左腕に点滴をさされた彼がドアを開けて、俺を先に通してくれた。この部屋はお手洗いからは少々遠いようだ。
「さっきまで誰かいたようだな」
「家族だよ。妻と、小学三年生の娘。もう一人、六年生の息子がいるんだけど、今日は塾でね」
 やはり訪問者は妻子だったのか。これでは見込みはないか。俺は諦めはいい方だ、こいつは同室の仲間として扱えばいい。
「君は? 誰かバタバタと出入りしてたみたいだけど」
「妹だ。あいつは結婚してて、俺が喘息だから、そこの夫婦と同居してる。親はとっくにいねえ。俺自身は独り身だ」
「寂しくならない? それ」
「別に。慣れてんだ」
 それは半分本当で、半分嘘だった。寂しいときは、ゲイの集まるようなところに行って、無理のない範囲で慰めの行為をしている。それは妹夫婦も知るところで、その辺りには干渉してこないから助かっている。
 あいつは一つ二つ、咳をした。慢性の肺病を患っているという。今日からしばらく検査入院らしい。俺も自分の病気を話した。
 部屋に戻ると、消灯まであと少しだった。夜中に発作が起きないことを祈りながら、俺は一日のカーテンを下ろした。



 翌朝、体調はやや良くなっていたが、まだまだ万全といえるような状態からはほど遠かった。インフルの直後だから余計だ。まだ咳も出る。医者からは、食事とトイレ以外はなるべく安静にしているようにと言われていた。
 カーテンを開けて、澪と向かい合って朝食を食べた。あいつも俺も軽い食事で、あいつは食後しばらくして、看護師に検査に連れ出されていった。俺は眠かったので、二度寝を決め込むことにした。
 思い返せば、年末、多少無理をしていたかもしれない。仕事に追われ、仕事の後の忘年会にもよく顔を出し、おせちの量は例年通りだったが、餅を少し食べ過ぎた気もする。いや、餅は関係ないか……それでこの間のインフルエンザだ。身体が休めと言っているのだろう。でも、発作をそういうメッセージと捉えるのは、一歩間違えると命も危ないからよくないか。
 しかし、なかなか寝付けなかった。そういうことを考えていたのもあるが、向かいのやつの顔と声が、昨日の会話が、頭から離れてくれなかった。振り払っても振り払っても、頭をもたげてくる。
 その現象が何を示すかは、経験で知っていた。しかし、相手は既婚者だ。昨日、左手の薬指に指輪をしているのも確認している。
 普段なら、あっさりと諦められるのに。昨日、その事実を確認してから、諦めたはずなのに。俺の心の奥底では、それを拒否しているかのようだった。

 俺は食事とトイレと軽い検査を除いては、一日中寝ていた。向かいのあいつが検査から戻ってきたのにも、俺の隣に新しい患者が入ったことにも気付かなかった。
 夕食時に、妹夫婦が来た。弁当を一緒に食べていくつもりのようだ。あいつの家族は今日は誰も来ないらしい、寂しいから混ぜろと言ってきたので、ベッドを近づけて、一緒に食べることにした。
「君、僕が戻ってきた時、爆睡してたでしょ」
「疲れが溜まってたんだよ。つーか、何でそれに気付いた」
「え? カーテンを開けて見たけど」
 あいつはそう、しれっと言ってのけた。俺の寝顔を見たってことか。知り合いの様子が気になって、様子を見るというのは、とても自然なことだろうが、相手が相手だ。抱いてはいけない感情を持っている俺は、それを聞いて少し恥ずかしかったし、不覚ながら微かな心の痛みを覚えた。もちろん、それを表に出して言うことはなく。
「起きなかったからそっとしておいたけど」
「それで正解だ」
「寝起きの機嫌悪いからな、こいつ」
「おい真緒、それは言うなよ」
 妹は、澪のやつとすぐに打ち解けていた。何でも、仕事が同業種だという。それに、馬も合うようだ。趣味の話で盛り上がって、俺は少し、ほんの少し、妹に嫉妬した。
 けれど、「ほんの少し」という表現が、その時の感情に対しては過小であるということは、嫌というほどに自覚していた。本当は、酷い嫉妬心が心の中に芽生えていた。それはすなわち、俺がこの男に対して、既にそういう感情を強く持ってしまっているということの証明だった。そうなってしまったら、認めるしかなくなる。
 俺とは正反対、男勝りで行動力のある妹は、澪と連絡先まで交換していた。俺はまだ、そんなもの、こいつからもらっていないのに。
「いやあ、楽しかったわ。君が言ってた本、見つけたら読んでみるよ」
「ぜひぜひ。そしたらまた、話そうよ」
「おう。それまで生きていろよ」
「そう簡単には死なないって」
「それは失礼。翔、明日は来るかどうか分からねえから」
「ん、分かった」
 俺は妹夫婦と、見送りに立つ澪に気付かれないように、ベッドの上で小さくため息をついた。悪くない入院生活になると思ったが、これは、辛い。この先、俺は大丈夫だろうか。身体はともかく、メンタルが持つだろうか。


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