妹夫婦が帰る前に、澪のベッドは彼らによって元の位置に戻されていた。二人が病室を出た後、あいつは昨日のように、「おやすみ」と言って自分のベッドに戻るかと思ったが、俺に声をかけてきた。
「翔、こっちに来れる?」
「……どうかしたか」
「隣、人がいるでしょ。聞かれたくない話があるんだ」
 何を話すつもりだろうか。まともそうな感じの人だ、妻子もいるし、変なことは言わないだろうと思っても、妙に緊張している俺がいた。
 自分と一体化したような点滴台を引っ張って、俺はあいつのスペースに入った。来客用の椅子に座ろうとしたが、カーテンを閉めながらあいつは、ベッドの端に座るように促してきた。
 二人きりだ。心臓に悪い。でもそう思っているのは、きっと、いや絶対、自分だけだ。
 俺の前を、俺と同じように点滴を転がしながら過ぎていったあいつは、ベッドに入るかと思いきや、備え付けの物入れの引き出しを開けて、メモ用紙とボールペンを出した。右手にペンを持つと、立ったまま物入れの上でメモ用紙に何か書いて、一枚剥がして俺に寄越してきた。
 おそらくは携帯電話の、番号とメールアドレスだった。息がつまる心地がしたが、何事もなかったかのように振る舞う。
「僕の連絡先だよ。君の妹さんにもあげたけど、せっかくだから君にもあげるよ。仲良くなったしね」
 しかし、俺はその行動にある、一つの違和感に気付いた。
「じゃあ、受け取っておく。ありがとう。しかし、これを俺に渡すのなら、わざわざ俺をここに呼ばなくてもいいだろ」
 俺はできるだけ安静にしているべき人間だ。それに、連絡先を渡すことは、別に他人に聞かれたくない話でもないはずだ。
「……君は馬鹿じゃないようだね」
 俺の左横に、あいつは腰を下ろした。しかし、あいつは何だか、急に神妙になった感じがする。だが、それは嵐の前触れだった。
「君、僕と君の妹さんが連絡先交換したとき、かなり嫉妬していたようだね」
「……は?」
 おい待て、こいつは何を言っている? 俺の嫉妬に気付いていた、だと?
「君の目は分かりやすいよ。目は口ほどにものを言うとはいうけれど、本当に分かりやすい。あからさまに機嫌が悪くなった感じがしたよ」
「……だったら、それがどうした」
 感情が表に出やすいという自覚はある。自覚があるから、特に恋愛ごとについては、出ないように努力してきたのに。こんなに易々と見破ってくるやつは初めてだ、しかもその上で俺と二人きりにしてくるんだ、調子が狂う。まともなやつだと思っていたのに、何なんだ、何なんだこいつ!
「僕もね、本当は、妹さんより先に、君と連絡先を交換したかったよ」
「……え?」
 俺と、元々、そうしたがっていた……? ますます分からない。いや、分かっているのに、分からないフリを心のどこかでしたがっているだけかもしれない。
「でも、成り行きもあったけど、少し、君を試してみたんだ。なんとなく、気付いていたけど、どんな反応をするかな、って。そしたら、そういう反応をされたものだから、確信に変わったよ。だから君をここに呼んだ」
「気付いてたとか、確信とかって……何だよ」
 混乱した頭でも、文脈から、俺はある一つの答えを推測していた。気付かれるとしたら、それは、俺の中にある、こいつへの気持ち。でも、言い当てられたとしても、どうせ無駄だ。こいつは既婚者だ。振られるのがオチだ。
 俺は目を背けた。床を見た。すると、あいつはベッドから立った。その行動の意図が分からないでいると、いつの間にか、目の前に、中腰になったあいつの顔があった。
 目が合った。その瞬間、俺は気付いてしまった。あいつの頬が、赤く染まっていて、あいつの瞳が、情欲に満ちたような感じになっていることに。
 あいつは、右手で俺の顎に触れた。俺はそれを拒まなかった。きっと俺の頬も真っ赤だ。
 しかし、その体勢ではしにくいだろう。俺はあいつが座っていたところを叩いて座らせた。
 それから、受け入れる気がある、ということを示すために、あいつの顔を見てから瞼を下ろすと、もう一度、顎に手が添えられて、それから、唇に熱いものが触れた。
 啄(ついば)まれて、啄み返して、一度、唇を離して。どちらからともなく、腕を相手に伸ばしながら、もう一度、合わせて、味わって、俺があえて舌の侵入を許して、中をまさぐられて、自分の舌と絡ませて……。
 久々に、腰の抜けそうになるキスをされた。こいつは、上手い。
 唇を離してから、俺も澪も、咳き込んで、それでもあいつは、俺の背中を、抱き留めるようにしてさすってくる。自分も辛いだろうに。俺にはもう、そんな余力は残っていなかったが、ここは、仕方あるまい。
「……いいのかよ、お前」
 呼吸が落ち着いてから、俺は確認した。その勢いから、こいつも本気なのは分かったが、不安性な俺は、どうしても澪の意志を、澪の言葉で聞いておきたかった。
「左の薬指を見なよ」
 俺の膝の上に置かれていたその部分を見ると、先ほどの食事の時までしていたはずの指輪が、いつのまにか外されていた。
「……なんで」
 俺と、不倫なんかしようとするのか。しかも、病院という場所で。
「詳しいことは、明日話すよ。今日は僕も、疲れちゃったから。でも、一言だけ、端的に言うならば、これは、僕にとっては、不倫じゃない」
 不思議なことを言うやつだ。俺はあいつの顔を見た。澪は、伏し目がちにしていて、どこか悲しそうな顔をしていた。
 何か、家族とあるのだろうか。もし、それを俺に話す気があるのなら、とことん聞いてやろう。俺は、そんな気持ちになっていた。


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