集合団地3244号室

チャイムの音に呼ばれて玄関へと向かうと、スコープの向こう側に居たのは見た事の無い男だった。
部屋の主は緊張した面持ちで唾を飲み込むと、チェーンを外して扉を開く。

「み「刑部、か?」
問いかけるよりも先に相手に尋ねられて、吉継は口ごもりながらも首肯してその人物を室内へと招いた。
すらりと背の高いこの男の名前は三成、と言うらしい。本名かどうか定かではないが、吉継はなんとなく、本名だろうなと予想していた。最も、その予想が当たろうが外れようが、自分にとっても三成にとっても、今更どうでも良い事ではあるのだけれど。
客人を奥へと追いやって、再び扉にチェーンをかける。今からの事を思えば扉は開けっ放しの方が良いのだけれど、これはもう癖のようなものだったので吉継は自分の気持ちに素直に従い、不自由な足を引き摺って狭い室内に取って返した。

「・・・どうぞ。」
「・・・ああ。」
ぎこちなく視線を彷徨わせていると、三成が手にビニールを下げている事に今更気が付く。目線だけでじっとそれを観察していると、彼も吉継が何に興味を示しているのか理解したらしく、ああと小さく声を漏らしてからその中身を机に置いた。
「準備を、させてばかりだったから。」
並んだのはビールにチューハイ、それから焼酎。そんな事を気にしなくても良かったのに、と何だか可笑しくなって、吉継は少しだけこの初対面の男に対する評価を上げた。


二人は今日、此処で死ぬ。


明日を生きるのも恐ろしいが、一人で死ぬのはもっと怖い。だからせめて道連れをと、インターネットで同士を募り二人は知り合った。
卓袱台を挟んで向かい合わせに座ると、吉継が色とりどりの薬を机の上に広げてその半分を三成の方へと押す。三成は無言でそれを受けとると、持参したビールで一粒ずつ薬を飲み込み始めた。
吉継がチューハイを手にしたのを見て、甘いものも買っておいて良かったと、三成は内心でほっとする。

暫くの間、どちらも言葉を発することなく黙々と薬を口に運んでいたのだが、不意に、吉継がするりと足を撫でたのを三成が見て不思議そうな声を上げた。
「足が痛むのか?」
そう言えば、部屋に入った時も引きずっていたような気がする。
今更ながら、彼の自殺の理由を知らない事に気がついて、もしかしたら病苦が原因なのだろうかと勝手な予想を組み立てた。
目元には深い皺が刻まれ、黒髪の中に白いものがちらつく様は四十、いや五十代のようにも見えたが、三成に教えられた情報が正しければ、実際の年齢はまだ三十にすら満ちていない。

「足だけでは無いがな。・・・簡潔に言えば不治の病よ。この身体には常人の数倍の速度で老いがやってくる。」
更に病の合併症か、足の感覚が次第に鈍くなり、今では満足に動かす事すら出来ないのだと言う。
弱々しく笑う男に自分は何もしてやれない。そう思うと、三成の胸を無力感と空漠が襲ったが、吉継はそのどこか優しい瞳のまま、己に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「嘆いても怒ってもどうにもならぬ。なればもう良い、ヨイ。」

そう言うと次はぬしの番よと促され、三成は一つ頷くと吉継から目線を逸らして空になったビールの缶を握り潰す。
「・・・義父が、死んだ。」
たったそれだけの言葉を放つのに、随分と苦労した。未だに彼の死は三成の中で整理が付かない程に大きな出来事であったのだが、こうして音にすると何ともあっさりとした一言に収まってしまう。
暫くの間、三成は思考がこんがらがって周りが見えなくなっていたが、吉継が黙ってその続きを待っているのに気付くと慌てて説明を続ける。
「私はあの方に引き取られてから、あの方のお役に立つ事だけを考えて生きてきた。秀吉様が亡くなってしまっては、私の生きる意味など無い。・・・いや、それでも最初はせめて残された会社だけでも守ろうと奮闘したのだ。それなのに・・・、それなのに秀吉様の会社は乗っ取られた!しかもあの方が世話をしていた子会社の社長に!!私は私の無力を何よりも憎む、何が秀吉様の左腕だ、仇敵におめおめとあのお方の努力と実績を奪われ、まるでただの木偶ではないか!!」
しかし血を吐くような叫びは唐突に途切れ、それまで次第に昂らせていた熱が冷めてがくりと項垂れた。

「だが、ある日部下であった男が言っているのを聞いたのだ。・・・豊臣商事の社員も、これで安泰だと。・・・お笑い草だ、秀吉様の後継者は私ではなく家康らしい。・・・ならば私は何故生きている。私のしていた事は・・・。」
それ以上は言葉にならず、ただただ二人で静かに世界を呪った。


「手を、握っても良いか。」
呟いたのは吉継の方だったが、三成も全く同じ事を考えていたので驚いて顔を上げた。
「いや、不快にしてしまったのならスマヌ。・・・今の際になって人肌が恋しくなってな。」
発病してから殆ど誰とも会わない生活を送っていたのは事実だ。しかし、今の今まで寂しいなどという感情が自分の中にあった事すら忘れており、滑り落ちた言葉に吉継自身、困惑している。

伺うような態度の吉継を見て、三成は無言で立ち上がると、彼の真横へと移動して再び座り直した。
そしてそのまま両腕を伸ばし、硬くなった身体を強く抱き締める。

「こうしていたら、死も、恐ろしくは無いだろう。」
吉継は何も言わずに三成を抱き返すと、涙の滲む瞳を見られぬように顔を伏せて肩口に擦り寄せた。
薬で蕩けたのは身体ばかりでは無いらしい。次第に霞かがったようになっていく思考は二人から理性や虚勢を取り払い、何年も明かした事の無い素直な心を、初対面であるはずのお互いに晒け出す。
「・・・実は、心残りが一つだけある。」
耳元で囁かれ、ゆっくりと顔を持ち上げると、眦を仄かに染めた三成が突き刺さりそうな強い視線で自分の瞳を覗き込んできた。
「私は今まで、恋をした事が無い。」
強気にも関わらずどこか残念そうな顔が何だか可笑しくて、思わず口元を緩ませて抱き寄せていた背を軽く叩く。
「寄寓よな。我もよ。」
子供の頃、もしもこんな風に内緒話をする相手が居たのなら、今の自分はもう少し違っていたのかもしれない。

「貴様を、好きになっても良いか。」
「ヒヒ、それはまた物好きな。」
仮にも社長令息ならば、こんな醜い同性よりも、過日に出会った可愛い少女や職場の美人秘書など、幾らでも最期に思い浮かべるべき相手は居ただろうに。
だけど彼に好かれると言うのは擽ったくはあっても、これっぽっちも悪い気はせず、重たくなる身体の望む通りに横たわりながら返事を返した。
「我も、主が好きよ。」
目蓋を開ける事すら億劫なのに、どうしてだろうか彼を抱く腕だけは力強く、また抱き締め返された場所だけは冷たくなる身体に反して暖かい。



「もしも、貴様に口付たら。 ・・・少しは、この世が 好きに、なれるだろうか。」

「・・・やめよ。  未練が、残る。」
腕だけでなく足先までもを絡め合っていると、胸で刻まれる鼓動すら一つになったような気がする。
その時初めて、怨みも妬みも嘆きも全部忘れる事が出来た。目の前の相手の事だけしか考えられないというのが、こんなに安らかなのだと何故今まで知らなかったのだろう。



生きる理由を、今、見つけたのに。