頭痛が治まるまでの間、メールを確認していた。薬が効いてから、寝床を出た。
――ここも、ものが少ない。
 木の温もりを感じる部屋には、机と椅子、机の上の何冊かの本、パソコンにプリンター、筆記用具、合鍵が出てきたタンス、明かり、そしてベッド以外には何もない。ここでも、東京の家同様、物はさほどないらしい。
 洗面用具を持って、部屋のドアを開けた。吹き抜けになっていて、廊下の向こうに一階が見えた。ここには、ソファやテーブルがある。暖炉もあるんだ。
 木の香りに包まれながら、高い天井の廊下を歩く。突き当たりの階段を降りた。ぐるっと見回してから、反対側の水場に入った。
 お手洗いと洗顔を終えて、ソファにどかっと座ってみる。ベージュのソファ、赤を基調とした、花柄の絨毯(じゅうたん)。テーブルの上の白いレース。テレビはない。古い感じはしなかった。新しい方なのだろうか。
 でも一つ、気になることがあった。東京の家では、『紙の街』の部屋以外にも、家の所々に飾られていた紙工作が、ここには一切見当たらない。ここには置いていないのだろうか。
 その代わり、細々とした雑貨が、たくさん飾られている。立ってぐるっと歩いてみると、実に色々なものがあった。
 ちゃんと今年の八月になっている、花の写真のカレンダー。八月はやっぱり向日葵か。クマのぬいぐるみに、アニメキャラクターのぬいぐるみ。鉄道模型は、昨日最後に乗ってきた電車。戦隊モノに出てくるようなヒーローのおもちゃ、こけし、和風な絵の描かれたお皿、イルカの絵―よく見ると砂絵らしい。パズルを組み立てた、有名な映画のキャラクターの絵。箱に入った黄色い薔薇は、ドライフラワー、とかいうやつなんだろうか。日本地図のポスター。壁の黒い鳥籠の絵は、触ってみるとでこぼこしている、シールを貼っているらしい。
 時計はあれだ、いわゆる「おじいさんの時計」。下に長く伸びたものが、チク、タク、と規則正しく動いていて、時間も携帯電話と照らし合わせると正確だから、彼女がきちんと手入れしているんだろう。
 それらは雑多でありながら、部屋の中心、ソファに座ってぐるっと眺めると、お互いが、不思議と上手く調和しているように見えた。あるいは、家を形作っている木の雰囲気とも。どれ一つとして、この部屋の雰囲気を乱す要素となるものはない。そして、その空気は、寒くなく、暑すぎることもなく、ちょうどよかった。半分開いた、外に押し出すタイプの窓からの風や、天井についた窓から太陽の光が差し込んでいる、というのも大きいかもしれないけど。
――あったかい。
 千葉の実家とは、一八〇度逆の空気。縛るものがない。まるで、空間に、抱かれているような。
 外はどうなっているだろうか。玄関には、昨日僕が履いてきた茶色い靴が、綺麗に揃えられていた。けれど、そのすぐ右隣に、白いサンダルがある。使っていいのだろう、それを履いて、鍵を持っていることを確認して、金色の取っ手を向こう側に押した。
 目の前には、一面の緑が広がっていた。三段、両側に手すりがついていて、やはり木でできた階段を降りると、清々しい薫り。漏れる木漏れ日。風の歌。鳥の合唱。テレビや雑誌で何度も見た風景が、今ここに、現前していた。
 僕はしばし、呼吸を忘れていた。我に返って、鍵をかけて、改めて森を感じる。
 深呼吸。大きく吸って、はいて。身体の隅々まで、森のエネルギーで満たされていく。
――ここが、軽井沢。
 ずっと行きたいな、でもなかなか行くきっかけのなかった場所。今、僕は憧れていたその土地に立っている。
 少し前に歩いて、振り返って家の外観を見ると、ログハウスな感じの家だった。僕達が東京で住んでいるマンションと、あるいは僕の実家の白壁と瓦屋根とも、全く趣きが違う。
 もう一度、吸って、はいて。家の周りを一周して、僕は階段の二段目に腰を下ろした。
『チチチ……』
 目の前を、すずめが二羽、横切っていった。遠くから、ちりん、ちりんと、鈴か風鈴かの音がする。
「なあに、ぼんやりしてんだ」
「……あ」
 いつの間にか、自転車に乗った彼女が目の前にいた。出て行った時につけていたマスクはしていない。緑色の自転車のカゴには、茶色の買い物バッグが入っていた。
「まあ、初めて来た人は驚くだろうね。テレビとか、ネットとか、雑誌とかで見ていたよりも、ずっとすごいって」
「うん、すごい」
「だろ? あ、体調はどうよ」
「薬飲んだら、よくなったよ。外に出ても、すごく気持ちいいし」
「ならよかった」
 階段の横に、自転車を停めた。鍵には、見覚えのある映画のキャラクターのキーホルダーが付いていた。
「睦こそ、大丈夫なの? マスク、してないし」
「外は空気がいいから大丈夫なんだよ。家の中でも、本当はしなくてもいいんだけど、まだ掃除できてないから、埃吸い込むとダメでね。具合がよくなったなら、掃除、手伝ってよ」
「うん、協力するよ」
「夜になったら、ゆっくり散歩しよう。運が良かったら、フクロウにも会えるさ」

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