カシスソーダ(1)


(京急電鉄主催『未来へ広げる、この沿線の物語を書こう』応募作品)


子供の頃から、京急の赤い電車を見て育ってきた。
母は物心つく前に亡くした。男手一つで僕と一歳年下の弟を育ててくれた父は大の鉄道好きで、僕達を電車で様々なところに連れて行ってくれた。近いところから、遠いところまで。
その影響だろうか、僕と弟も鉄道ファンになり、弟は地下鉄の会社に就職し、僕は仕事こそ鉄道関係ではないものの、どうしても大好きな京急沿線からは離れる気になれず、都区内の民間会社に勤め先を定め、通勤の都合上横須賀から蒲田に引っ越した。最寄りは京急蒲田、京急の本線と空港線が分かれるところ。駅が新しくなって、駅前のスペースから見上げる高架が眩しい。
そんな、僕と弟に鉄道の楽しさを教えてくれた父も、去年この世を去った。僕は今30歳、弟は29歳。弟は3年前に結婚し、僕は未だ独身。家のために、とか、長男だから、といったしがらみはない。けれど、正直焦っていた。このまま、ずっと一人になってしまうのではないか。
好きな人はいる。しかし大学を卒業してからは連絡がつかない。学生のうちに、勇気を出して告白すれば良かったと後悔している。それが今の僕だ。

季節は夏。今日は日曜日、僕にとっては休日だ。でも特に予定はない。弟は仕事。友達は、今から連絡してすぐに逢えるか怪しい。けれど家でじっとする気分ではない。その時、脳裏にある場所が浮かんだ。
――そうだ、空港に行こう。
ここに引っ越してきてからは、空港は自分にとって、単なる航空機の発着場だけではなく、生活に組み込まれた気分転換の場所の一つになっていた。一人で散策したり、食事やお茶を楽しんだり、飛行機の離着陸を眺めたり。
そうと決まれば早い。適当にジーンズとシャツを着て、腰のポーチに財布と携帯電話を入れ、ポーチとは反対側の腰ポケットに定期券。
マンションの部屋を出て鍵をかけ、歩いて数分。高架を潜り抜けて駅に入り、時刻と番線を確認して改札にタッチ。空港方面は定期区間外だから、ICカードの残額を確認。1000円と少し。十分だ。
エスカレーターで二階に上がって、4番線で電車を待つ。
『まもなく、4番線に、エアポート急行、羽田空港国内線ターミナル行きがまいります。黄色い線の内側までお下がりください』
来た来た、赤い電車。昔は歌う電車もたくさんいたが、今はあまり見なくなった。旅行鞄を持っている人も多い中、必要最小限の荷物で乗り込んだ目の前の子も、歌わずに静かに発車した。
糀谷、大鳥居、穴守稲荷。天空橋を過ぎて、国際線ターミナル。今日はここで下りよう。
エレベーターに乗って上がって、それから改札を抜けて。左へ行けば、国際線の到着ロビー。座って待つ人、扉の近くに立ってボードを掲げる人。けれど僕の目的地はここではないし、仮にそこにいても、待ち人なんて来ない。一番高いところに行って、ぼーっと飛行機を眺めていたい。脳裏に浮かんで来たあの人の影を打ち消して、踵を返してさらに上を目指そうとした。
その時だった、不意に聞き覚えのある声で、名前を呼ばれたのは。
「おや、野島くんじゃないか」
「……みっちゃん!?」
椎名美紀。まさに僕が、ずっと恋い焦がれているその人だった。
「なんで、ここに」
「んー、外国の友達を訪ねていたんだ。そっちこそどうしたんだ、誰かを迎えに来たのか」
僕は一瞬考えた後、こう答えた。
「暇潰しだよ」
ここで、君を迎えにきた、なんてねとでも言えたら、歯車を動かせるかもしれないが、突然の出来事にそこまでの勇気をとっさに出すことができる人間ではなかった。
「まあ、ここは一日いても飽きないからね」
彼女は時計を見た。急いでいるのだろうか。
「時間、大丈夫か」
「大丈夫だよ、今の時刻見ただけだし、時間はあるよ。もし良かったら、お茶しない?」
「いいの?」
「そっちが良ければ」
「それ、じゃあ」
急な展開に頭が追いつかない。それでも彼女に近付きたい一心で返事を選んだ。
喫茶店の窓際の席。自分はコーヒーを、彼女は紅茶のダージリンを頼んだ。
「しかし久しぶりだね、大学卒業以来か」
僕が椅子を引くと、キャリーケースの取っ手を下げてそこに座った。
「8年経つね」
「もうそんなに経つか、早いな」
「早い速い。でも見た感じ、お互いそんなに変わらないようで」
僕は彼女の左手をさりげなく確認した。小指には青い石をあしらったピンキーリング。これは学生時代から変わらない。そして薬指は、空白。つまり、まだ独身か。
「独り身か?」
軽く茶化してみる。
「君の方こそ」
「まあね」


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