キリトリセン



「現実感がない」
「……は?」
 こいつは時々、意味が分からない。例えばこう、こいつがソファーに横たわりながらテレビを見ていて、俺がその横で編み物をしている時に、突然そんな発言をするように。
「ウイルスは関係ない訳がないだろう」
 テレビでは、最近流行りの感染症の特集をしている。若く健康な人でも、運が悪ければ死に至るウイルスだ、決して他人事ではないのだが。
「それは理解している。だが現実感がない」
「どういうことだ」
「理解できないか?」
「俺とお前の思考や感覚は違う。いつも以心伝心な訳がない」
「ああ、そう……」
 あいつは手持ち無沙汰なのか、胸ポケットに差していた黒いボールペンをくるくると回し始めた。
「テレビでは危機感を煽っている。市中ではマスクなどの衛生用品が品薄になっている。だからウイルスが流行っているのは現実なんだろう。だがどこか、一枚、壁かガラスを隔てた向こうの世界のことのように感じる。対策はするけれども」
 そこまで言われて、またそれか、と思い至る。それはあいつの世界の見え方の癖。殻に籠もっている訳ではないが、どこか一歩引いたところで世界を見ている時がある。俺はあいつがそんな状態になっていることを、その言葉から察する必要があった。
 そうなっていることに気付いたところで、何か特別なことをする訳ではない。俺がその「壁」や「ガラス」を打ち破り、あいつに接近する訳でもない。何か対処しなくとも、どうしてか俺の言葉はあいつに届いているらしいから。
 あいつは起き上がり、おもむろに手を握ったまま、左腕を横に伸ばす。手の平を下にしてぱっと開き、それから何かを握るような動作をした。そして、その腕を×印を描くように動かし、手の平を上にしてしばらく、それから手をグーにして、空間を突き破った。
「例えばこの空間に切り取り線があるとする。僕は今、それをナイフで切った。くじ引きで手を入れるところのように。それを今度は物理的に破壊していく……」
「何言ってんだ」
「やだなあ、僕は今でも手からナイフが召喚できるって信じてるよ?」
 ああ、付いていけない。どうして俺は、こんなやつと同居しているのだろうか。
 だが、時折そんなところを見せるの以外は、いたって普通なのだ。そう、「そういうところ」以外は。一応、想像力を総動員して、話は合わせてみる。
「で、物理的に破壊した先に何があるんだ? 現実か? 『壁』は突破したんだろ?」
 すると、あの人はニヒルな笑みを浮かべるのだった。
「違うよ。ピザ屋さんがあるんだ」
「……は?」
 あいつは立ち上がる。脱ぎぱなっしの青い上着を着て、テーブルの上に置かれていた携帯電話をポケットに入れた。
「腹が減った。ピザ屋に行ってくる。海鮮、チーズと野菜、プルコギ、どれがいい?」
「……海鮮で」
「はいよ」
 玄関に向かうあいつを、俺は追わない。面倒な会話にこれ以上付き合いたくないからだった。
 部屋にワイドショーの音声だけが響く。これ以上先程の会話について考えていても仕方ないので、俺は編み物に戻った。


(2020.04.09)

[ 17/40 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -