御鉢の中身はすっからかん

その朝吉継が目を覚ますと、昨夜床を共にした三成よりもまだ近い位置に、人好きのする笑みを浮かべた男の顔が迫っていた。
驚きはしたが声も上げず抵抗もしなかったのは、三成の知り合いの妖怪だろうと思ったからだ。まさかこの寝室に人間が入って来るとも思えないし、妖怪ならば人間同士ではちょっと躊躇うこの距離感にも納得がいく。
「起きたか!!」
焦点の合わぬ瞳を彷徨わせ、この事態の成り行きを知っていそうな鼠は一体何処に居るのだろうと辺りの気配を探っていると、唐突に腕を引かれて何か硬いものの上へと倒れ込んだ。
それはよく見ると彼の男の身体で、抱きすくめられる形になった吉継はここに来て流石に抵抗を思い出したが、それより先に響いた絶叫に竦み上がってしまう。


「イイィィィィエエェェェェェヤァァァァァァスゥゥゥゥゥゥ!!!!!!」


振り返れば、三成が謎の鳴き声を上げて目を光らせていた。
「いえ…?」
吉継が自分の状況も忘れて首を傾げていると、逞しい腕の持ち主は三成!と嬉しそうに鼠に声を掛けた後、何事も無かったかのように吉継の瞳を真っ直ぐ見詰めて口を開く。

「ワシは家康、九十九神の家康だ!宜しくな!」

三成はその言葉の終わらぬ内に、家康の腕の中から奪い去るようにして吉継を抱き寄せると、首筋に鼻をくっ付けて自分の匂いを擦り付ける。その間も太い尻尾でべちりべちりと床を叩いて家康との距離を取り、顔から黒い煙のようなものを吐き出して始終毛を逆立てていた。
「み、三成…?この者は?」
記憶が正しければ、九十九神とは道具に魂が宿ったものだった筈であるし、一見こちらに危害を加えて来そうな様子は見当たらない。だが大人しそうな顔をしているとは言えども、三成のこの警戒ぶりから考えると人間を食う類いの妖怪なのであろうかと言う予想も捨てきれなかった。

「…私を可愛がって下さった秀吉様が、この寺の大僧正に騙され殺された話はしたな。」
ややあって、憮然とした表情の三成が低い声で返事をする。
そう言えばそんな話も聞いた気がする、が、大僧正が下男に一体何の罪を擦り付けたのだろうとも思う。気に食わぬだけならば放逐なり何なりとすれば良いのだし、かと言って金の使い込みのような事なら下男ではなくもう少し上の、金銭の管理をしていたような役職の人間を嵌めるのが妥当であろう。

「この家康が原因なのだ。」
びしりと人差し指を突き出して示した先には、困ったなぁと頬を掻きながらも一歩も引く様子の無い家康の姿があった。

「ワシは…謙遜しても仕方ないな。名匠の逸品と呼ばれた茶碗だ。ワシはある大名に譲り渡される筈だったんだが、大僧正殿がそれをどうしても拒んでな。秀吉公が割ったと事にして隠したんだ。」

割れた茶碗の九十九神にしてははえらく小綺麗なものだと訝しんでいたが、そう言う事なら納得出来る。
貴様さえ居なければ秀吉様はと慟哭する三成が怨む気持ちも解らないでは無いが、家康も被害者なのだ。だからこそ、三成も口では責めれど襲い掛かるような真似はしていない。
抱き締められたまま固い髪の毛をよしよしと撫でてやると、腕の力が強くはなったが三成は少しだけ落ち着いたように見えた。

しかし家康もそこで引き下がってはいられなかった何のためにわざわざ三成の寝室まで押し入って吉継に会いに来たのか。恋人達の空間になりそうな雰囲気を察知して、三成の尾を避け二人ににじりよる。
「道具でも百年、使って貰えれば魂が宿る。九十九神は九十九年使われて捨てられた、妖怪のなり損ないなんだ。」
そう言うと家康は一旦言葉を切り、顔の前でぱちんと両手を合わせ頭を下げた。
「嫁御どの頼む!一年間ワシを使ってくれないか!?あと一年、一年で、ワシにはちゃんとした魂が宿るんだ!」
「なっ、貴様!!」

そう言われて吉継も漸く事の成り行きが分かった。
嫁御と言う呼び名が気にさわらないでは無かったが、要するに彼の頼みはたった一年茶碗を使えとそれだけの事なのだろう。しかし、それだけとは言えども妖怪を恐れぬ人間である自分にだからこそ頼める願いだ。

「われは茶の淹れ方など碌に知らぬぞ?」
「全く構わない!大事なのは心を込めて使ってくれるかどうかなんだ!」
哀願されて、ふむと顎に手を掛ける。これから先も此処に住むつもりならば、妖怪の一匹や二匹捕まえて、恩を売っておくのも悪くない。
「あいあい。ではこれから一年宜しく頼む。」
そう答えてやると家康の表情は目に見えて輝き、わぁっと嬉しそうな声を上げた。しかしそこで待ったをかけたのが三成だ。
「待て吉継!家康は茶碗だ。それを使うと言う事はつまり吉継が家康に口付けると言う事だぞ!私は許可しない!」
「逆に言えば茶碗に口を付けるだけであろ?モノに触れるだけに一々ぬしの許可など取ってられぬわ。」
横から湧き出た可愛らしい悋気に小さく笑うと、再び家康が口を挟んできた。

「ワシの為に争わないで!!」
「今すぐ首を垂れろ。」

三成がそう叫び、一陣の閃光が煌めいたかと思うと、ごろりと鈍い音を立てて立派な茶碗が一つ床に転がった。刀など何処に持っていたのかと驚いたが、何の事は無い尾を振っただけである。
…まぁあれだ、今のは家康が悪い。

このまま本当に割ってくれようかとぶつぶつ呟く三成の唇に、ちゅうっと小さく吸い付いた。
「われが口付けと思って口付けるのも、こうして枕を並べるのもぬしだけ。われの伴侶は三成、ぬしだけよ。」

頬を擦り寄せると、鼠の高い体温が更に熱くなった気がした。