千本の針を飲め

完膚無きまでに叩き伏せられた家康には、辛うじてまだ息があった。
彼の前に立つのは緑色の鎧を纏った一人の武将。その姿はお世辞にも猛者とは言えず、一撃振るえば折れそうな細い身体はまるで女のようにすら見える。
だが、自分は確かにその男に負けたのだ。
いやこの際勝ち負けなどはどうでも良い。それよりも、それよりも。

(何故なんだ毛利。)


問い掛けは音にならず、誰かが駆け寄る足音が小さな呻きすらも掻き消した。

「刑部!刑部!!」
薄く目を開くと、そこにあるのは旧友の姿。仇の自分には目もくれず、真っ先に刑部を抱き上げる辺りが三成らしいと思わず唇に笑みが浮かぶ。
彼等の友情は美しく、自分が最も羨んだのはそれであったのかもしれないと今更考える。

「毛利、貴様!何故刑部を助けなかった!!」
当然の如く激昂する三成に元就がかけたのは、意外な言葉だった。

「其奴が先に我を裏切ったのよ。」

その一言に、家康だけでなく三成も一瞬たじろいだのが気配で解る。あの毛利を裏切ったなど、刑部は一体何をしたと言うのだろうか。
刑部ならもしや、と思う気持ちと、いや毛利が三成を煙に巻く為の出任せかもしれぬ、という気持ちで板挟みになる。
あえて言うなら、毛利が他人を、それも自分と同じ知将を信用するとは思えなかった。
「刑部が裏切っただと!?馬鹿な事を「死んだであろう。」



「我を裏切り、死んだであろうが。」



冷たい、冷たい声だった。
家康はどこまでも己の価値観でしか物事を推し量れぬ自分を恥じた。
仲間では無かったのかなどと、どの口が、どの口が言えたのか。
嗚呼そうだ。彼等は正しく仲間であった。言葉などたった一言、死ぬなと言うそれだけで充分であったのだ。
自分は何を見た。刑部の遺言を、毛利に生きろと言っているのを確かに聞いたのに。
毛利元就と言う人間は無駄を嫌う。目の前で誰が死のうが、死ぬと解っている人間に手を差し伸べはせず、淡々と次の一手を考える男だ。例えそれが肉親であろうが、友人であろうが同じである。
その彼にとって、死ぬなと言うその言葉こそ絆に他ならないではないか。


「我が着いた頃にはもう虫の息であった。一人勇んで駆けていったのがこの様よ。」
死んだ者に用は無い。
それは逆に言えば、生きていなければいけないと言う事だ。
普段であれば、刑部を愚弄する事など許さぬと叫ぶ三成も、黙ってその言葉を聞いている。
当然であろう。元就の言葉は、三成の心中そのものであるのだから。

「約束だ、徳川はまだ死んではおらぬ。止めは貴様が刺せ。」


もう此処に用は無いとばかりに踵を返す元就の背に、三成の小さな声が降りかかる。
「………感謝する。」
「貴様からの礼など要らぬ。」



最後に、覚えのある鍔の音が聞こえた。