25


 車が見えなくなるまで見送ってから、僕はポケットに入れていたマスクをして歩き出した。駅前の繁華街を足早に過ぎて、住宅街へと歩を進める。
 とある信号で右折し、一軒家やマンションが並ぶ裏路地に入る。休日の寒い夜だからか、歩いている人の姿はなく、ただ、路面を、等間隔に置かれた街灯が照らす。
 昨日と今日のことを思い返す。海、ドライブ、足湯、料理、そして、翔の温度。夢ではない、紛れもない、現実のことなのに、どこか夢のような心地を覚える。
 そして、最後に、携帯電話を通じて、彼からもらったメッセージ。
――次、会う時まで、死ぬなよ。
 この一日、お互いの病気のことなんて、まったくと言っていいほど意識していなかったのに。その一言で、思い出してしまう。
――次って、いつだろうか。
 そんなの、僕達には約束できない。だから、約束をしなかった。それは、夢のような時間の中でも、二人とも、無意識に分かっていたことだろうから。
 まあ、翔が、五月生まれって言っていたから、その辺りで、また、逢えたらな、と、淡い希望を抱く。
――そう、淡い。
 法的な家族、という呪縛から、一時的にでも離れられるか、というのはもちろん、病気のこともある。
――本当は、こうやっている場合じゃ、ないのかもしれないのだけれど。
 街灯の下、立ち止まって、一軒家の塀にもたれかかった。空には、雲の合間から、月や星が覗くけれど、それをじっくりと観察するような気分ではない。
 愛用している、しっかりとした肩掛け鞄から、いつも秘密裏に持ち歩いている紙を出して、折りたたまれているそれを広げる。そして、右上に記された日付を見る。五年前。
 それをしまって、一緒にしている、別の書類を出して広げる。自分の病気について、自分なりに情報を集めてまとめた、手書きのメモ。箇条書きの中に、目的の文を見つける。
『五年生存率:20%。(ただし、発症後10年まで生きた例もある)』
 僕はまだ、症状の進行が緩やかな方らしい、奇跡的に、その二十パーセントの中に入っていた。けれど、カッコ書きを踏まえると、今の医学では、残りは、あと五年、あるかないか。主治医には、家族には余命を告げないよう言ってある。僕も、関係する誰にも、もちろん翔にも、そのことは言っていない。
――僕は、いつまで……
――いつまで、翔といられるの?
 その思いが脳裏を過(よ)ぎった瞬間、胸の辺りに鈍い痛みを感じた。それは左右に広がっていき、痛みも増して息苦しくなる。立っていられなくて、その場に座り込む。
――どうして……やだよ……まだ……っ
 同時に、頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。不安で満ちてくる。涙が落ちる。どうして、どうして? 僕は……
 その中で、一本の蜘蛛の糸のように細い、手続き記憶の糸を頼りに、すべきことに手の動作を費(つい)やす。
 鞄の中身を、震える手で無我夢中で外に出して、まず水の入った水筒と、それから、一つの透明な固い箱を見つける。いくつかの薬の中から、目的の三種類の錠剤を見つけて、それを一つずつシートから出して、マスクを降ろして、水で一気に流し込む。水筒を閉めて、ロックをかける。マスクを元に戻して、目を閉じて、痛みが少しでも楽になるように前のめりになった――
 のだと、思う。曖昧な記憶。痛みと呼吸が落ち着いてから、散らかった自分の周りと、飲んだらしい薬を見て、そう判断した。
――帰らなきゃ……
 まだ、法律上の妻は起きているだろう。ドラマを見ながら、僕の帰りを待っているだろう。まるで、何事もなかったかのように、振る舞わなければ。
 散乱していたものをすべて鞄に戻して、街灯の柱を頼りに立ち上がる。
――さっきは何もなかった。何も起こらなかった。いいね?
 そう心に聞かせて、残り少なかった道を歩いて帰った。妻はまだ起きていたが、僕に何かあったことには気付いていないようだった。


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