2 このまま、俺はずっと猫のままなのだろうか。 そう思いながら眠りについたが、案外そんなことはなかった。 朝目を覚ますと、隣にいたエレンが目覚ましの音とともにがばりと起き出し、パンを口にくわえながら「おとなしくしてろよ」とキャットフードを準備して会社へ出掛けてしまった。 慌ただしい朝の時間に怒濤のように準備を済ませたエレンを呆然と見送り、さてどうしたものかとベッドに丸くなる。 会社へは休みの連絡も入れることができない。エレンに何とか伝えてもらえればいいが、そんなことして自分の正体がばれるのは嫌だし、そもそもエレンにだって伝える手段がない。 「ミャア」 ふとキッチンの窓を見上げると、鍵は猫の手でも何とか開けられそうな簡易な造りになっている。よじのぼり、窓をこじ開けて、塀伝いに一階へ下りる。 そこで、はっと視界が変わったことに気が付いた。地面との距離が遠い。両手に目をやると、そこには人間の手のひらがあった。 いつの間にか、昨日と同じ人間の姿に戻っていた。 「おはようございます」 時間ぎりぎりに現れた俺を周りは物珍しそうな顔で見た。 スーツは昨日と同じで、手には鞄と持って帰ったはずの傘。風呂に入った形跡はあったから、不潔という訳ではない。同僚達は特に気にした様子もなく、適当な生返事を返して各々の仕事に戻った。 イスに腰掛けながら、頬をつねろうとしてやめた。どこからどこまでが夢なのかわからないが、とりあえずこれは現実のようだ。昨日と同じ机。昨日のやりかけの仕事のメモ。いたるところに貼ってある細かい字が書かれた付箋。昨日の帰り際の記憶通りだ。 「……」 やはり夢ではない。なんだこれ。一体俺はどうしちまったんだ。 今日は職場で、エレンとは顔を合わせなかった。エレンとは壁を隔てた向かいの部署にいて、用事がある時にしか奴は俺のデスクを訪れない。 顔を合わせても、今日はどんな顔をしたらいいのかわからなかったからほっとした。 いつもなら、今日はエレンに会えなかったと寂しく思うところだったのに。 怪奇現象は、まだまだ続いた。 普段と変わりなく会社へ行き、仕事をこなした帰り道。 鞄を片手に道を歩いていたら、昨日と同じ場所で視界が変わった。背丈が縮み、地面が一気に近くなる。一瞬転んだのかと思い驚きの声をあげたが、口からは「ミャア」という鳴き声しか出なかった。 「レビちゃん!いなくなったかと思っただろ!」 日が沈み、夕暮れに照らされたボロアパートの扉をカリカリとひっかくと、すぐに血相を変えたエレンが飛び出してきた。見上げる俺を抱え込み、おーよちよちと言いながら部屋の中へ入り込む。 こいつは俺のことを生まれたばかりの子猫だと思っているらしい。心配していたようだった。ちくしょう、そんなに小さいか。 「レビちゃん、心配したよ……家の窓が開いてたからさ、もう戻ってこないかと思った」 「ミャア」 「もう。けっこう探しちまっただろ」 「ミャア」 「まぁ、レビちゃんはうちの猫じゃないから……どこへ行こうとレビちゃんの自由なんだけどな」 そう言って、くっ、と我慢するような声を漏らし目を逸らす。飼いたいという欲望と戦っているらしかった。ミャア、と尻尾を揺らすとくそう!とたまらなそうにまた胸の中に抱き込まれてしまう。そのまま居間でひとしきり撫で回され、じゃれ合った。 エレンはキッチンへ行き、今朝俺がよじ登って外へ出た窓を少しだけ開け、隙間を作る。後ろをついてきた俺を振り返りながら言った。 「レビちゃん」 「ミャア」 「ちょっと不用心だけど、ここ開けとくよ。うちは二階だけど、塀からよじ登って入ってこれるだろ?」 「ミャア」 「いつでも出かけていいし、いつでも帰ってこいよ。レビちゃんにも色々付き合いがあるだろうから」 「ミャア」 猫の付き合いってなんだよ。 そう思いながらも、俺は首を傾げて返事をした。 その晩は、一緒に風呂に入った。 こわごわだったが、エレンに助けられながら湯船にも浸かった。「レビちゃんは風呂が好きだなー」と感心するエレンの、水に濡れた肌から目が離せなかった。湿って額に貼り付いた前髪と、露わになったきれいな顔の輪郭。 わしゃわしゃと泡にまみれて洗われると気持ちがいい。泡まみれの体を面白半分でエレンに擦りつけると嬉しそうな声があがった。 俺が、風呂が好きだとわかったのか、その日からは二人(一人と一匹か)で風呂に入るのが日課になった。 「あ、どうも」 「……」 顔をあげると、書類を片手に持ったエレンが感情の読めない表情で立っていた。無言で差し出されてた書類を見た途端、それに気がついて眉が下がる。書類の締切が、過ぎている。はぁっとため息が出た。俺はエレンが好きだ。だが好きだからといって、それとこれとは別だった。 「イェーガーさん」 「はい」 「これ、昨日までですけど」 「わかってますけど……クレーム処理してたんですよね」 「それとこれとは、別でしょう」 「はぁ」 「……」 「そうですね、すみません」 それだけ言って、すぐに立ち去ってしまうエレンの後ろ姿を見送った。家での態度が嘘のようで、冷たい口調にいつも以上のショックを受けた。 扉が閉まるまでの間、その拒絶するような背中を呆然と目で追ってしまった。 「くっそーリヴァイの野郎…お前がやれって言ったくせに!こっちは大変だったんだからな!」 「……」 帰宅したエレンの話題の中心はさっきから、隣の部署のいけすかない同僚の話だった。 ビール片手に猫に向かってくだをまく飼い主の話を横で聞きながら、その一つ一つに律儀に傷つく 仕方ないだろう。好きには好きだが、仕事で公私混同する訳にはいかない。他の奴にだって締め切りは守るようきつく言ってるんだから、お前にだけ優しくするのも違うだろ。 そう言い訳するが俺の声はミャアミャアと甲高い鳴き声に変わるだけで、何もエレンには届かない。 「ふー、愚痴ってもしょうがねぇか」 「……」 「あれ?レビちゃん、どうした?元気ねぇな」 ひょいっと抱えられて顔をのぞき込まれるが、ふいっとそっぽを向く。拗ねた俺の機嫌をとるようにエレンは「どうした?どうした?」と喉を撫でる。うるせぇな。落ち込んでんだよ。 「……ところでレビちゃん。今日はお話しがあります」 「……ミャア」 「引っ越そうと思ってるんだ」 「……」 唐突な申し出に、エレンの顔を不思議そうに見返した。 エレンは鞄の中からゴソゴソと何かを取り出して、不動産屋からもらってきた物件のパンフレットを広げ始める。 「レビちゃんは大人しいからいいけど……一応ここ、ペットNGだからさ」 「……」 「前からこのボロアパートにも嫌気がさしてたし、今の給料ならもうちょっとまともなところに住めるし。これを機に引っ越そうと思うんだ」 ほら!とペットOKの文言が踊る物件を見せびらかす。バカか。俺は猫だっての。 「どれがいいかな〜」 「ミャア」 「なぁ、レビちゃんはどれがいいと思う?」 「……」 しょうがねぇ奴だな。こんなの見たって猫の俺がわかるわけないだろ。でも、できたら日当たりの良い部屋がいい。築5年以内がいい。なんなら家賃半分出したっていい。そうすれば二人でもっといい部屋に住める。今住んでる俺の部屋はほとんど使ってないから引き払って。なんなら、お前より多めに出してもいいぞ。 「レビちゃん、猫の縄張りとかあんのかな。このへんに友達とかいんの?離れるのは嫌か?」 「ミャア」 友達?いねぇよ。大体、この辺じゃ猫は見かけたことがない。縄張りなんて気にしなくていいから、通勤に便利な場所にしよう。俺も会社に近い方がいい。 「物件、一緒に見に行くか〜」 「ミャア!」 「おっ、レビちゃんも乗り気だな〜!」 すっかり機嫌を直した子猫の様子を見て、エレンも上機嫌だった。 なぁ。なぁ、エレン。キッチンはコンロが二口だと便利だぞ。お前、湯を沸かすのにしか使ってないだろ。家事はまかせろ。掃除は得意だし、料理もできないことはない。毎朝、朝飯くらいなら作ってやれる。夜も遅くならなければ、晩酌のつまみくらい用意してやれる。家賃も払えるし料理もできるし掃除もできる。 だから、人間の俺じゃ駄目か。 それじゃ、駄目か。駄目だよな。 そういう問題じゃねぇんだろうな。わかってんだよ。 「なぁ、レビちゃん」 「ミャア」 「うちの猫になってくれるか?」 「……」 「レビちゃん?」 「……ミャア」 頷くようにそう鳴くと、肯定の意図が伝わったらしい。エレンは嬉しそうに目を見開いた。 「いいのか?本当に?」 「……ミャア」 「嬉しいな〜。今度、可愛い首輪買ってやるからな。鈴がついた可愛いやつ」 「ミャア」 これでレビちゃんはオレの猫だ〜!とバカみたいにエレンは喜んだ。抱えあげられて、昔ながらの電灯の下をくるくる回りながらベッドにダイブ。こつんと額を重ねて、くすくす笑った。 俺の猫?まったく、こいつはそうやってまた馬鹿なことを。鈴なんかなくたって俺は最初からずっとお前のものだ。初めて会社で顔を合わせた時から、ずっと好きだったんだから。こっちは一目惚れなんだからな。お前が俺の前に現れた時から、俺はずっと、お前のものだったんだ。 「レビちゃん一緒に風呂入ろうか〜」 「ミャア」 すっかり日課になった入浴のため、しっぽを振りながらエレンの後をついていく。 その日の夜も、二人で同じベッドに入りぴったりと体をくっつけ合って眠った。 撫で回されて、抱き締められて、風呂にも入って、着替えも見て、一緒のベッドに入って。毎日が幸せでどうしようもない。 エレンの隣で丸まりながら、整った寝顔に顔を近づけて頬ずりをする。むうっ、と目を開けるエレンがたまらなくて、何度も何度も、唇を舐めて。 そうして甘えるとエレンは目をぱちぱちさせながら、もーレビちゃんはそこ好きだなぁ、と笑う。本当は……人間の姿だったら、舌だって入れたい。もっと下世話な、先のことまでしたい。でも俺は猫なんだから、それ以上は求めちゃいけない。 伸びてきた指に優しく噛みついて、じゃれつきながら甘えた声で鳴く。 普段は髪に隠れた白い耳も舐める。 布団に潜り込んで、腹のあたりでうずくまって眠る。エレンは昔から下着で眠るのが習慣になっているらしく、寝るときは毎日下着一枚だった。時々、布団の奥にまで潜り込んで背中を下着に押し付ける。膨らみが、暖かくて気持ちいい。自慰はあまりしないようだ。俺に隠れてしているのかもしれないが。 気にしなくていいから俺の前でしてくれねぇかな。そうやって、また変態みたいなことを考えてしまう。 背中を向けて、腰のラインにぴったりと体を合わせて眠る。伸ばした足を太股に絡ませる。エレンも応えるように素足をすりすりとすり寄せてきた。 気持ちがいい。恋人みたいだなぁ、なんて。 また欲がでる。 人間の時でもこうしていられたらいいのに。人間の姿の俺だったら、こんなことをしてたら蹴飛ばされるだろうな。 ベッドからも部屋からも追い出されて、徹底的に嫌われてしまうだろう。 ああ、猫でよかった。自分の身に起きた怪奇現象に全力で感謝をささげる。 神様、俺は、猫になれてよかった。 「……」 隣には見覚えのあるツーブロック。 なんだこれ。まだオレは夢を見てんのか。 昨日の記憶ははっきりしている。最近飼い始めた子猫と風呂に入って、一緒に寝て、唇をぺろぺろされているうちに気持ちよくなって眠ってしまった。 だから隣に子猫ではなく、人間の、しかも女ならまだしも、がっしりとした男の肩が、それも、ほかのよく知らないような奴ならまだしも、よりにもよって以前から気に食わなかった同僚の後頭部にしか見えないというこの事実を、オレはなかなか受け止めることができなかった。 なんだろうこれ。情報処理能力が追いつかない。リヴァイにしか見えないその後頭部をとにかく見つめることしかできなくて、その内そいつはもぞりと身じろぎをして、ぐるんと気だるげな寝返りをうち、薄目を開けてオレの姿を確認した。 隈っぽい、目つきの悪い鋭い目。見間違えるはずもない。やっぱりリヴァイだ。いつも会社で、オレに執拗に嫌みをたれてくる隣の部署のむかつく野郎だ。第一印象から気に食わなかったが、むこうはむこうでオレのことが気に入らないらしい。明らかに、他の社員に対する態度と違う。いつも因縁を付けられるのが嫌だった。 大嫌いだから、仕事以外で話したこともない。一緒に飲んだこともないし、万が一そんな機会が訪れたとしても間違っても自分の部屋に入れたりしない。 それなのにこいつは、人の家の一人用のシングルベッドの半分を占領し、裸の体が狭く密着していた。 驚いて何も言えず、口を開けてリヴァイの様子を見ていると、オレと目が合った途端に会社では考えられないくらいふぬけた表情でへにゃりと笑い、甘えるように擦りよって、それはそれは嬉しそうな声で「えれん」と吐息混じりに囁きながら、寝ぼけたように唇を近付けて、……お、おい、うそだろ! 「なにすんだよ!?」 「!?」 ばしっと頬をひっぱたくと、目がさめたのか細い目を大きく見開いた。叩かれた頬を触ると、自分の手の形に驚いたような顔をして、ぺたぺたと顔を触って確認している。なんだこいつ。まるで人間であることに驚いているみたいな。 「お前っ、なんで!?つーか、不法侵入だし、えっ!?」 「……」 「なんでお前が!?れ、レビちゃんは!?」 「……」 しまった、という顔をしているリヴァイを見て、最悪の可能性に気がついた。さっきこいつは唇を舐めようとした。それは、レビちゃんがよくやる猫にしては謎の求愛行動で、今しがたこいつがオレにそれをしようとしてたってことは。 「まさか、リヴァイ」 「……」 「お前、レビちゃんか……!?」 「……」 声が出なかった。 目が覚めたらいつも通りエレンが隣にいたから、おはようの挨拶代わりに顔でも舐めてやろうかと舌を近づけた。 拒否されるなんて思わなかったから、平手が飛んできてばちんと衝撃が走り、起き抜けだった俺は驚いて目を見開いた。 おかしい。昨日まで俺はレビだったはずだ。なんで今日に限って元の姿に戻ってしまったのか。はっと、時計を見る。壁掛け時計の時間を見ると、いつもの出勤時間だった。 そうか、時間か。 今日は休日だったからエレンとゆっくり過ごせると思って、寝過ごしてしまった。 ようやくわかった。これは、時間制のものだったのか。 「り、リヴァイ、さん……」 「……」 「……レビちゃん?」 エレンがおそるおそる名前を呼んだ。言い逃れ、できない。 走馬灯のように、この数日の記憶が頭の中を巡る。それはエレンも同じらしく、目を白黒させていたが徐々に顔色が真っ青に変わった。 「レビちゃん、ただいま〜」 「ミャア」 「おいおい、着替えてるんだから見るなよ〜」 「ミャア」 「レビちゃん聞いてくれよ〜、今日もリヴァイの奴がさぁ」 「ミャア」 「レビちゃんのために新しい缶詰め買ってきたぜ。アーンしてやろうな」 「ミャア」 「レビちゃん、一緒にお風呂入ろうか」 「ミャア」 「レビちゃん、今日も一緒に寝よー」 「ミャア」 「もう、レビちゃんはぺろぺろすんの好きだな〜」 「ミャア」 「レビちゃん大好きー」 「ミャア」 「ずっと一緒にいてくれよな」 「ミャア」 「あの」 「…」 「リヴァイさん」 後ろに立っていたスーツ姿の男を見上げ、リヴァイは固まった。つい先日、隣で目が覚めて気まずさに耐えかねて、とりあえず頭を整理するから一旦出ていくように言われ、それきり顔を合わさなかった飼い主が神妙な面持ちで立っている。 「話があるんですけど」 ああ、ついにこの時がきたか。 リヴァイは重い腰をあげて二人でデスクを後にした。 「あなたのその…猫になれる、体質?とかは誰かにばらしたりする気はないんで安心してくださいよ」 「……悪い」 誰もいない廊下に呼び出され、小さな声でエレンは話を続けた。 リヴァイは自分からは口火が切れず、頭を抱えて下を向いていた。 「本当はそれも聞きたいんすけど、まぁあなたにもいろいろと事情はあるんでしょうし」 待ってくれ。俺も事情はわからない。 この怪奇現象が、時間的なものだということしか俺にはわかっていないんだ。 だから俺が猫になれることを利用してお前の部屋に侵入した諸悪の根元みたいな顔をするなよ。俺だって困ってるんだよ。 「オレが言いたいのは、そこじゃないんですよね。それはわかっていただけると思うんですけど」 「……」 「百歩譲って…百歩譲ってだな、リヴァイ」 あ、ついに面と向かって呼び捨てにされた。ずっとリヴァイさんだったのに、すっかり格下げされてしまったようだ。 「お前が猫になれるとしても、それでその…なんでオレみたいな男の家にに泊まり込んで、男といちゃつく趣味でもあんのか。」 「……」 「オレ、何回お前とキ、キスしたんだよ…」 「……」 弁解のしようがない。 好きだから。キスしたくて、猫になったらようやく近付けて、チャンスだったのでキスしてしまいました。それ以外に理由はない。だから弁解のしようがないんだ。 「あ、ありえねぇ」 「……」 「気持ち悪い」 「……」 その後、なんと答えて話を終えたのか、記憶になかった。 去っていくエレンの後ろ姿を眺めて、悲しい気持ちが押し寄せる。 気持ち悪い。それで十分だった。それがエレンの答えだった。 続く |