世界は僕を手放した | ナノ






 少し前までは大好きだった人々の群れ。溢れる程の人々が行き交う中に折原臨也は居た。
 池袋の六十通り。人の流れに添うように臨也は歩みを進め、携帯電話を取りだし数分間会話したかと思うとすっと一本曲がった路地に入っていった。

「こんにちは、四木さん」

 こんこん、と真っ黒な車の窓をノックする。三回鳴らされたそれに真っ黒な窓が開かれ、対照的に白のスーツを着た男が現れた。

「お久しぶりですね折原さん。…顔色がお戻りになったようで」

 新羅のマンションに送るときから、四木は臨也の異変に気が付いていた。詳しい事は分らずとも、察知していたであろう四木は臨也の今の顔色を見て、不敵な笑みを浮かべた。四木がどこまで気が付いていたのかはわからない。さすが、とも思える四木に臨也は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「あの時はご心配をおかけしたようで。これからもよろしくお願いしますね。…これが今回の資料です」

 束になっている資料を手渡すと四木はそれを受け取り、臨也の表情を凝視すると、ふ、と鼻で笑った。

「何があった、とは聞きませんよ。貴方も聞かれたくないようですしね」
「ありがとうございます」

 自分が撒いた火種は自分で回収しますよ。
 臨也の表情はどこが清々しく、笑みを零す顔は何かを企んでいるような。

「…ふざけすぎない事だな」
「ええ。もちろん粟楠会の迷惑になるような事はありませんので、ご安心ください」

 車の中で小さくなっていたのは数週間前。あの時のように別人のようだった姿はなく、そこには折原臨也が居る。もう気にする必要もないか、と四木は小声で言うと車を出せと運転手に告げた。





「はい、ええ。問題ありませんよ。はい、よろしくお願いします」

 携帯を片手に臨也は相槌を繰り返し会話が終わると携帯を眺め臨也は口元を歪めていた。
 ふと顔を上げると、人ごみの中にひょっこりと見える金色の髪。隣に居るドレッド髪の男が見え取り立ての仕事中だという事がわかる。池袋に来るな、と静雄の逆鱗に擦れる前に退散するかとコートを翻し、また違う路地を曲がった。
 久しぶりの池袋で怒声を上げられるのは勘弁してほしいなと路地をふらふらと歩く。薄暗い裏路地は池袋といえど静かでどこか穏やかだ。池袋も賑わう六十通りを抜ければ落ち着きが広がっているのだ。


「臨也」


 ざわり、と背筋に何かが這った。息が詰まる。聞こえた声は記憶を呼び起こすような。
ア、と声が引き攣った。

「臨也、」

 手首を掴まれ、痛いぐらいに腕を引かれる。後ろを振り返るとそこには、静雄の姿ではなくあの日あの時、臨也を犯した男が立っていた。

「久しぶりだね」

 俺はずっと臨也を見ていたけどさ。
 男の顔を見て、頭の中で今までの記憶が溢れた。臨也の赤い瞳が見開かれ歪んでいく。男は嬉しそうに口角を上げてほほ笑むだけだ。

「ずっと出てきてくれなくて、さみしかったよ」

 掴まれた腕を咄嗟に払おうと必死になるが、片方の腕も掴まれ、そのまま壁へと押さえつけられてしまった。

「はな、せ!」
「ねえ臨也。どうして平和島静雄と別れないの? ねえ、臨也だってあんなに喜んでいたじゃないか」
「違う!」

 気持ちいいって言ってたじゃないか。
 事実だった。それは紛れもない事実で受け入れたくない事実。静雄はわかっていると、優しく抱きしめてくれたが事実が消える事も無かった事にすることもできない。永遠に付いてくる。
それも臨也が昔口にした言葉通りだった。過去はさみしがり屋である、と。

「臨也」

 壁に追いやられ男の顔が近づいていく。震える唇へとのびる男の舌に臨也の身体は固まり、固く口が閉ざされる。

「…好きだよ」

 あの時にはされなかった口づけを男は強要しようとした。ぎゅと閉じられる瞳に興奮したように男は握った手首に力を加え、臨也は――――。
 クスリ、と笑った。

「おい、何してんだ、よッ!!」

池袋では聞きなれた怒声が路地に響いた。はっと男は振り向くより早く握られた拳が振り下ろされ、男の右頬に衝撃を与える。後ろから殴られた男は左へと吹っ飛び、置いてあったごみ箱へ身体を叩きつけられ息を詰まらせた。ガシャン! と大きな音が路地を満たし、さっきまで恐怖に表情を固めていた臨也は男の前まで落ち着いた足取りで近づき、腰を曲げて口を開いた。


「俺を、舐めないでくれるかなあ?」


 それは、冷たい、突き刺すような声色だった。
 信じられないものを見るように男は顔を上げて目を見開く。先ほどの表情が嘘のように、そこには口もとを緩め弧を描いた、笑顔があった。喜びの笑顔と呼ぶには程遠い表情に、男はひっ、と声を上げた。

「君の愛、しかと受け取ったよ。ありがとう。俺も君が好きだよ? ああ、もちろん人間という人種が好きなのであって、君個人が好きな訳じゃない。ここ重要。ねえ、俺の事好きなんだよね? ふふっ嬉しいなあ。だからさ、俺、考えたんだ。君にお返しを、考えたんだ。貰ってくれるかな?」

 口をはさむ事は許さない、とでも言うように臨也は言葉を紡ぎ、目を細める。
 臨也のこんな姿を見るのは初めてなのだろう。男は別人のようになった臨也にただただ唖然とし、言葉に耳を傾ける事しかできなかった。


「俺は君を許さない」


 付けられた傷はとても大きく、押さえてどうにかなるようなものではない。これからも時間をかけて癒していかなければならないものだ。

「だからさ、君にも味わってもらおうと思って。だからシズちゃんにも手を出すのは一回って言っておいた。骨は折れているかもしれないけれど、それでも手加減されているんだよ? シズちゃんが本気で殴ったら顔面がつぶれてもおかしくないんだからさ! 
あはは!」

 心底楽しそうに笑う臨也に男は冷や汗を感じ、嘘だ、と繰り返し呟き始めた。

「嘘だ、お前は臨也じゃない。臨也、いざ」
「死にたいって思うほど、生かしてあげる」

 薄暗い路地の中で赤い瞳が黒く光った。無表情で臨也は言って、にこりとほほ笑む。男は恐怖で頭の中が溢れた。相手は新宿の折原なのだ、と今更のように思いだし助けれくれと震える声で呟いた。
 臨也は笑顔を絶やさない。赤い瞳がすべてを物語っていた。







「俺は人間を愛してる!」

 新宿の大通り。臨也は両腕を広げて声を上げた。数歩後ろを歩く静雄。臨也はくるりと後ろを振り向くと、静雄を見据えた。

「けど一番はシズちゃんなんだ」
「…自分が外に出て動いてりゃ、あの野郎が出てくるって根拠はなんだよ」

 臨也の言葉に静雄は驚きの表情になったが、それも一瞬で真剣な表情へと戻る。
 臨也が自身で犯人をおびき出す、と言ったのは臨也が門田達に情報屋の仕事を復帰したいと言った時だった。反対されるかもしれないけど、方法はそれしかないと思う、と言う臨也に反対意見は出なかった。それは実際に手詰まりで何かおびき出す方法が無ければ捕まらないと、誰しもが思っていたからだ。
 明日から情報屋として復活し、普通の毎日を過ごす。そうすればあの男は必ず姿を現すよ。けど、捕まえないで欲しいんだ。俺に任せて、欲しい。
 真剣な臨也の表情に誰も口を出す事ができなかった。わかった、と沈黙を破ったのは門田で、静雄も新羅も渋々といった形で了承したのだ。

「俺が外に出てくる事をあの男は望んでいた。外に出たら接触してくることは目に見えていたんだ」
「俺が居なかったら、どうするつもりだったんだ」
「…シズちゃんが俺の事を気が付かない訳が無いって、思った」

 もともと男を見つけても暴れて殺してしまわないように、と言われていたのは事実だったが今日、あのように男と臨也が接触することを前もって言われていたわけではなかった。もしもの事を考えると、静雄は臨也の軽率な行動が許せなかった。

 静雄の強張った表情に臨也は目を伏せて、歯切れ悪くも口を開いた。

「ひとりでなら、できると思った。今までなら俺は、ひとりで何でもできると思っていた。今まで場数だって踏んできて、人間すべてが好きだった。特別とか別格とかそんなものは無い。すべての人間を愛していると思って、そんな俺はきっとずっとひとりだと思った。別にそれで良かったと思っていた。けど、今、俺にはシズちゃんがいる。シズちゃんに嫌われるんじゃないかって、必要とされないんじゃないかって思って、怖くなった。初めて夜が怖いと思った、ひとりが、怖いと思った」

 臨也はまた泣きそうに顔を歪めていた。先ほどまでの男に見せていた笑顔が嘘のようで、そこには静雄と付き合う臨也の姿がある。これが本当の臨也の姿なのだ。

「俺、シズちゃんが居なきゃ、もう駄目みたいなんだ」

 へにゃりと潤む瞳で笑う。悲しそうなつらそうなその笑顔。もう充分だ。臨也をなだめるように静雄は肩を抱きしめその黒髪に顔を埋めさせた。

「よく、頑張ったな」
「ばかに、してるだろ」
「してねえよ」

 ―――全然してねえよ。
 静雄は繰り返しそう言って、力強く抱きしめた。



「俺も手前が好きだ」


 これからも一緒に居ようと、誓った。




世界はを手放した
(それでも貴方が隣にいる)



20110709 完結

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