芋虫

私がその作品と出会ったのは十歳の時だった。
前日にテレビで見た少年の探偵と怪人のやり取りが面白く、原作で読んでみようと休日を利用して市立図書館へと向かったのがそもそもの切っ掛けだ。
残念ながら求めていた本は無かったのだが、折角来たのだからと同じ作者の本、読みやすそうな短編集を借りてみようと手を伸ばしたのがその本で・・・今思えばあれは運命だったのかもしれない。

ともかく、それが全ての始まりだった。

私がその作品を読んで真っ先に思い浮かべたのは、前世の友であり片割れであった男の事だ。
奴はその作品に出てくる男のように、手足が無くなっていた訳でも口が利けぬ訳でも無かったが、病に侵され一人では立つ事すら儘ならなくなった姿は確かに、庇護欲と、同時に束縛心が大いに擽られた。
何よりも目だ。他の愚物を相手にする時がどうかなど知らないが、私を見つめるその時だけは、純粋な善意でその満月のような瞳が潤み、普段は隠している感情を晒け出して全てをぶつけてくるのだ。その美しさ、妖艶さと言ったら他のどんな芸術作品も及ばないだろう。
たった数頁で私の心を捕えたその作品は、読めば読むほど心に沁み渡り、私が前世から抱いていたにも関わらず気付いていなかった欲望を叩き起こして目前へと突き付けたのだ。

・・・ああしかし、もしもこれが私であったのなら、目を潰すなどと言う愚は絶対に侵さないのに。その代わりに決して逃げられぬよう窓には格子を嵌めて、扉には錠前をかけるのだ。勿論その鍵は私以外の誰にも持たせはしない。
そうして作った虫籠の中で、永遠に私は愛しい者と二人、手を取り合って静かに一生を過ごすのだ。それはなんと甘美で幸福な一生だろう。

図書館に本を返す間すら惜しく、一通り満足するまで何度もその一つの物語をなぞった後、興奮を隠せぬまま両親に同じ本が欲しいとねだったのだ。
今考えれば、子供がこのような本を読むものじゃないと叱られてもおかしくは無かったが、幸い私の両親はどちらも理系の人間であったので、文学には疎く作者名は知っていても内容の方は知らなかったらしい。それどころかこんなに難しい本を読めるのかと喜んで、同じ作者の別の本まで数冊購入してきてくれた。
それからはあっという間だ。私はその作者に傾倒して、次々と作品を読破していき、それだけでは飽き足らずに、作者を問わず古典から近代文学、現代作品に至るまで色々な本に手を出して今に至る。だが、それでも未だにあの話を越える作品には出会えていない。
 だがそれももう良い、この大学に入って、同じ文学部で刑部と出会えた。これからは物語の中に逃げ道を見つける必要も無ければ、空想に耽り己を慰めることも無い。何時でも手を伸ばせば届く距離に刑部が居る。


三成の告白を黙って聞いていた元親は、机上で組んだ手を額に当て、どこで間違ってしまったのだろうと真剣に今起こった一連の出来事を反芻した。
何故だ、己は、文学部へと進んだ理由を聞いただけであったのに。何故真昼間の大学食堂ど真ん中で、性癖暴露とも言うべきこんな濃い話を聞かされる羽目になったのか。幸いにも賑やかな食堂内で三成の静かな告白は目立つことも無く、周囲は普段と同じような喧騒に包まれている。
隣に座る家康は三成らしいなと朗笑したが、残念ながら元親はそんな一言でこの話を済ませられるほど心が強く出来ていない。
 そしてもう一人、この話を聞いてはいけない人物が、三成の後ろで顔を蒼くしている。

いけない、逃げろと視線だけで訴えたのだが、残念ながら彼が踵を返すよりも、三成が振り返る方が早かった。ああもう俺知らない。

「どうした刑部、そんな所に突っ立って。」