猿の経


元親が吉継を撃破し、次は元就だと大阪から引き揚げた後のことである。

それまで呆然と立ち尽くしていた三成が、突然大量の血を吐いてその場に倒れ伏した。
周囲に居た兵士達が一体何事だと慌てて抱き起こしたが既に手遅れで、どこか遠くを見詰めたような表情のままその翡翠の瞳はもう二度と人の姿を映す事は無かった。

家康と元親がその報せを聞いたのは総てがすっかり終わってからで、運び込まれた冷たい身体に絶句したのはどちらも同じである。
血を拭われた三成の顔は綺麗なもので、彼がそのようにして逝った原因は医者にもとんと検討がつかないと言う。折角新たな絆を結べそうだったのにと二人が悔やんでいると、仏の埋葬にでも呼ばれたのであろうか、どこからともなく銀の髪をした高僧が現れた。
何故か、その身に待とう空気が懐かしい。
彼は三成の顔を暫く観察すると、沈痛な表情をした二人に向き直り面の下で唇を動かした。


「一つ、お話をしましょう。」

深い声は有無を言わせぬ迫力があり、どこか愉快そうな響きであると思えども口を挟む余裕もなく言葉は始まる。

「昔、ある船乗りが猿の母子と出会いました。彼はふとした気紛れから、その子猿を飼おうと思い、罠を仕掛けて母猿の手から奪ったのです。
船乗りはそのまま自分の船に乗り込み海へ出ました。すると、大きな叫び声と共に何かが背後から迫ってくるではありませんか。
よく見るとそれは先程の母猿で、猿はようよう船に辿り着くと、口から血を吐いて死んでしまいました。」


母と、子と、敵味方を問わずに言われ続けていた言葉だ。そうだ、自分達もまさしく見ていた。その深く結ばれた関係を。


「何事かと思い船乗りが腹を裂いてみたところ、何と母猿の腸はボロボロに千切れていたそうです。悲しみのあまりに、ね。」

断腸の思いと言う言葉を聞いたことが無い訳では、無い。
だが、所詮は作り話であるとそう思っていたのも確かだ。たかが感情で、悲しみで内腑が千切れ、血を吐いて死んでまうなど。

「私、この話でずっと気になっていたことがあるのです。身を拐かされ、母が惨たらしく目の前で死んでしまった子猿は、その後どうなったのかと。」


母を殺した船乗りに、果たして子猿は縋れるか。
三成の薄い腹を裂いて確かめてみる勇気は、どちらにも無かった。