21

 ゲームセンターには俺も澪も興味がなかったので、少し早いが、ゆっくり夕食をとることにした。
 昼食をパンで軽く済ませたので、割とお腹は空いていた。あいにく食堂階である五階の店の半分が工事で休止中で、開いているのは麺類や丼モノの店ばかりである。その中から、ゆっくりできそうな一品料理がある店に入った。
 ざっと客席を見る限り、妹夫婦の姿は見当たらない。海が見える席に通されたが、もうそろそろ日没だ、外は真っ暗。しかし、明かりをつけている船の姿は確認できる。
「白米が食べてえな……でもどんぶり丸ごとだと、それで腹いっぱいになっちまう」
「なら、どんぶりを二人で分けない? 僕もごはんモノは少し食べたいし」
 海鮮丼を一つと、一人一杯のあさり汁に、天ぷらの盛り合わせ。
「お酒は?」
「少しだけ欲しいね。あったかいものがいいな」
「日本酒か焼酎か」
「いいねえ。君は?」
「俺もどっちも好きだぞ」
「任せるよ」
 二人とも症状は落ち着いている。徳利(とっくり)一本を二人で飲むぐらいなら大丈夫だろうと、俺は判断した。
――それに少し、酔いたい気分でもある。
 店員を呼んで、どんぶりとおかずと、そこそこの日本酒の熱燗を頼んだ。
「お酒には強いの?」
「いや、中の下ぐらいだな。親もそれほど飲んでなかったし、妹もそうだし、そういう血筋なんだろ。お前はどうなんだ」
「昔は結構飲んでも平気だったんだけどね。病気してから、量を受け付けなくなってね。今は量より質にこだわってるよ、お酒は」
「好きなのか」
「もちろん。そのくせにビールが飲めないから変人扱いされる」
「安心しろ、俺も飲めない」
 それほど混んでいないせいか、割とすぐにまずお酒が来た。俺が二つのお猪口(ちょこ)に注いで、一つを彼に渡す。
「乾杯」
 すっと一口。美味い。そういえば、正月に入院してからは、一度も外で酒を飲んでいなかった。薬もあるし、しばらくは控えるようにと言われていたのもあるが。
「……あー、沁みるね」
「やっぱいいよな、こうやって飲むのは」
 まもなく、頼んだものが次々とやってくる。取り皿をもらって、どんぶりのごはんと、エビやカンパチなどの魚介を半分分けにした。
 どれも味に文句はなく、酒も進む。そんなにきつい酒ではないはずだが、一緒に飲む相手も相手だったか、少しペースが速かったか、三杯目で既に酔いが回ってくる。澪はまだ顔も赤くならない。
「今日はありがとね」
「礼なら妹に言え。今日、ここに来るって言い出したのはあいつだからな」
「そういう意味じゃないよ」
「は? どういうことだ」
 連れてきたこと以外に、何か礼を言われる筋合いもないと思ったが、そう考えていたのは俺だけらしい。
「君との幸せな時間に、だよ。あるいは、君との出会いに、かな? もちろん、彼女が僕も来ていいって言ったのにもだけど、一番はそれだよ」
「……またそういうことを」
 何でそんなことをすらすらと言えるんだ。いや、好きなやつに、そういう言葉を浴びせられて、悪い気はしないが。
「言われてみれば、君も本心ではそうじゃないの? 僕に抱え込まれて、満更(まんざら)でもない顔をしてくっついてきたのは誰かな?」
「……うるせーよ」
 にこにこしながら、俺と視線を合わせてこようとするのに耐えられなくて、俺はその視線から逃げた。言われて、昼間の行動を思い出したから、余計に。
「顔真っ赤」
「酒のせいだ」
「もう酔ってんの?」
「悪いかよ」
「いや? 可愛いよ」
「お前も酔ってんのか」
「僕はこれぐらいじゃ酔えないの」
「そうかよ」
 そういう言葉のやりとりも、お互い本気でない、戯れであるのは分かっている。
 エビの天ぷらの根っこを食べ切って、その流れでお猪口の中身を呷(あお)る。空になったそれに、徳利を傾けたが、もう出てこなかった。
「……おかわり」
「大丈夫かい?」
「……冗談だ。明日の仕事に差し支える」
 実際は、もっと酔ってしまいたかった。前後不覚になるまで酔って、酔った勢いでその腕の中に潜り込んで、そのまま抱かれたい。そんな欲望が顔を出してきて、昨日、散々掘られたらしい奥がまた疼く。
「それはよくないね」
「お前はどうする」
「僕も、もういいかな。おかずもあまりないし、お腹いっぱいだし」
 澪は取り分けた分をもう食べ終えていた。お猪口に残っていたそれを、あいつも飲み干した。
「食べねえのか」
「天ぷらあげるよ」
「はいはい」
 ざるに残っていたイカの天ぷらを、天つゆにつける。澪が携帯電話を触っている間に、窓の向こうの船を見ながら、にわかに湧いてきた欲を押さえつけるように、落ち着けと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)して、飲み込む。
「ごちそうさま」
「済んだかい」
「ああ。俺が払う」
「よろしく」
 上着を着て、マフラーもして、忘れ物がないか確認して席を立つ。澪はお手洗いに行く、と姿を消し、その間にクレジットで会計を済ませた。
 店の外はすぐ屋外だ。一層冷え込んだ風が吹き込み、思わず身震いする。上着に突っ込んでいた手袋をはめた。ついでに、唇にリップクリーム。
 時刻は午後七時。車に戻る時間まで、まだ一時間ある。
 思い返してみれば、あっという間だった。妹夫婦と別れた直後は、これだけの時間を、この小さな海上の箱庭で、あいつとどう過ごそうかと悩んだものだが、結局、好きな人とずっと一緒にいる時間というものは、逃げるように過ぎ去ってしまうものらしい。
「お待たせ。君はトイレ、いいの?」
「そうだな、行っておくか」
 この先、家まで用を足すところはない。一応行っておくか、と入ったところで、洋式便器がある個室が空いているのに気付く。自然と、足はその中へと向かった。
 戻ってくると、さりげなく、手袋をしたその手を絡ませてくる。今度は、どこに行く? と澪から尋ねられることはなく、猫は気まぐれに歩き出す。俺は最後ぐらい、澪の好きにさせようと、それに引っ張られるがまま。もう夜だ、いくら店の明かりがあるとはいえ、少しそこから離れれば、空と海が作り出す夜に飲み込まれる。
 昼間、カッターのモニュメントへと下っていった階段を、澪は無言で降りていく。海鳴りと、俺達の足音だけが聞こえる。人影はないに等しい。少し広いところに出たところで、より明かりの届かないところへ。
 されそうなことは大体分かった。腰に腕を回されたのを合図に、俺は目を閉じ、自分もその背中に腕を回す。
 合わさる唇。その温度は、外気温とは反比例して熱い。融かされそうなそれに、じっくりと味わわれて、酔いもあって、それだけでどうにかなってしまいそうになる。
――その先が、欲しい。
 自分が望んでいたのに近い展開。酒は我慢したが、この雰囲気、抗(あらが)う理由は見つからなかった。どうせ暗くて、人目に付きにくい場所、外での恥は掻き捨てだし、次があるかどうかさえ、分からないのだから。

 しかし、唇はそこで離れた。自分でも、色っぽい、と思ってしまうような吐息が漏れる。耳元に、その唇が寄せられる。
「……足りないって顔、してる」
 囁き声に近いそれに続いて、冷たい海風ではない、暖かい息。
「ん……っ」
「……やっぱり君は可愛いよ。うん、可愛い――」
 また、成されるがまま、唇を塞がれて、澪の舌先が触れる。少しだけ開けたその隙間からそれを許し、上あごをなぞられる。甘い電流が、背中から下に流れる。
 舌を絡ませ、それからまた、上あご、上の歯茎、下の生え際――身体の力を、抜かせにかかっているそれを、俺は拒もうとは微塵も思わなかった。
――ああ、もう、流されてしまえ。
「はあ、はあ……っ」
 自力で立つことに不安を覚え、その背の高い身体に両腕で縋(すが)り付く。今まで、感じたことのないほどの、止めることができなさそうな、自分から相手への、相手から自分への、愛の熱量。
「は、大丈夫じゃ、なさそうだね」
 ぎりぎりの理性の中で、俺はまだ、「そういう展開」になったときのために、準備してきていた切り札を覚えていた。
 両腕を離して、しかし右手は、澪の上着を掴んだまま、左手で上着のファスナーを少し降ろして、内側のポケットに手を入れる。出したのは、手の平に乗るサイズのもの。
「鍵?」
「……車の合鍵だ。使いたけりゃ、使え。ただし、派手にはすんなよ」
 澪は笑ったように見えた。そして、その鍵を受け取った。
「いいんだね?」
「ああ、いいぞ」


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