世界は僕を手放した | ナノ




「もっと、…」

甘い声で何かをねだる声がどこからか聞こえてきた。ぐちゅぐちゅと卑猥な水音と喘ぎ声が溢れるその部屋に居るのは、興奮したように腰を打ち付ける男と、視点の合わないとろりとした瞳で男を煽る、自らの、姿…。



「―――…ァ、ッ!!」


声にならない叫び声をあげて、臨也は飛び起きた。は、は、と荒い息を繰り返し、嫌な汗が背を伝う。くそ…と髪を雑にかきあげると、いつのまに膝にかかけられていた毛布に気がついた。


「魘されていたわ。」


大量の資料を抱えながら波江は至極冷静に言った。かけてくれたのは波江さんか、と小さな配慮に感謝する。
そういえば、波江が来てからすぐの記憶が無い。ソファーに腰を落ち着かせた後、すぐに寝てしまったのかと思い出して、ふと時計を見る。長い針は7の数字をを指し、4時間ほど寝てしまったことがわかった。


「魘されてたなら起こしてよ、波江さん。」


臨也は冗談交じりに笑って言う。だが毛布を握る手が震えていた。気付かれないように、ぎゅ、と手を重ねるがどうしても震えは止まらない。波江はその手を一瞥すて目を細めながらも、臨也にコーヒーをだした。


「貴方も嫌な夢を見るのね。」
「そう、だね。」
「………口を出していい事かわからないけれど、言わせてもらうわ。」
「何かな。」

「――…その手首の痣は何かしら。」


長袖から見えてしまったその両手首に赤くなった擦り傷のようなもの。
自由を奪うために男に手錠をつけた際にできてしまったものだった。強い快楽に耐えようと抵抗する度に擦れてしまい、赤く痕をつくってしまったのだ。
はっとなり、すぐさま手首を隠す。だが波江はそれ以上の事はなにも言う事はなく、暗くなった外を眺め始めた。


「暗くなるのが随分早くなったものね。」


帰るわ、と波江は上着を取る。そして自分が片付けた仕事を的確に臨也につたえ始めた。臨也もあまり働かない頭だったが情報を整理していく。
頭を使っていると今までの事もこれからのことも、考えずにすんだ。


「以上よ。じゃあ帰るわね、」


コートを翻し、波江は玄関へと向かう。臨也は視線だけを送り、波江の背中をただ見ていた。
だが波江が玄関のドアノブを握ったとき、臨也は、波江さん! と呼び止めしまっていた。それは無意識の行動だった。


「何か、問題でもあるかしら。」
「あ、いや、なんでもないよ、御苦労さま。」
「……疲れているならまだ寝ていた方がいいわ、顔色が最悪よ。」


お気づかいありがとう、と臨也は笑い軽く手を振ると、波江は少し眉を寄せたが出て行った。

しん、と静まる部屋。

誰も居ない、という事実がぶるりと臨也の肩を震わせた。誰も居ない。誰も居なかったはずのこの部屋に居た男を思いだし、臨也は息を詰まらせる。周りを見渡すが、やはり誰も居ない。カチカチと時計の音がするだけだった。

あの時、出ていく波江の背中を見て、臨也は行かないでくれ、と、叫びだしたくなるのを必死にこらえていた。行かないで、ひとりにしないで。

真っ暗な外を見て、さっきまでの眠気はいつしか消え去ってしまっていた。
ソファーから立ち上がり、パソコンへと向かう。椅子に座ると、ぎし、と小さいはずの音さえ大きく聞こえた。その時、ふ、とある感情に気付いた。俺は、


(怖い、の、か…?)


それはれっきとした恐怖だった。それは自覚してしまうと、一段と勢いよく襲いかかってくる。誰も居ないはずなのに、誰か居るのではないかと錯覚してしまう。もしかしたら、後ろに。入れるはずのないこの部屋に男が侵入していた事が、何よりも臨也を恐怖に身を震わせた。

寝室に戻る勇気などありはしなかった。入りたくもない、見たくもない。後始末すら、億劫だった。業者に頼もうにもあの惨状を見られたくはない。どうすることもできなかった。

臨也はパソコンに電源をつける。何かしていないと、静けさと恐怖でおかしくなってしまいそうだった。

あの男を潰してやろう、という考えにいたらない程に臨也は肉体と共に精神的ダメージは大きかった。




それから数日も、夜になると眠る事が出来ず、出勤してきた波江を確認してから数時間の仮眠をとる生活を送った。
着々と臨也の身体と精神は蝕まれ、ついに、眠ることすらもままならなくなってしまったのだった。





(20101202)

20110121→加筆修正

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