなんだよー、これじゃあジャンボカレーパン買えねえじゃん!」
唇を尖らした深羽は足をばたつかせる。棗は白いテーブルに突っ伏すと「メシ……」とだけ口籠った。
「アッ!」突然、棗の後ろで素っ頓狂な声が上がった。
「なんだ、深羽じゃないか」
顔を上げると、人ごみから抜け出してきた男子生徒が二人いる。
「あれ? 律に刹那、どうしたんだよ。そんな場所から」
一人は傷だらけの柔らかな頬に触れると「えへへ、今日なんかすごい発表があるらしいから来たんだけどね。まだだったみたい」と無邪気に笑う。
「は? 発表?」
「うん、発表」
律と刹那は顔を向け合い「ねー」と同時に体を傾ける。
「なんだよ、それ。じゃあコレその発表とか言うのの為のかよ」
呆れた顔で深羽は溜息をつくと、またテーブルに張り付いた棗をよそ目に二人が抱えたパンに手を伸ばした。
「なあ、一個くれよ」
「え?」
傷のない切れ長の目を持った方が繰り返す。
「一個くれよって、コレをかい?」手に持ったパンは紛れもなく、さっき深羽が叫んでいたジャンボカレーパンだ。
「おー、それそれ。くれよ!」
切れ長はううん、と唸り声を上げると「だって、深羽本気出せばこれくらいあの中から買って来れるだろう?」
「何言ってんだよ。そんな自殺行為するか! 腹減ってやばいんだってーお恵みをー、律様ァ」
手をこすり合わせるように深羽は「ひもじいー」と叫び、ジャンボカレーパンを視線から離さない。
「し、仕方ないなあ。深羽は」
律と呼ばれた切れ長は、その袋を上げると「半分だよ?」と分け与える。と、深羽の方へ伸ばしたパンが欠ける。
「うっま」
銀色が光る唇に、それをなめとる赤い色。真っ青な前髪をかき上げると、それは「なかなか」と舌鼓を打つ。
「な、なつめー!」
律の手に乗ったまま、減って行くカレーパンはぺろりと彼の口の中へ仕舞われると喉を通り、胃に落ちる。
「律、そっちもくれ」
「え」
「いいだろ?」
希有すぎる満面の笑みを浮かべると、棗は律から袋をかすめ取る。
「ちょっと、ちょっと棗。ダメだよ、それ律ちゃんのだってば!」
片割れの刹那は、袋をぐいぐいと引っ張るが気にもせず、棗はパクパクと口に放り込む。
そして空の袋は無残な音を立てて深羽の膝の上に置かれた。
「ごっそーさん」
「おい、棗。お前、マジふざけんなよ」深羽は怒りでこぶしを震わすと「もうゼッテーねえだろ、あん中!」と人込みを指す。
「さっさと食わないのが悪い」
機嫌悪そうに睨みつけた棗は、まだ食べたりないのか刹那の重ねたサンドイッチを掴むとペリペリと包装を解いた。
「マジ、ふざけ」
その時。耳障りな電子音が響く。
「アーアーアー、マイクテスでしょう。マイクテスでしょう」
収まった音の中から現れたのは生徒会長だ。その姿は人込みと歓声で埋め尽くされ聞こえそうにないが特徴的な語尾が、彼女であると知らせていた。
「なんだよ、うっせーな!」収まらない怒りを大声に乗せると、深羽はブンブンと拳を振り上げる。
声の主は「マイクテスでしょう! んん、ああ」と反復してやっとの事でまともな喋りを始めた。
「えー、皆様。生徒会長の鶴橋妃でしょう! 大切なお知らせがあるのでよく聞くでしょう。今月から、なんと! 購買でリクエストの多かったデザートを販売することにしたでしょう! そして特別に今日は個数制限がなく、割引をしているのでいっぱい買うと良いでしょう!」
黄色い声と喝采が彼女を包む。中には「早くして」と言う声まで聞こえた。だが、彼女の息を吸う音が聞こえるとまたたくまに声は止む。
シンとした中で深羽と棗は顔を見合わせた。
「なあ、デザートって棗がリクエストしてたヤツだよな?」
「おう……」
沈黙が流れる。
生徒会長は溜めた息をどれあだけ堪えていたのか、マイクを通さなくても充分食堂内に響きそうな声で吠える。
「それでは! 販売開始でしょーう!」
女達の咆哮と共に、ガサガサとビニール音が響く。生徒会長はヒョイッと副会長に引っ張られると後ろへと引っ込んで行った。
「えっ、堺さんと棗買いに行くの? さっきはいかないって」
走り出した後ろ姿に刹那が声を張る。
「バカヤロー! 今日買わないと棗の胃を満たせる訳ないだろ!」
深羽はガハハと笑い声をあげながら、周りの鍛えていない女達を弾き飛ばしていく。まるで今日の為に体を鍛えていたようだった。
「棗、買えたか?」
戦利品。まさにそう呼ぶのが正しいだろう。刹那の比ではない傷と食べ物を抱えた深羽は、戦地から足を引きずり戻ってくる。
「誰だよ、ヒールのあるローファー履いてたの」
うんざりした様子の深羽はテーブルにTシャツや腕に乗せた戦利品を広げると、その中にはいつのまにかパスタやパンなども混ざっていた。もちろん、ジャンボカレーパンもだ。
「堺さん。これ全部食べるの?」
「あー、なんか一緒に安売りしてた。ジャンボカレーパン以外はほとんど棗にやるよ」
足をブラブラとした深羽は痛いのかスニーカーと靴下を脱いで「あー」と低い声を上げている。見事に踏まれたのか、ヒールの跡がクッキリと足に出来ていた。
「で、棗は?」
吐き直した靴の爪先をカンカンと床に当てて、深羽は刹那と律の方を見上げる。
「そこにいるよ」
律が示したのは、さっき買ってきた戦利品の奥だった。
ぐったりとした様子で椅子に座る棗は、本気でも出したのだろうか。毎日買う事を任せている深羽よりも多いデザートを買い占めている。どれも五十個数限定など――と言っても今日の場合すべてが個数限定のような物だが――ばかりだった。
「おーい、棗。食わねえの?」
「食う」
耳のピアスは引っ張られたのか血がにじんでいた。
「あー、うっめー」
感心した様子で頷き続ける深羽は、分け与えた自分の戦利品を食べる刹那と律を見て「な? うめーよな」と唇を噛みしめる。
「ねえ、棗。どれが一番おいしい?」
食べる速度は関係ないのか、パン、パスタ、おにぎり、弁当、デザートの山に囲まれた棗は「コレ」と普通のカレーパンを掲げる。そしてサッと元に戻すと、また山の向こう側から咀嚼する音を時折聞かせた。
「さすがに食べ過ぎた気がするぜ」
棗が開けた袋の音と共に深羽はテーブルに倒れ込む。
「俺も結構食べちゃったなー。シュークリームやめとけばよかった」
「僕もだよ、甘い物は魔物だね、本当に」
次々と倒れ込む中、棗は随分減った山の中でおにぎりにかぶりつく。
昆布がはみ出す唇を見つめて、深羽は「はあ……、お前の胃袋ブラックホールだろ。どこにそんな量収納されてんだよ」と呟く。
「地球丸ごとは食べれない」厚みのない体にすんなりとおにぎりが入って行く。
「当たり前だろ! てか、その言い方海だけだったら行けます発言じゃねーか」
返事の代わりにパンッと袋が裂けて最後のあんパンが現れた。おもむろに深羽の腕が伸びていく。
「返事しろよ、棗ー。ていうか飲み物あげたからデザート代わりに一口くれ。それ女子が話してたヤツだろ」
「やだ」
「なんでだよー」
もう歯型の残るパンの袋をつかむが、棗は離そうとしない。それどころか今までにない鋭い目つきで睨み、残りを無理やり口に押し込んだ。
「うっわー、お前。えー、えー」
リスのように頬が膨らんで、棗は得意げな顔で笑っている。
「マジ、それはないだろー」
深羽はそんな顔といつもの端正な表情を頭の中で比べ、腹を抱えた。
指先で遊ぶように、棗はさっき食べたパスタのフォークを回してつまらなそうに。
「さっきの返事。空くらいならなんとか、飲めそうな気がする」
腹を擦っていた深羽は「まじかよ。胃もたれしてきた」と苦笑いを浮かべた。
「なあ、棗。メシはカレーパンが好きっていうけどさ、デザートは気に入ったヤツあったか?」
ふと、深羽はやっとデザートへと達した棗を目を細めて見つめる。
「コレ」
棗は今フォークを刺したケーキを持ち上げる。
人口着色料の入っている、どう見ても"おいしくなさそう"な棗の髪と同じ色をしたケーキだ。
「ウゲェー、絶対おいしくないだろー」
「うまい」
切り取ったケーキを棗がそっと深羽の口元に運ぶ。
「あ、マジだ」
ホロリ、と口の中でとろけるクリームに深羽は頬を緩める。
「見た目で判断するなってヤツだな」
「おう」
寝ていた二人は知らない間に目を覚ましていたのか、その会話を聞いてクスクスと声を漏らした。
「棗、本当に空食べてる」
「ね」
「ところでさ、今日メシ買ったじゃん」
帰り道。自転車の後ろに乗った棗が、深羽の肩を掴んで囁く。
「明日遊びに行く金足りなくなったから貸して」
2回目の整理を元に書き直す。
0回目と同じでぶっ通しで書きます。
その際にうまくいかなければ、2回目に戻ったりします。
熱中しすぎると同じ角度からしか書けなくなるので、違う掌編を書いてみたりもします。
冒頭だけ書いて、放置。書いて放置。という事もしばしば。
没になった冒頭
汗の臭いが鼻を衝く。 棗は溢れ出る生徒達の渦に巻き込まれ、胃の奥から嗚咽を漏らした。入り乱れる人間は右へ左へ、目当ての物を奪おうと動き。彼の細い体をはじく。
「棗ッ!」
不意に伸びてきた腕が棗の腰を掴む。
人影からすくい上げられると、その人物は棗の頬を拭った。
「大丈夫か、棗」
額と首筋に掛かる小豆色の小ざっぱりした短髪に、吊り上った眉が何とも凛々しい爽やかな表情だ。
名前は堺深羽。指定された水色のスカートを夏冬関係なく今日も短く折り、下から堂々と校則違反の黒のスパッツを覗かせている。そしてそこからはみ出した肌色。程よく肉のついた太ももと、立っているだけで横に筋の入るふくらはぎ。仕草や口調から疑いたくなる部分もある程の"男らしい女"だった。
棗は唇を噛んで、遠目に人々を見つめると「深羽、ありがと」と浅く笑みを浮かべた。