3 ふと気がつくと、また猫になっていた。 会社からの帰り道、いつも通りの時間に猫に姿を変え家路につく。 家路は家路でも、俺の家へのじゃない。この姿になってから毎日のように帰っていた、エレンのボロアパートへの帰り道だ。 あんなことがあった後で家に入れてもらえるとは思わない。門前払いされるのがオチだ。そうは思っても他に行くあてもなかった。自分の家に入るには鍵もないし扉も開けられない。 物陰からそっとアパートの窓を盗み見る。カーテン越しに明かりが漏れている。エレンが帰ってきていることはわかった。 夕暮れ時、猫だから夜目はきく。目をこらすと、いつもの窓の隙間は……閉じられていた。 それを見て泣きそうな気持ちになる。 エレン。 もう、来るなと。そういうことなのか。 「……ミャア」 目頭が熱く……はならなかった。猫だからな。悲しいときに涙を流すのは人間の特権らしい。猫じゃなくたって人間の姿でも果たして自分が泣いているのかわからないが。この数年、涙なんて流したことねぇ。 アパートの前で右往左往する。 もしかしたらエレンは、この姿の俺には甘いのかもしれない。猫好きのあいつにこの姿で泣きつけばもしかしたら再び心を開いてくれるかもしれない。姿さえみせれば。泣きつけばもしかして。 もしかして、もしかしてと、自分の都合の良い方に考えてきたが、ぴたりと閉まった窓を見たらその考えが甘かったことをつきつけられた。エレンは怒っている。もう俺と関わりはもちたくないらしい。 「……ミャア」 落ち込んで下を向く。相変わらず地面は這っているように近い。 自分自身を惨めに思った。 自分自身を妬ましく思った。 どうして俺は猫に生まれなかったんだ。 最初から猫に生まれていれば。 「……ミャア」 アパートの階段の下まで近づいた。最初にこの家を訪れた時、エレンに抱えられて昇った階段。猫の体は小さいから一段昇るのにも一苦労だが、上まで行けない訳じゃない。 しかし行けたところでエレンの家のドアをひっかく勇気は持てず、結局その日は近くのゴミ捨て場で夜を明かした。 猫になると人間の時の持ち物は消えている。鞄もスーツも。丸裸で寒さをしのぐのはきついが、一晩くらいは仕方がない。明日、人の姿に戻ってから家に帰ることにした。もうエレンの家をあてにして暮らすのはやめよう。 ……エレン。 今夜もエレンと一緒に眠りたかった。 もう一晩だけ一緒にいたかった。こんなことになるのなら最後の晩をもっと噛みしめるようにして眠ればよかった。気持ちよくてすぐにすやすやと眠りについてしまったことを後悔した。 あんなに幸せだったのに。なぜそれをもっと大事にしなかったのか。 エレン。エレンに会いたい。 あの、優しいエレンに会いたい。 「ミャア」 まずいな、と言ったつもりがやはり猫の声しか出なかった。 夜が明け日が昇り、重大な事実に気がついた。人の姿に戻れなくなった。 なんで。どうして。会社はどうする。いや、それどころじゃねぇ。このまま猫のままだったら。 あれだけ、猫でいられたらと願ったはずが、こうして実際に叶いそうになると急に怖くなった。だってもうエレンの側にはいれないのだから、猫でいることにメリットはない。 いつもの出社時間はとっくに過ぎたがいっこうに戻る気配のない体を引きずってとぼとぼと歩き回る。困った。非常に困った。助けを求められる相手もいない。 裏通りを歩く。日中、今まで顔も合わさなかったはずの近所の猫どもが井戸端会議をしているところに出くわした。 俺もこれからはいっぱしの野良猫としてやってかなきゃいけないのだろうか。そう思ってせめて愛想良くしようとにこやかに近づいてみたら、奴ら人の顔を見た途端ものすごい勢いで追いかけてきた。怖かった。振り切る直前、思い切り耳をかじられた。血がポタポタと滴っている。 言葉がわかるかと思って対話を試みたが、猫達はニャアニャア言っているだけで俺の言葉も理解できないらしい。奴らは俺のことを捕食対象として認識したのか。これは俺がどう知恵を絞っても揺るぎない事実だ。てことは俺は人間なのか。わからない。単純にチビだから舐められたのかもしれない。 ゴミ捨て場に身を潜める。 人間に見つかるのも嫌だった。エレン以外の他人に飼われるなんて冗談じゃない。拾われて、残酷なやり方で殺す物騒な事件がこの辺で昔あったこともある。大体野良猫なんてそれでなくても、保健所行きの可能性もある。 腹が減った。昨日から何も食べていない。仕方なく残飯を漁ろうと思ったがゴミ捨て場にあるのは今日は資源ゴミだけだった。 夕方、ちょろちょろ動いていたネズミを見つけ、反射的に捕まえた。猫じゃらしでエレンに鍛えられていたから、こんなの掴まえるのは簡単だった。チュウチュウ!と必死で逃げようとするネズミを見ていたが、奴らが病原菌の集まりだということは知識として知っている。何も知らなけりゃ腹は満たせたのにな。こんなの食べたら死ぬだろ。むりだ。 掴んでいたしっぽを放り、ひょいっとゴミ捨て場へ逃がす。チュウ!とか細い声で鳴きネズミはゴミ捨て場の奥へ逃げ込んでしまった。 雨が降ってきた。 しとしとと静かな雨は気温を下げてゴミ捨て場の段ボールを湿らせる。 体感温度がどんどん下がっていく。体を丸めて暖をとっていたが限界だった。 くしっ、とくしゃみを一つ。 こりゃ、風邪だな。猫も風邪をひくんだな。しかし暖かい布団もない。薬も病院もない。これで仲間の猫でもいりゃ違うのかもしれないが。 寒い。 ぼんやりと段ボールの隙間から見える外の様子を眺めていた。 雨は降りやむどころか、雨足はどんどん強まっていく。夜が更けるといよいよ土砂降りに変わり、風も出てきた。 そういえば台風が近いって話を昨日会社で誰かが話しているのを聞いた。 ごうごうと風がうなる。雨は段ボールの中にまで吹き込む。必死にしがみつき、吹き飛ばされないように耐えた。 ああ、なんか。 死んでもいいかもな、このまま。 急に後ろ向きな気持ちになった。 このまま猫としてみじめな暮らしを送るくらいなら。人間に戻れないのなら。 いや。違うな。エレンのことだな。 人間でも猫の姿でも、エレンの近くにいられるのなら生きていけたかもしれない。 このまま生きていても、エレンにずっとあんな目を向けられるのなら。 あんな言葉をかけられるのなら。 「……ミャア」 泣きそうだが、鳴き声しか出なかった。 くそう、知らなければよかった。あいつが優しい奴だと。あんなに俺のことを甘やかしてくれるのだと、知らないままだったらよかった。知らなければ、こんなに比べて、みじめな気持ちにならなくて済んだかもしれないのに。 みじめだなぁ、俺は。本当にみじめだ。 猫になって好かれようと、利用しようとしたのがいけなかったのか。そんなことせずに真っ向から向かっていけばよかったのか。好きだと。お前と話したい、仲良くなりたいとでも、言えばよかったのか。言えるわけねぇだろ、俺が。猫の姿で近づく以外にどうしろってんだ。くそ。それでも、こんなに苦しいなら好かれなければよかった。嫌われたままでいればよかったのにな。 ……でもそれじゃ、やっぱり嫌だった。チャンスだと思ったんだ。自分の欲望を満たすための。エレンに近づくことができるチャンスを与えられたんだと思った。だって自分は男で、ただの同僚で、その上嫌われていて、友人としてですらきっと側にはおいてもらえない。 だから利用したくなった。その先の、もしばれた時のことなんて考えたくなかった。こうして現実になってしまってからは後悔ばかりだ。 エレンに会いたい。でも、会いたくない。 会いたくなくて、猫になったのかもしれない。戻れなくなったとわかった時にほっとしたんだ。これならエレンに責められることもない。人間に戻ればまた会社でエレンと顔を合わせなければならないが、猫のままならエレンの前で弁明する必要もない。 ラッキーだと思ってなかったか、俺よ。そんな逃げ道をつくるようなことをするから、こうして後から困ることになるんだ。 もぞりと湿った段ボールにしがみ付く。段ボールはますます体温を奪うばかりだった。 「リヴァイー!」 遠くでエレンの声がした。驚いて跳ね起きる。夢か、都合の良い幻聴かと思ったがその声は雨の音にまぎれてもう一度聞こえた。 「リヴァイー!」 やはり、エレンだ。探しにきてくれたのか。こんな雨の中を?そんなまさか。どんな都合の良い展開だ。 段ボールの隙間からのぞき込む。離れた場所でエレンが必死にリヴァイのことを探していた。 カッパを着て、傘をさして、懐中電灯を照らし大声で叫んでいる。なんでだよ。なんでそんなことしてんだよ。つーか、カッパって。そんなもん持ってたのかあいつ。 姿はどうあれ、泣きそうになった。嬉しくてたまらなかった。今にも飛びついてしまいたかった。しかし、一体どんな顔で出ていけばいいんだ。あいつに会わせる顔がない。 悩んだ末に、やり過ごそうとした。段ボールの影に隠れて知らんふりをしようとした。 しかしその矢先、「うわぁっ」という叫び声が聞こえた。見ると、ビル風に吹き上げられてエレンのビニール傘が反対側に開いて潰れていた。 「ミャア!」 「リヴァイ……!」 つい大きな声でエレンを呼んだ。その鳴き声を聞きつけたエレンは振り返り、ゴミ捨て場の俺を見つけた途端、へにゃりと情けなく、柔らかく笑う。いつも、猫の時の俺に向けるような優しい顔。リヴァイって、お前。レビちゃんじゃないのか。 「リヴァイ!お前、こんなに濡れて……!」 「ミャア!」 「大丈夫か?心配したんだぞリヴァイ」 「ミャア」 「会社の奴ら、心配してるよ。みんなお前のこと探してる」 「ミャア」 「よしよし寒かっただろ!早く帰ってあっためてやるからな!」 「ミャア」 「ごめんなリヴァイ!」 タオルにくるまれて、わしゃわしゃと体中を拭かれる。嵐からかばうようにエレンは背中を丸めて俺をカッパの中に招き入れた。中のシャツが濡れるのも構わずに。おい、中はスーツじゃねぇかよ。着替える間も惜しんで探しにきたのかよ。 嫌われたと思ったのに、なんだよ。すげぇ嬉しい。なんでだよ。 「ごめんな、リヴァイ……オレ、お前が休んでるって聞いて……連絡してもつながらねぇし、いてもたってもいられなくなってさ」 「……」 「オレのせい、だよな?」 「……」 「ごめん、言いすぎた」 しおらしいエレンの声を頭上に聞きながら、カッパの中でぐるりと丸まり上を向く。 いや、お前は間違ってねぇよ。確かにお前の言うとおりだ。俺は気持ち悪い。猫になれたことを利用して、お前の裸を見たり、触ったり、キスしたりしていた。猥褻目的だ。弁解のしようもない。 なのに、なんでお前が謝るんだよ。 エレンにぎゅっと抱きしめられる。冷えたびしょぬれの、濡れ鼠みたいな体をためらいもなく抱きしめるエレンの気が知れなかった。 なんでだよ、やめろ。俺はリヴァイだ。猫でもレビちゃんでもねぇ。お前が嫌いな、隣の部署の暗い冷たい同僚だ。 「ごめんな。オレ、カッとなって忘れてたんだ。お前と一緒にいて、オレすげぇ楽しかったってこと……」 「……」 「考えてみりゃ、あのリヴァイが、あんなにオレに懐いてきてくれたのにな。オレ、一方的に嫌われてるんだとずっと思ってた」 「……」 「昨日、お前がいなくてさ。寒くて寂しくてぜんぜん眠れなかったよ。お前と暮らせてオレ、自分がどれだけ助けられてたのか離れてわかったんだ」 「……」 「オレ、お前といられて幸せだったよ。お前もそうだろ?」 「……」 違う。お前は、俺との関係を飼い主と飼い猫の美談として昇華したいのかもしれないが、俺の方は単なる下心だ。俺はお前のことをずっと性的な目で見てた。だからお前が思ってるような飼い主と飼い猫の理想的な関係はきっとこの先も築けない。 でもお前さえよければ。俺はこのままずっと猫として暮らしてもいい。なんだったら人間としての生活ぜんぶを捨てたっていい。もう裸を見たり抱きたいとかいずれ自分のものにしたいとか、そういうエロいことを考えるのはやめる。猫としてひっそりと慎ましく生きていく。お前の家の飼い猫として、お前のパートナーとして、静かに生きていく。ちゃんと着替えの時は目を瞑るし、風呂も一人で入れるし、キスは口にはしないから。約束する。 だから、もう一度そばに置いてくれないか。 「なぁ、リヴァイ」 「……」 「猫でいる間だけでも、うちにいろよ。不便だろ? 「……」 「いいから、いろよ。ずっといろよ」 「……」 「お前は……うちの猫なんだから」 「……ミャア」 ぽんぽんとエレンが小さな背中をたたく。ぽろりと両目から涙がこぼれた。 前足で目をこすって驚いた。雨水かと思ったが、その塩辛いのはどう見ても涙だ。 猫は泣かないと思っていたのに、泣くんだな。 涙はぽろぽろとこぼれて止まらなかった。 「おい、エレン」 「え?」 「なにやってんだ」 雨の中後ろを振り返ると、仕事帰りらしい隣の部署の同僚が立っていた。 傘をさし、不審そうな眼でエレンのことをじっと見ている。 エレンは驚き、慌ててカッパの中の黒猫と見比べた。雨に濡れみすぼらしくなってしまった飼い猫と、今目の前にいるスーツ姿の男は確か、同一人物だったと思っていたのだが。 「あれ?……り、リヴァイ、さん?」 「……」 「なんで、人間に……?」 「お前こそなんなんだ……さっきから人の名前何回も叫びやがって……」 「え?」 「お前は、俺の事が嫌いじゃなかったのか」 「え?」 そう言ってリヴァイはエレンの元に歩み寄り、カッパの中の黒猫を覗き込んだ。 「猫を探してたのか」 「え、あ、うん……」 「……猫に、俺の名前付けてるのか」 「ち、違ぇよ!これはレビちゃん!」 「レビちゃん?」 「……」 「可愛いな、レビか」 リヴァイは、にこっと見たことのない柔らかい表情で笑う。 「お、お前、猫好きなの?」 「は?猫を嫌いな奴なんていねぇだろ」 「そ、そうかな……」 「傘壊れてるじゃねぇか」 「え?」 「家、近いのか?送るから入っていけ」 「え?で、でも……」 「猫が濡れるだろ。行くぞ」 二人の姿を見上げながらカッパの中の猫は「ミャア」と鳴いた。 END |