食器は僕が洗った。ここにいる間は彼女に任せる、といっても、全部任せるのは彼女の負担になるし、それぐらいは僕がやると宣言した。その間に、彼女は薬を飲む。それが終わると、ルイボスティーを薬缶から彼女の赤いマグカップに注いで、大きく欠伸をした。少し眠そうだ。
「あー、眠い。昼寝していい?」
「どうぞー。僕はここにいるから」
「君は眠くないの? 何なら一緒に寝る?」
「いや、それほどでもないから。本でも読んでるよ」
「了解。そうだ、もし暑かったら、エアコンを使ってもいいよ。これからそういう時間帯だし」
 僕は、彼女が昼寝前のお手洗いに行っている間に、荷物から、持ってきた文庫本を出した。最近はミステリをよく読んでいて、今日は読書仲間でもある、赤坂(五条の店に昼間いる人だ)のおすすめの医療ミステリ作家の本を、彼から借りてきていた。
 スティック入りの甘いコーヒーを飲みながら、それを読み進めていると、少し暑いと感じてきた。窓を閉めて、テーブルの上にあったリモコンのスイッチを入れた。

 午後三時。文庫本をキリのいいところで切り上げて、大きく伸びをすると、上の方から物音が聞こえてきた。
「おはよう」
「おはようさん。あー、よく寝たよく寝た」
 欄干に雑に両腕を乗せて、僕の方を見下ろしてきた。寝癖がついていないのは、整えてから出てきたのだろう。
「下、見るか? あ、読書中なら、終わってからでもいいけど」
「いや、ちょうどいいところまで読んだところだよ。よろしく」
「はいよ。あ、マスク出しといて。かなりの間手入れしてないんだ、多分ホコリ被ってる」
「分かった」
 結局また必要になったか、と嘆きながら、部屋の中に消えていく。僕は朝、彼女がマスクを出してきた引き出しを開けて、二人分のマスクを出した。僕もホコリは苦手だから、念のため。
「ちょっと待ってなー、これ洗ってから」
「ゆっくりでいいよ。あ、冷房寒くない?」
「ちょうどいいよ。下にも風を送りたいから、そのままにしておいて」
 彼女がマグカップを洗う間に、僕はお手洗いを済ませた。出てきて手を洗っていると、キッチンの方から、何かを指で回しながら、彼女が現れた。
「開けるよ」
「ここ?」
「そう」
 木製の床に、そこだけ四角い金属の枠がはめられたようなところが、ちょうどそこにあった。鍵穴らしきものもあるし、ここが入り口ではないかと、最初にここを通ったときからずっと思っていた。
 彼女はしゃがみ込んで、手に持って回していた小さな鍵を、そこに差し込んで回した。鍵をさしたまま、蓋を上に開けて、向こう側にやった。鍵と反対側で床と繋がっていた。
 現れた穴の向こうは、真っ暗だった。すると、ポケットから、白い何かを出して、穴の中に向けて何かボタンを押した。すると、ぼんやりと明るくなって、茶色い階段が見えた。電気を点けるためのリモコンらしい。
 この先は、きっとすごいものがあるに違いない。東京の部屋の四倍はあると言っていた。彼女も、何のためらいもなく案内してくれるということは、期待していいのだろう。
「後ろ向きに降りるように。僕が下に着いたら、声をかけるから、それから降りて」
「うん」
 ポケットにリモコンを戻して、後ろ向きに彼女が下り始める。カモン、と声が聞こえたので、僕もはやる気持ちを抑えて、一歩ずつ、慎重に降りていく。
「はい、到着。後ろ、見てごらん」
 階段から手を離して、直立の姿勢になってから、僕は回れ右をした。
「……すごい」
 その光景は、僕の期待を、いい意味で裏切ってくれた。
 完全に、『紙の街』だった。
 青い壁に四面を覆われた部屋。その真ん中に駅があって、そこから放射状に、いくつも道が延びている。線路もちゃんと敷かれている。駅にはデパートがくっついていて、さながら池袋のよう。いや、これは池袋の街だ。
「これ、どうぞ」
「……双眼鏡?」
「そう。その方が、細かいところまでよく見えるよ。ああ、ほこりっぽいのは気にしないで。また綿棒で掃除するつもりだから」
 サンシャイン通り、区役所、アニメイト、東口駅前の像。芸術劇場、ホテルメトロポリタン、飲み屋街。完璧に再現されている。
 線路の配置にも見覚えがある。緑の電車は埼京線、黄色い電車は西武線。東に西武、西に東武。
 道路に走るバスや車。歩行者の一人一人まで、全部紙でできている。
 東京にあった『紙の街』とはコンセプトが違うらしい。東京のには、動物園や空港など、ありとあらゆる施設が揃っていた、でもそれは架空の街だったのに対して、ここでは、一つの実在する街を再現している。


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