おうちにかえろう

そうやって暫くの間悶々とした日々を過ごしていると、ある日、普段通りに帰宅した居間で母の友人の市が麦茶を飲んでいた。
「こんばんは、光色さん。」
彼女に呼ばれる、光色さんと言う呼び名にこれ程安心した事は無い。彼女は父の事を闇色さんと呼ぶので、まるで自分と父が対になっているように感じられる。彼女は、似ない似ないとからかわれている父と自分の二人を、唯一人似ていると形容してくれる人なのだ。曰く「まるで鏡みたい。全部さかさまなのに、とってもよく似ているわ。」とのことで、その言葉を聞く度に満更でもなさそうな表情を浮かべる父を見るのが好きだった。
少し話をしたかったのだが、残念ながら丁度帰るところであったらしい。あやつり人形のような動作でふらりと立ちあがると、小さく首を傾げて上目遣いに家康の瞳を見つめる。
人妻で、自分より二周りは年上だというのは分かっているのだけれど、この美しい顔で見つめられるとどうにも緊張してしまう。

「市のところにも、また遊びにきてね。」
「勿論だ!長政殿と鶴にも宜しく伝えてくれ!」
鶴と言うのは彼女の娘で、家康より二つほど年下の可愛らしい少女の名だ。
鶴は、長政と市が本当に愛し合った末の子供なのだと考えるとずきりと胸が痛んだが、どんな理由で彼女に八つ当たりをするのは筋違いというものである。出来る限り普段通りの顔で彼女を送り出した。

吉継がおや、と呟いたのにつられて家康もその視線の先を追う。するとそこには、見覚えの無い白い携帯電話が淡い光を発しながら持ち主を呼んでいた。
「やれ、五天め。こんな大切なものを忘れて帰るとは。」
吉継が苦笑しながら手を伸ばしたのよりも早く、その隣から節だった指が伸びて携帯を掴んだ。
「ワシが届けて来る。今から走れば間に合うだろ。」
三成ほどの速度は出ないが、毎日のランニングで鍛えた足腰にはそれなりに自信がある。それに途中で携帯を忘れたことに気付けば、向こうも引きかえしてくるかもしれない。
何度か訪れたことのあるマンションまでの道を思い出しながら、きっと彼女ならこの近道を通る筈だと、道路を直角に曲がり児童公園の中へと入る。
普段はこの時間でも数組の親子連れを見かけるのだが、今日は珍しく子供の姿も無ければ運動をする大人も影すら見当たらない。しかし妙な静けさを孕んだ、そんな夕暮れの公園で一つ、震える声がした。

「やめて、嫌。」
「良いじゃん、ちょっと遊ぼうよ。」

ベンチと植え込みの隙間から見えるのは、そう遠くない場所に立つ市と、彼女の細い手を掴む、見知らぬ男。

気が付いたら、その男の頬を殴り飛ばしていた。
突然現れ乱暴を働いた自分に、その男は怒りよりも先に驚きを顔に浮かべていた。市がすんすんと鼻を鳴らしながら家康の袖をぎゅうと握ったのを見て、知り合いだと理解したらしく狼狽した声を上げる。泣かせるつもりじゃ、とか違うんだ、とか、そんな言い訳じみた言葉が耳に届く。それでも一旦沸き上がった怒りは収まらずに再び拳に力が籠った。
「何をしている!」
だがその手が動く前に、鋭い声が鼓膜に突き刺さり平常心を取り戻す。振り返るとそこには怒りに眦を釣り上げた三成が立っており、その威圧感に己が怯んで動きを止めた隙を見て、市の腕を引いていた男は好機とばかりに走り去る。

当初の目的であった携帯を渡した後に二人で彼女を家まで送り届け、安全な扉の奥に彼女が消えた途端。高い音を立てて白い手に頬を張られた。