おうちにかえろう


霧雨の降りしきる道をひたすら進む。右も左も解らなかったが、とにかく少しでも遠いところへ行きたかった。
顔中、どころか目の中にまで侵入してくる雨粒の所為で前は見えないし、ザァザァと耳に纏わりつく水音が壁となって他の情報を遮断する。・・・いやそれは言い訳だ、結局は先ほど起きた衝撃に頭が一杯で、周りが全く見えていなかったのだ。だから、景色とよく似た灰色の車が近くへと迫って来るのに気付いたのは、本当にギリギリになってからだった。
危ない、と思うと、逆に身体が硬直して動けなくなり、光るライトが間近に迫ってあやふやな視界の中でも運転手の驚いた顔がはっきりと目に映った。



覚悟した走馬灯は見えなかった。

その代わりに身体を襲ったのは、浮遊感と熱、そして一拍遅れて背中の痛み。


止まっていた息を吸い込むと肺が軋み、視界には鉄の塊の代わりに見慣れた銀色が待っていた。
いつの間にか追い付いていた三成が、家康を抱きかかえるようにして道の脇に飛び込んだのだ。

「家康、家康大丈夫か!?」
泣きそうな顔をして自分を抱きしめる三成の姿に、何かが重なった。
これは彼の顔だろうか、いや、しかし妙に若い気がする。今よりもずっと若い彼が、今にも射殺さんばかりに此方を睨みつけていた。少なくとも、自分の知る父はこんな凶悪な顔をしたことは無い。
その隣には全身と鎧と包帯で隠した兜の人物が見える。年齢どころか性別すらも解らないが、特徴的な瞳さえ晒されていれば判別は容易い。これは母だ。
彼女(彼かもしれないが)も傍らの父と同じように、憎悪に満ちた視線を寄越してくる。
しかし、そんな両親の憎しみを間近に受けても不思議と恐ろしいとか悲しいとかは思わなかった。いや、受けているとは思えなかった。その視線の先に居るのは間違いなく自分の筈なのに、二人は知らない誰かを憎んでいるのだと疑わず、彼等にそんな顔をさせるその人間を、自分も憎いとすら思えた程だった。
三成と吉継が、自分にそんな悪意を向ける筈が無い。それはむしろ確信ですらあった。

だが、次の瞬間。洪水のように押し寄せる記憶が、その自信をあっさりと覆す。

『死ね家康ゥゥゥ!!!!』
『主に不幸を、我が生涯を賭けた呪いを!!!』
甘かった筈の言葉は拒絶し、抱きしめてくれた筈の腕が襲いかかってくる。
違うんだ、止めてくれ、そう言いたかったのに喉からは何の音も出て来ない。違わない、止める権利など無い。自分は彼等に恨まれて当然の人間であり、殺意を向けられる正当な理由があった。

そうまで憎んだ相手であるのに、何度殺しても足りぬほど、呪った相手である筈なのに。


赦しはとうに与えられていた。
自分を抱いてくれた腕はいつだって温かく、己の周りにある言葉はいつでも柔らかかった。笑顔に囲まれた生活は天下統一を果たした戦国の時代ですら味わえなかった理想の人生で、当然のようにこの手に持っていたのは、あの頃に命を賭けてでも手にいれたかったもの。
貴方達の子供に生まれて、本当に良かった。


「家康、・・・無事か!どこも怪我はしていないのか!?」
ぱちりと目を瞬かせると、日に焼けて部活で鍛えた丸太のような自分の腕とはまるで違う、筋張って白い父の腕が己を抱きしめていた。
「・・・父さん。」
「家に・・・帰るぞ。」
その言葉に頷くとほっとしたような顔で腕を引くので、されるがままにゆらりと立ちあがり、数時間前と同じように揃って無言で帰路を歩く。
しかし先ほどとは違い、心も、その沈黙も、ふわりと暖かかった。

土砂降りの雨の中を歩いた上に水たまりに突っ込んだ所為で、家に帰った頃にはすっかり濡れ鼠であったが、玄関の所でずっと待っていたらしい吉継は息子の姿を確認するなり服が汚れるのも構わず抱きついた。
何度もすまぬと謝罪の言葉を叫び震える母の背を抱き返して、つられたようにまた涙を流しながら問い掛ける。
「ワシがその徳川家康でも、二人の子供で居て良いのか?」

「何を・・・当たり前であろう!!ぬしはわれたちの自慢の息子の家康よ!」
ぶんぶんと首を振り、吉継が叫ぶ。腹に絡まるのは白く滑らかな肌。そこに、前世で彼女を苦しめた病の影は見当たらない。
「じゃあ昔二人を殺したのは赦してくれるのか?」
「赦すも赦さないも無い!今の貴様とは関係ない!」
「なら太閤を殺したことは?」
「秀吉様も貴様が生まれた時に、総て過去の事と仰られていた!」
「待ちやれ家康。」
それまでぼろぼろと涙を流し、胸の中に居る息子を抱きしめていた吉継がぴたりと動きを止めてその顔を覗きこむ。昔から何一つ変わらぬ自分達の上司を、今なんと呼んだのか。

「貴様、記憶が。」

にんまりと微笑んだ顔に、狸と呼ばれていた旧友の姿が重なった。家康は三成の狼狽した声を無視して、腕を伸ばし二人を抱き締める。細い彼等を纏めて腕の中に囲い込むことなんて、簡単な事だった。

そう、簡単な事だったのだ。
「ただいま。父さん、母さん。」