世界は僕を手放した | ナノ



 夢を見た。
 縛られた手首がチリチリと擦れて痛む。臨也、と呼ぶ声は低く甘い声ではない。臨也、臨也と呼ぶ声は、可愛いね、好きだよ臨也、と続くのだ。
 ふと視界に映る男のシルエットを捉える。逆光でよく見えないが体格は二十代半ばの細すぎず、太すぎずの男だ。スラリとした細身のスボンにTシャツ。その上に七分丈の上着を羽織る男。身体を這う気持ちの悪い手がそっと臨也の顎に触れる。臨也、と男がまた名を呼んだ。









「起きたか」

 重い瞼を開ければ、見慣れたクリーム色の天井がそこにあった。臨也、と呼ぶ声は聞き慣れた静雄の声。視線だけをゆっくりと左に向けると、金色の髪が視界で揺れた。
 静雄は何を言うでもなくただ臨也を見つめていた。かける言葉を探しているのかもしれない。だが真剣な眼差しだった。
 どこまでが夢だったのだろう、など考えるまでもない。静雄の真剣な眼差しが、すべてを語っているかのようだった。

「相手の顔がさ、思い出せないんだ」

 柔らかなベッドは今まで安眠を提供してくれていた場所。あの男に犯された場所、そして静雄と交われた場所だ。綺麗なシーツを撫で、天井に手を向けると蛍光灯の光を遮る。逆光に手のひらの輪郭がぼんやりと霞むと、臨也は目を細めた。

「絶対に見た筈なんだ。知らない顔なのは確かだけど、どうしても思い出せない」

 夢の中でも奴の顔を見ようと必死だった。今まで嫌だと拒絶の言葉を並べるだけではなく、目を閉じぬように必死だった。
 ようやく変われたのだ、と臨也は思った。どれもこれも静雄のおかげである事は明白で。全てを包み込んでくれた事が嬉しかった。

「シズちゃん達がさ、アイツを捕まえようとしてるのも知ってる。けど手掛かりが少なすぎて難しいって事も知ってたよ」

 静雄は淡々と紡がれる臨也の言葉に茶色の瞳が軽く見開かれる。臨也の言う通りであった。手がかりは皆無。投函しにくるのを待ち伏せするぐらいでしか手だてが無かった。だが最近は投函しに来る様子もなく、来たとしても配達員が相手の住所も名前も書かれていない封筒を投函しにくるだけだった。
 指紋をとったところでどうにかなる訳でもない。門田や新羅は警察官でもなければ専門家でも無いのだ。臨也の今後の事を考えれば粟楠会に協力を仰ぐのも控えたい。そうすると、相手を捕まえる事は困難を極めた。

 ひとりだった臨也を手を引いて、腕の中に抱き止めてから一週間と少しが経とうとしていた。助けたい、と。相手を許さない、と思い声を上げながらも何の進展も無しに一週間以上が経ってしまった。

 真剣に臨也を見つめていた静雄の視線が落ちる。握られ太ももの上に握られている拳を見つめ、静雄は自身の無力さに身を切られそうな思いだった。

「責めてる訳じゃないよ」
「そんなつもりねえよ」
「あんまり言いたく無いんだけどさ、シズちゃんには感謝してるんだ。自分でも驚くぐらいに弱ってたみたで、俺も人間なんだなって思った」

 それでね、と臨也は続け臨也は上半身を起こす。支離滅裂に話す臨也は自分の中でも思う事が多くあるのだろう。聞いて欲しいんだ。凛とした声が部屋の中を満たし静雄も背筋を伸ばした。

「ちゃんと話すよ。どうしてああなったのかとか色々」

 聞いてくれるかな。へりゃりと笑う臨也に静雄は当たり前だろうとはっきりと返す。薄ピンクの唇がうっすらと開き、あの男に襲われた日の事を話し始めた。
 部屋に侵入された事、写真を撮られていた事、盗聴されていた事、無理矢理に犯された事、そして自らねだってしまったこと。それからも写真を送りつけられていた事。時おり歯切れが悪くなりながらも臨也は全てを静雄に告げた。
 静雄は相槌をうちながら臨也の話に耳を傾けた。静雄が知っていたのはマンションに訪ねる少し前だけの事だ。どうして臨也が襲われたのかを静雄は知らない。ストーキングされているなんて思わなかったな、とくつくつ笑う臨也はどこかいつもの折原臨也を思わせたが、無理をしているようにも見えた。

「あと、これは言い訳なんだけどさ。……写真を処分してやるからって言われて、自ら犯してって言ったんだ。それと、催淫剤を使われてた。だから、」
「わかってる」

 徐々に早口になる臨也は必死に訴えていた。好きで犯された訳ではないのだと。そこだけは絶対に違うのだと。
 遮るように紡がれた静雄の声は穏やかで、わかってるから大丈夫だ、と続けられた言葉に臨也の全身の力が抜けていた。安心したように臨也は俯き真っ白なシーツを握ると、よかった、と消えかかる程の小さな声が聞こえた。
 丸い臨也の頭を静雄は撫でる。柔らかな髪の毛を撫でながらも静雄が何か口にする事はなく、部屋は無音だった。

 交わす言葉などなくとも、もう二人の間になんの問題も無いのだ。




(20110625)

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